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2007.08.14

大橋家から来た久栄(2)

2007年8月13日[大橋家から来た久栄]に掲げた、久栄(小説で鬼平の妻女に池波さんが与えた名。史実では不詳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)『寛政譜』を再掲出する。

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大橋家系の分家の分家である与惣兵衛親英は、3代目だが、じつは黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米200俵)の三男で、養子に入った仁。

分家の大橋与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女が、綱吉の祐筆に召された黒田左太郎忠恒の妻女となってから、大橋家と縁続きになった。
久栄の長姉が黒田家へ養女として貰われているのも、その縁である。
長姉が養女にいったのは、与惣兵衛の先妻が病死したためともおもわれる。

次姉は、養子に迎えた夫の2人ともが、病気を理由に縁組を解消して実家へ戻っている。
本家の近江守親義(ちかよし)の勘定奉行としての不始末---というか、田沼意次によって処罰されたことが離縁のほんとうの理由かもしれない。それぞれの親類が、田沼に睨まれることを危惧したのでは---。

久栄は、次姉の女性としての不運をいたましく感じていたろう。

大橋与惣兵衛親英は、元文2年(1737)の24歳から、西丸の納戸番として出仕した。
5年後の寛保2年(1742)には、西丸の新番組へ転入し、19年間つづけて勤めている。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として出仕したのは寛延元年(1748)だから、顔をあわせた機会は幾度もあったろう。
郡上八幡の農民一揆の始末についての処分がきまった宝暦8年(1758)9月、宣雄が小十人組頭へ栄転したときには、祝辞を贈ったかもしれない。
「ご子息・銕三郎どのは13歳でしたな。うちの久栄は、6歳になりましてな」

小説では、長谷川家は本所入江町、その隣が大橋家となっているが、長谷川家が築地・鉄砲洲から南本所三ッ目通りへ引っ越したのは、銕三郎が19歳の明和元年(1764)。大橋家は、ずっと、下谷和泉橋通りである。

2人を結びつけたのが、父同士の縁なのか、ほかに結びの神がいたのか、まだ、憶測がついていない。

さて、宝暦8年9月13日の『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)に戻る。
この記録は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)が書き留めていたものである。
深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、引用させていただいている。

一 泉州(依田和泉守政次 町奉行 57歳 800石)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀 勘定奉行 60歳 1220石)へ内々被申候者、昨日(9月12日)主殿殿被仰候者、御僉議(せんぎ)方の儀何とぞ御役人之分早く片附候様可致迚、石徹白其外ハ手間取可申候得共、何とぞ御役人之方片附候様可然、品ニ寄兵部(金森頼錦)者残り候而も外御役人之分早く済候様ニと被仰候由被申聞

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 泉州(依田和泉守政次)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀)へ内々申され候は、昨日主殿どの仰せられ候は、ご僉議(せんぎ)方の儀何とぞお役人の片付け候様いたすべしとて、石徹白そのほかは手間取り申すべく候えども、何とぞお役人の方片付け候様然るべく、品により兵部(金森頼錦)は残り候ても外のお役人の分早くすみ候様にと(将軍が)仰せられ候由(田沼が)申し聞けられ候。

誤読をおそれず、現代文に置き換えてみる。

一 北町奉行・依田和泉守政次(まさつぐ)どのが、手前、阿部伊予守正右(まさすけ)と勘定奉行(公事方の)菅沼下野守定秀)(さだひで)どのに耳打ちされるには、昨日(9月12日)、城内で御側御用の田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのが、かようなことを申された。
「いま再僉議(せんぎ)している件だが、なんとしても、幕閣の分を早く片付けられたい。白山神社がらみの石徹白や農民がらみのことはゆっくりと手間をかけてもいいが、幕閣の処分は早々に裁決までもっていくようにとお上(将軍家)も望んでおられる。取調べで、事件の当の郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね)にかかわることが残っても、それはおいてあとまわしでいいから、幕閣たちの分をとにかく急ぐようにとの、お上の仰せである」

田沼主殿頭意次はすでにリポートしたように、9月3日に、お側用人の身分で、幕府の最高裁判所ともいうべき評定所へ出座して審議に加わるように発令されている。
着座は3奉行の筆頭である寺社奉行の次、町奉行の上、発言も寺社奉行同等の資格となっていた。
あとにも先にも、このような権力を与えられた側衆はいない。

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002長谷川平蔵の妻・久栄」カテゴリの記事

コメント

本所入江町の長谷川家、下谷和泉橋通りの大橋家の位置「江戸切り絵図」で確認いたしました。

投稿: みやこのお豊 | 2007.08.15 00:38

>みやこのお豊さん

ご存じと思いますが、『江戸切絵図』の本所入江町の長谷川邸は、史実の平蔵家ではありません。
池波さんは、本所三ッ目を根拠に、切絵図を探し、入江町の、時の鐘楼前に「長谷川」を見つけ、「あった!」と、入江町にしましたが、そこは、400石の長谷川は長谷川でも、京都出身の長谷川です。

切絵図の年代にもよりますが、鬼平こと平蔵宣以の孫の時に、史実の菊川町の屋敷を売りに出し、遠山金四郎が下屋敷として買いました。ですから、天保、弘化以降の切絵図には、「遠山金四郎」となっている屋敷が元の長谷川家ですね。

和泉橋通りの大橋家のほうは、切絵図とおりです。

投稿: ちゅうすけ | 2007.08.15 04:54

ありがとうございます。史実の長谷川家(遠山金四郎家)は現在の地図では都営新宿線菊川駅の傍ですね、確認いたしました。

投稿: みやこのお豊 | 2007.08.15 07:14

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