大橋家の息女・久栄(ひさえ)(8)
「おかしいじゃないか。入江町の長谷川家の左どなりが大橋家、そのまた左に、17歳の処女(むすめ)のあかしを久栄から奪った近藤勘四郎の家があったのではないのか?」([むかしの男]p257 新装版p269)
『鬼平犯科帳』の熱烈なファンほど、疑問をお投げになる。
その疑問は、ダルビッシュ有くんの直球の強さほどに、ずっしりと重い。
熱烈ファンの方なら、
【参照】2007年8月13日~[大橋家から来た久栄] (2) (1)
の逆順に、お目とおしいただきたい。
ついでに、
【参照】2007年9月6日[『よしの冊子(ぞうし)』 (4)
2008年3月8日~[南本所三ッ目へ] (9)
ファンの夢をこわすみたいで、申しわけない。
ちゅうすけだって、文庫3[むかしの男]の名場面がなりたたなくなることを憂えてはいる。
しかし、小説と史実は違うのだ---と、割り切ることにしている。
このプログは、小説でもないし、歴史書でもない。
「じゃあ、なんなんだ?」
問われると、
「銕三郎(てつさぶろう)のヰタ・セクスアリス(性の放浪)であり、〔荒神(こうじん)〕のお夏(なつ 26歳)に誘拐されたまま未完となっている、おまさを救出するためのあれこれ」
こう、答えるしかない。
[むかしの男]の名シーンとは、
久栄が平蔵の妻になったとき、
「このような女にても、ほんに、よろしいのでございますか-----? 」
久栄が両手をつき、平蔵に問うた。
「このような女とは、どのような女なのだ?」
「あの、私のことを---」
「きいたが、忘れた」
「ま------」
「どっちでもよいことさ」
「は---」
「おれはとても極道者(ごくどうもの)だ。それでよいか、と、お前さんに問わねばなるまいよ」
いうや平蔵、ぐいと久栄を抱き寄せ、右手を久栄のえりもとから差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえつつ、
「久栄」
「はい---」
「お前、いい女だ」p260 新装版p272
男なら、一度でいいから、言ってみたい、やってみたいシーンであろう。
もっとも、最近は、ウ゜ァージニティなど、むしろ、男性のほうに多いのかもしれないが。
もう一つの、結婚23年後の名セリフ。
「それよりも久栄。お前もまた、むかしの男に何と強(きつ)いまねをしたものだ」
「存じませぬ」
「怒るな。いやみを申したのではない」
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」p287 新装版p300
若い女性が、『鬼平犯科帳』に惹(ひ)かれるところでもある。
もっとも、妻からこう言われて、忸怩(じくじ)たるおもいをする男性も少なくなかろうか---ちゅうすけは、忸怩の側である。
さて----明和5年(1768)の春、〔五鉄〕の2階へ戻って。
母親違いの姉・英乃(ひでの 22歳)のこころの傷を語り、自分は、養子をとる気はない、大橋の家を出たいのだ、と銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に打ち明けた久栄(ひさえ 16歳)が、
「家の恥を、はしたなくも口にした久栄を、銕三郎さまは、軽蔑なさいましたでしょうね?」
その目には、行灯の明かりをうけて、涙が光っていた。
(ここで抱けば、久栄はおれのおんなになる)
(国芳『逢悦弥誠』 イメージ)
しかし、銕三郎は動かなかった。
久栄も、くずれてはこなかった。
「失礼をいたしました」
久栄が涙をぬくったとき、銕三郎は、
「武家の婚儀は、家と家の取り決めです。今宵の久栄どののお申し出は、母へ通じておきます」
「あ---」
「母は、さいわいなことに、久栄どのに好意を感じているようです」
「かたじけないことです。ありがとうございます」
「これから先のことは、親同士の手へ移すことに---」
「はい。でも、ときどきお逢いするのことぐらいは、私たちに許されているのでございましょう?」
「おまさの師匠同士として---」
銕三郎は、無理に微笑んだ。
久栄も、もう、涙を浮かべてはいなかった。
その双眸で見返してきた。
「久栄どの。拙の頼みを聞いてくださいますか?」
「なんでございましょう?」
「これを、久栄どのの麗筆で、写本していただきたいのです」
「『孫子』。いつまでにでございますか?」
「2日後---」
「三ッ目通りのお屋敷へお届けすればよろしいのでございますね?」
「拙が留守のときは、母へ、お渡しおきください」
久栄が、心得顔で、ゆったりと微笑んだ。
16歳とは、とてもおもえない、まさしく世故にたけた、大人のおんなの笑みであった。
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