大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5)
「銕(てつ)兄(に)さん。このあいだ、どこかで食べておいしかったと言っていた、田にしの酢味噌和(あえ)え、お父(とっ)つぁんが工夫しました。食べますか?」
おまさ(12歳)が、ことさら親しげな口調で、問いかけた。
おまさとすれば、あたしと銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)との仲は、きのうきょう、始まったのではないと、久栄(ひさえ 16歳)にあてつけたのである。
久栄は、聞こえなかったふりをして、おまさの手習い帖を眺めている。
「おお、頼む」
銕三郎が答えたとき、2人づれの早めの客が入ってきて、見慣れない武家むすめ・久栄のほうをじろじろと眺めると、おまさはその視線をさえぎるように立ち、注文をとった。
対抗意識を燃やしながら、早くも、仲間意識も芽生えている。
板場から、亭主の〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳からみ)が察しよく、ちろりと田にしを運んできた。
「のびるをあしらってみました。お口にあいますか?」
箸を久栄へもせた銕三郎が、田にしをつまんだ。
しこしこした歯ごたえ、身の舌ざわりに、ふと、なにかを思いだした。
(はて、この感触は---あ、お仲(なか 34歳)の乳首!)
顔に血がのぼったような気がして、思わず久栄をうかがったが、久栄は、頬をゆるませながら田にしをあじわい、
「母方が、近江の出の井口(いのくち)家の者で、元は浅井(備前守長政)さまに属しておりましたから、田にしは、わが家でもよく膳にのぼりますが、のびるの根まであしらったこの味は、格別でございます」
【ちゅうすけ注】井口家は、徳川秀忠の内室・於江与(およえ)の推薦で幕臣となった。於江与は、太閤秀吉の養女だが、じつは浅井長政の息女。
うなずきながら銕三郎は、けしからぬことをかんがえていた。
(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)
お仲の乳首は、むすめのお絹(きぬ 13歳)と多くの男どもがが吸って、肉もこっちの田にしの身ほどもついているが、処女(おとめ)の久栄どのの乳首は、ちんまりしたほうの田にしほどであろうか。色もあざやかな桃色で---)
客への酒と肴の配膳をすませたおまさが、
「大橋先生は、いつから来てくださるのですか?」
「おお、そのこと、そのこと---」
銕三郎はそう言ってから、いつかの母・妙(たえ 43歳)の言葉をおもいだした。
お仲が座敷女中をしている雑司ヶ谷の料理茶屋「橘屋」でのことであった。
「このお部屋へ入りましたとき、香が炷(た)かれているのに気づきました。先日、銕三郎の着物から匂ったのと同じような香気と、いま、合点しました。伽羅(きゃら)とは異なり、清涼な感じがふくらんでいるやにおもいます。お仲どの、なんという香木でしょう?」
お仲に、こう問いかけた。
お仲と出事(でこと 交合)をする部屋で、脱いだ着物に香(こう)の匂いがしみ、翌日までのこっていることを、妙が言ったのである。
(すると、男女のそれの匂いものころう。もっとも、久栄どのは生(き)むすめゆえ、あの匂いの正体は知るまいが---生きむすめだけに、鼻はするどかろう。5の日のすぐあとは避けよう)
「大橋どの。3の日ごということでいかがでしょう? 拙の道場での稽古も早くあがる日です。3の日ごとの七ッ(午後4時)から小一時間ということでは?」
「私のほうのお稽古ごとは、その時間にはございませぬ」
「おまさ。そういうことに---」
「銕兄さまも来てくださるの?」
「邪魔か?」
「とんでもない。2人ものお師匠(っしょ)さんなんて、豪儀だわぁ」
それまで、3人のやりとりを黙って聞いていた寅松が、泊めてもらっている家が四谷(よつや)なもので、遅くなると迷惑をかけるので---」
腰を浮かせながら、
「親分。明日、三ッ目通りのお屋敷へ伺ってもええでな?」
「昼すぎからなら、いつでも---」
「それでは---」
帰って行った。
そろそろ、客がたて混んできはじめたので、おまさも忙しく動きまわるようになった。
銕三郎は気をきかせて、久栄をうながした。
外は、すでに暮れかけていた。
おまさが、提灯と替えの蝋燭を3本、用意した。
下谷(したや)・和泉橋通りの大橋家まで、銕三郎が送って行くことを、少女らしいませた勘で見通していたのである。
竪川ぞいに銕三郎と並んであるくのも、久栄は、当時の武家のむすめとしては変わっていた。男の後ろから3歩遅れてあるくのが礼儀にかなっているとおもわれていたのである。
「並びませぬと、お話が通じませぬ」
「久栄どの。拙には、敵がおります。暗いところではかまいませぬが、昼間は、避けておいたほうがよろしいでしょう」
「敵とおっしゃいますと---?」
「盗賊の一味です」
「なぜ、盗賊が銕三郎さまを---」
すでに、人目のないところでは、長谷川さま、大橋どのどでなく、銕三郎さま、久栄どのに、それが当然のように変わっていた。
「そ奴どもの探索をしましたので---」
「では、甲州へのお旅も?」
「からんでおりました」
「お気をつけあそばして---」
「拙は大丈夫ですが、久栄どのが拙とかかわりがあるように気どられてはなりませぬ」
「手でもつないで、見せつけてやりましょうか」
久栄は、ふっ、ふふと含み笑いをしながら言った。
大胆なむすめであった。
銕三郎はふたたび、不逞な空想をたくましくした。
銕三郎は、塾の悪友が隠しもってきた春画をおもいだし、いま、久栄の口を吸ったら、久栄はどんな抵抗ぶりを示すかと---。
ま、若者にありがちな空想てしかなく、このあたりは、並みの青年と変わらない。
いや、もうすこし悪かも。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』[生むすめ]部分 イメージ)
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