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2006.12.29

村上元三さん『田沼意次』(その1)

Photo_264村上元三さん『田沼意次』は大著で、毎日新聞社[愛蔵版](1997.9.30)は本編が2段組で781ページにもおよんでいる。
もともとは、『世界日報』に770回連載された。1回分が原稿用紙3枚とすると、3,770枚! (『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)。

史伝に近いものとしては、おそらく、村上元三の代表作といってさしつかえなかろう。
『田沼意次』の[あとがき]に、作家ご当人も書いている。
「これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱った人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤をしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした」

検分の箇所は、55章あるなかの第46章からの[将軍不豫][落葉]][日光山神符][その前日][上意][転落]の5章となろう。

[将軍不豫]は、天明6年の正月から始まる。

年が明けて天明六年の正月七日、若菜の祝儀の朝から、江戸市中は大雪に見舞われた。
曲輪(くるわ)うちの大名たちの登城の道は、すべての屋敷から小者が総出で雪を払ったが、休みなく雪が降り続き、午(ひる)ごろには、もう五寸(約15cm)ほども積った。

『徳川実紀 第10編』(吉川弘文館 1982.2.1)は、
○七日 若菜の佳儀規のごとし。(略)けさ大雪ふりければ、三家使もてもの奉り御景色伺はる。(日記)
○八日 けふ雪なをふりやまず。(日記)
○十日 東叡山  諸廟に御詣あり(略)四十三人ほ簿に列り---。(日記)

村上さんが降雪を採りいれたのは、意次失脚を年初に暗示したかったのかも。

八日も九日も雪はやまず、十日にはその雪の中を将軍家治(いえはる)は東叡山寛永寺の諸廟へ詣でた。
(略)
この日、田沼主殿頭意次は、江戸城御用部屋にとどまって留守の役であった。
「上様、雪の御礼拝にて、いかがであろうかな」
同じ留守の松平周防守康福(やすよし)へ向かって、意次は話しかけた。
(略)

松平(松井)康福(浜田藩主 6万4000石)は、12月11日[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、意次の嫡男・意知(おきとも)が刺殺されるや、嫁していたむすめを引きあげた仁である。
そして、意次の心配どおり、風邪気味をおして参廟した家治は、帰城するなり臥所へついた。
12日、松平定信の生母の田安家・宝蓮院が66歳で逝去。
弔問に行った意次は、辞去する玄関先で、やってきた定信と鉢合わせした。

「なにかと宝蓮院、お気にさわることをいたしたようなれど、お許し下されたい」
と定信が言ったのが、意次に対する皮肉のように聞こえた。
それを意次は聞き流して式台から草履へ足をのばした。
乗物が神田御門外の屋敷へ向う途中、意次は、さっき眼にした宝蓮院の死顔を眼の前に思い浮かべた。
宝蓮院としては、松平定信が溜の間詰になり、老中になる足がかりをつかんだのだから、さぞ満足であったに違いない。
(略)

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コメント

村上元三さんの『田沼意次』(全3部、講談社文庫刊、1991年第3刷)を近所の古書店で、今日入手しました!
お正月にゆっくり、読むつもりです。

投稿: ぴーせん | 2006.12.29 11:58

ちなみに、下巻の終わりに、
『本書は、一九八二年九月一日より、八四年十一月五日まで「世界日報」に連載され、一九八五年五月に毎日新聞社より、全三巻で刊行されたものです。』
とありました。ご参考まで。

投稿: ぴーせん | 2006.12.29 12:09

>ぴーせん さん

わっー、ありがとうございました。
お蔭で、胸のつかえが一つとれて、新年が迎えられます。

お読みになったら、いえ、途中でも、お書き込みください。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.29 15:30

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