村上元三さん『田沼意次』(その2)
村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞 1997.9.30)の続きに入る前に、きのう---12月29日---の(『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)に対して、ミク友の「ぴーせん」さんから、
「近所の古書店で講談社文庫全3巻 1991年第3刷を今日入手したところ、下巻の終わりに、[本書は、一九八二年九月一日より、八四年十一月五日まで『世界日報』に連載され、一九八五年五月に毎日新聞社より、全三巻で刊行されたものです]、との書き込みがありました」とコメントをいただいた。
おなじくミク友LDさんからも「1982年9月1日より1984年11月5日までの連載」との報が入った。
ネット時代の知的連携の有効さとありがたさを、しみじみと感じた次第。
もっとも、田沼意次を陰の主人公とした『剣客商売』の連載開始は『小説新潮』1972年新年号からだから、池波さんの田沼観は村上元三さんのこの小説に先行していることがはっきりした。
天明6年(1786)の田沼意次をめぐる周囲の続きに入る前に、も一つ---。
『徳川実紀 第10編』7月26日の項に、
○西城徒頭長谷川平蔵宣以(のぶため)先手頭となる。(日記)
とあることを書き添えておきたい。
この人物、小説の「鬼平」である。
西丸の徒頭(かちのかしら)の辞令をもらったのは、1年半前の天明4年(1784)12月8日で、ふつうは10年は勤める役職なのに、1年半で先手組頭---しかも、弓の第2組への抜擢。
弓の第1組と第2組は別称[駿河組]ともいい、由緒があり格が高い組なのである。
ついでだから書き留めておくと、平蔵宣以の亡父・平蔵宣雄(備中守)と嫡男・平蔵宣義(のぶのり。小説では辰蔵。山城守)が就いたのは弓の第8組の頭だった。
平蔵宣以の抜擢の意味を別の言葉でいいかえると、先手組頭の役料は1500石格、徒頭のそれは1000石格---ーそれぞれ、家禄との差額の足高(たしだか)が給された。
長谷川平蔵のこの大抜擢に、田沼意次の示唆があったとの確たる史料はないが、推測しうる噂はある。いつか言及する。
六月に入ってから、関東地方一帯にかけて雨が降りはじめた。
はじめのうちは、長雨にはなるまい、見ていた司天台の観測は外れて、十日になっても降りやまず、各所の河川はあふれはじめ、印旛沼の工事現場からも勘定方の役人が早馬で江戸へ知らせて来た。
せっかく水路に建設した堰(せき)も次第に崩れているという。
(略)
斉藤月岑(げっしん)『武江年表』(東洋文庫)から、江戸の水害について、長めに引く。
○早春より四月の半ば迄、雨なく、日々烈風にして、諸人火災の備へのみにて安きこヽろなし。
○五月の頃より、雨繁く隔日の様なりしが、七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水とむ成れり。
(十三日、十四日より牛込、小日向出水。石切橋辺もっとも洪水にて、柳町、戸崎町家潰れ、江戸川水勢すさまじく、橋の流れたるもあり。
神田上水掛樋(かけどい)危ふく、大勢の人夫を以て防がしむ。後には樋の上一尺程水来たりしが、十七日、十八日頃より少しずつ減じたり。
目白下、山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。
昌平橋、筋違橋危ふく、和泉橋は仮橋故流れたり。
十五日より、大川千住出水。小塚原は水五尺もあるべし。千住大橋往来留り、掃部宿(かもんじゅく)軒迄水あり。
本所、深川は家屋を流す(本所三ッ目の長谷川平蔵邸も浸水したろう)。
平井受(請)地辺、水一丈三尺とい云ふ。
大川橋、両国橋危ふく、十六日往来留る。十七日昼、新大橋中の間四間流失。永代橋、二十間程流失。
隅田堤三間程弐ヶ所押し切れ、男女江戸へ向け、両国橋を渡り逃げ着たり、浅草辺は船にて往来せり。
吉原は床へ水上る。雑司谷、大水にて怪我人多し。
四谷、牛込辺は高き所なれども、一両日水たたへて、難儀せり(以下略)。
月番老中の水野出羽守は、すぐ大老や老中たちと相談をして、作事奉行、普請奉行、先手頭も動員し、大名火消しや定火消番の旗本たちにも充分の用心を命じた。
(略)
先手組屋敷と組頭の邸宅のほとんどは、高台にあったから警戒の任につけたろうが、長谷川平蔵邸だけは水災のもっともひどい深川に接した南本所にあったから、人ごとではなかったろうと想像する。
いっぽうの老中・田沼は、率先して対策の指揮をとった。しかし---、
印旛沼の干拓は完成し、てまは検見川(けみがわ)までの運河を切りひらいている最中だが、この雨で利根川の水が十倍にも増え、せっかく作った堰もすべて流れたという。沼も川も一面の水となり、水をかぶったおびただしい数にのぼるだろうし、溺死した者の数は、まだ調べるどころではあるまい。
意次が長い年月をかけた計画も、この雨ですべて流されたわけであった。
(略)
「庶民は、政事(まつりごと)がよろしくないゆえの天災、と風説を立てましょう」
うっかり言ったのであろう、牧野越中守が、いそいで老中たちの顔をみた。
「庶民は、おのれたちの立つる風説に、責めを負わずとも済みまする」
と松平周防守康福が、牧野越中守の失言を取りなすように、微笑を浮かべた。
「天災も政事がよろしくないために起る、と申しておればよいのでござるからの」
「われらは、責めを免がれるわけには参りませぬ」
と意次は、はっきり言った。
「いまの市中の出水は、あらかじめ防ぐ法なかりしや、と省みるを忘れてはなりますまいな。天災ゆえ是非もない、と申すのは、老職としての勤めを怠ることでござる」
御用部屋の人々は、黙りこんでいた。
(略)
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コメント
恐縮です!
池上駅前の商店街に最近できた、小さな古本屋、結構マニアックなんですよ。二坪あるかないかの小さな古本屋ですが、親爺が時代物を取り揃えてます。
そこで先日、見つけた「田沼意次』。銀座でのちゅうすけさんのスピーチで、興味を持った矢先だったので、出会いに驚きました。
今日から、読み始めましたが、面白いです。楽しみ。
投稿: ぴーせん | 2006.12.30 19:17
ああ、そういう古書店がご近所にあるといいですね。
いろいろ、気がおつきになったことを教えてください。
投稿: ちゅうすけ | 2006.12.31 04:12