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2008.09.20

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(2)

「お願いの儀がございまして---」
驚き顔で白い顎ひげをしごく手をとめた竹中志斉(しさい 60歳)師に、銕三郎(てつざろう 23歳 のちの鬼平)は、いつになくかしこまって頭をさげた。

長谷川の頼みとは、はて、なんじゃろうかの?」
「『孫子』[虚実篇]を写本させていただきたく---」
「ほう。『孫子』をな」
志斉師は、ますます驚き顔になった。
銕三郎のことを、学問嫌いとばかりきめこんでいたからである。

「どうのような心境の変化かな?」
それには応えず、
「先生。ご所蔵でございましたでしょう?」
「あるにはあるが、貸し出すわけにはいかぬぞ。ここで写本する分にはかまわぬがの」

「拙の用ではないのです。じつは、ご公儀にかかわることでありまして---」
「『孫子』 がか---? はて、面妖な---」
「火盗改メへ本役のお頭・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)さまからの、たってのお言いつけで---」
「そのような仔細ならば、いたし方ない。して、なんヶ日ほどかの?」
「3日---いや、5日で写本してご返却いたします」

咄嗟(とっさ)に、「5日」と答えた銕三郎のおもわくを推察すると、こうだ。

2日後に、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、上高井土(かみたかいど 上高井戸)から下谷(したや)・和泉橋通りへやってき、銕三郎に説諭されたからと言い、大橋家に掏(す)った金を返却するはずである。
すると、同家の息女・久栄(ひさえ 16歳)が、そのことを報告に、またも、長谷川家を訪れよう。
その機をとらえて、麗筆の久栄に、『孫子 第6章 虚実篇』を写してくれるように頼む。
そうすれば、写本も持ってきたときにも会える。
断られたら、自写すればいい。
それから返しても、5日あればたりよう。

まんまと借り出した[虚実篇]の出だしは、

孫子曰く、先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後(おく)れて戦地に処りて戦い趨(はし)る者は労(ろう)す。故(ゆえ)に善(よ)く戦う者は、人に致(いた)すも人に致されず。能(よ)く敵をして自ら至ら使(し)むる者は、之(これ)を利すればなり。
(敵が戦場に陣を構える前に、到着した待ちかまえて軍は気力が満る。逆に遅れながら急いでたどりついた軍士は疲労が回復せず、士気もあがらない。だから、有利に戦おうとするならば、先手をうって敵をこちらのおもうままに動かし、敵のおもうままに動かされない)。

なにごとも先手をとれ、といういうことであろう。
それには、相手の手のうちを読む先見性が必要である。
そして、誘導する計りごとも。
織田信長公が今川義元どのの軍勢を狭い桶狭間へ誘いこむように仕組んだのもそうだ。ふっ、ふふふ。計ってしたことではないが、久栄どのが再度訪問するかもしれないような手だてになったのも、まあ、敵をしてみずから至らしむ---かもな)

参考】藤本正行さん『信長の戦争』(講談社学術文庫 2003.1.10)

正月の神田鍋町の海苔問屋〔岩附屋〕の押し込みでは、火盗改メは3組とも、後手々々にまわり、賊はあっさり逃げおうした。
(いや、まてよ。賊の逃げ道の探索は聞いていなかった---加藤半之丞 30歳)同心にたしかめることにしよう)。

翌日、まず、牛込(うしごめ)納戸町の長谷川邸に於紀乃(69歳)を訪ね、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が武田方の軒猿(のきざる 忍び)のゆかりの者であることを報告することにした。

納戸町へ行くのに、ちょっと両国橋までまわり道して、和泉橋通りの大橋家の前をすぎてみたが、久栄は出てこなかった。

ちゅうすけ注】大橋家は、久栄の父・与惣兵衛から2代あとに、和泉橋通りから大塚へ屋敷替えになっているので、鬼平のころの地図には載っていない。
鬼平犯科帳』文庫巻3[むかしの男]p258 新装版p270 に本所・入江町からその後小川町へ移転したとあるのは、小説的虚構。気にするほどのことはない調査不足。

長谷川久三郎正脩(まさむろ 57歳 寄合 4050石)の広大な屋敷の隠居部屋である。
くる日もくる日も、季節の花々のほかはなんの変化もない屋敷で暮らしているこの老女は、武田の忍びのおんなにことのほか興味をもったようで、2朱(2万円ほど)で求めた土産の印伝の紙入れには、ほとんど関心をしめさず、銕三郎をがっかりさせた。
正脩は、別家からの養子で、於紀乃の実子ではない。
於紀乃は産まなかった。
他の腹が3人の子をなした。

もう9年ごし、甲府勤番支配をしている甥の八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)に文(ふみ)をやって、もっと調べさせると、歯のない口で笑い、
「かっ。かかか。おもしろうなってきましたわい」
と喜んだ。
丹後守さまは、お忙しそうでございましたが---」
「なんの、なんの。山流しの身が忙しいものか」
勤番支配も、老叔母にかかっては、たまったものではない。
まあ、「山流し」は言いえているとしても---。

納戸町から中根坂を登り、左内坂を下ると、市ヶ谷の濠(ほり)に突きあたる。
そこが市ヶ谷ご門。

ご門からまっすぐ南へなだらかに下り、突きあたりが表六番町の通り。
左に曲がると、本多邸はほんの1丁先である。

火盗改メの役宅も兼ねている本多邸の門番が顔をおぼえていて、書留役(かきとめ)役の加藤半之丞(はんのじょう 30歳 30俵2人扶持)へ、すぐに通じてくれた。

出てきた加藤同心は丸い顔をほころばせ、
「市ヶ谷ご門わきに葭津張りの屋台茶店が出ていたでしょう? あそこなら、ゆっくりできます」
「それより、市ヶ谷八幡の境内の料理屋〔万(よろず)屋〕で、軽く---」
「いいですな。書類をしまってきますか、待っていてください」

ちゅうすけ注】市ヶ谷八幡の境内料理茶屋〔万屋〕は、『江戸名所図会』にも描かれている店である。『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]では、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 60がらみ=)配下の女盗・おみねが座敷女中として働いていた。また、巻6[狐火]では、ここがなじみの鬼平おまさが呼ばれて、2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)とのかかわりを白状させられる。

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(市ヶ谷八幡宮 拝殿のある境内右手の瓦屋根〔万屋〕
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

キャプション:或人の説に、市谷、昔は市の立ちし地なりゆゑに市買ひに作りたりといふ。しかれども詳らかならず。按ずるに、鎌倉鶴岡八幡宮に蔵するところの延文三年(1358)12月22日の(足利)基氏の古証文に、「鶴岡八幡の雑掌任阿(にんあ)申す。武蔵国金曾木彦三郎・市谷四郎等のこと、江戸淡路守押領を止む。正和元年(1312)8月11日の寄進状に任せ、社家に付きて沙汰せらるべし」と云々。証とすべし。社地に儀台(しばい)・楊弓(ようきゅう)の類ありて、つねに賑はし。また社前の大路は四谷への往来にて行人(こうじん)絡繹(らくえき)たり。

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【ちゅうすけ注】明治39年(1906)ごろの市ヶ谷八幡宮門前町
『風俗画報』1906年8月1日号 [牛込区之部 下])

境内の〔万屋〕でなく、門前の店でもよかったが、おみねに敬意を表して。

参照】女賊・おみね 2008年4月30日~[盗人酒屋]の忠助 (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2008年7月22日[明和4年(1767)の銕三郎 (6)
2008827[〔物井(ものい)〕のお根] (1) (2)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (3)(4) (5) (6) (7) (8)

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