堀切菖蒲園(2)
堀切菖蒲園の由来を記した『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)に、
名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。
そして、珍しい品種を、出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾(さきんご)から譲りうけた、とつづけている。
万年録三郎の万年姓に覚えがあった。
長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女---小説では久栄(ひさえ)---の実家の父・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 船手組 廩米200俵)の先妻が、万年伊織覚長(あきなが 書院番士)のむすめであった。
(大橋与惣兵衛の個譜 上の赤○=先妻 下の赤○=久栄)
徳川幕府における万年一族は、6家。
『寛政譜』の系譜書きにいう。
先祖は北面の侍にして文治年中(12世紀後期)鳥羽院より万年の称号を賜ふ。のち後堀川院の御宇故ありて遠江国に下り、代々榛原(はいばら)郡川尻に住す。
(万年一門の家譜 上から2段目の左の緑○=頼済 下から2段目の赤○=大橋親英の先妻 最下段の緑○=六三郎頼豊)
本家の七郎右衛門高頼(たかより)が東照宮に仕えた。廩米100俵と月俸10口。この家のこととをしるしているのは、10代目・三左衛門頼度(よりのり の息に頼済 よりずみ がいるからである)。
さて、堀切菖蒲園の伊左衛門に菖蒲の珍種を与えたという万年録三郎だが『寛政譜』にあるのは、万年六三郎頼豊。しかし、住まいは本所割下水ではなく、牛込赤城明神下石切橋通横町。廩米200俵 新番士。
上の個譜に、
天明4年(1784)4月7日、さき(3月24日)の当番のとき、同僚の士・佐野善左衛門政言(まさこと 新番士 30歳代 500石)俄かに刀を抜きて田沼山城守意知に傷く。頼豊ら政言を止めんとして席を立つといえども、番所を離れん事を憚り、席に帰るのよしを申す。しかれども一列のものの狼藉をみながら制し止めざるの条、越度なりとて小普請に貶し、出仕とどめられ、5月6日ゆるさる。
現場近くにいた幕臣で罷免された士を、藤田 覚『田沼意次』(ミネルバ書房 2007.8.10)は、万年頼豊をふくめて新番士4名、目付7名のうち2名をあげている。
花菖蒲から、平蔵宣以の妻女につながり、ひいては田沼意次・意知へつながってしまった。
『鬼平犯科帳』を深読みすることは、その前後の江戸期のもろもろをうかがうことでもある。
そうだ、本所割下水の旗本・万年録三郎にふれないと。
万年一族で割下水に屋敷があったのは、一門の家譜のところにあげた新三郎頼済だが、時代がすこしさがる。
『江戸名所図会』で、絵師・長谷川雪旦は、葛西の農民たちの花づくりの風景を残してくれている。
【参考:】この絵[葛西里]を大きく観る。
まことに風雅な時間が流れている。
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コメント
物凄い研究を拝見した気分です。
当時は身分社会で、家格、家同士で
連なっていて事件の余波ってのは、
思わぬところに拡がっていったの
ではないかと思います。
WWWではありませんが、リアルなweb oflifeのような感じ。
それぞれの登場人物の人生が、蜘蛛の
糸のように絡んでいて、どこがどう
繋がっているのか現代から読み解くのは
根気がいるのではないかと思います。
広瀬隆さんなどは、家系図マニアな
ところから、陰謀チックなところを
読み解く書籍を書いていますが、
鬼平を読み解く方が、ずっと面白い
ですね。ではでは。
投稿: einen | 2008.09.07 19:51
>einen さん
このような史料にまで、お目をとめていただき、ありがとうございます。
こういう些細な史料は、関心さえ持続していれば、偶然に見つかるものですね。
とにかく、長谷川平蔵まわりの史料はとぼしいのですから、まわりから攻めるよりほかありません。
ぼくは、時代小説家の力量(知識・判断)を田沼意次と松平定信をどう見ているかで判定しています。
今後ともご叱正ください。
投稿: ちゅうすけ | 2008.09.09 05:58