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2007.08.13

大橋家から来た久栄

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかない田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)8月10日の項---。

一 今日、口奥良筑ヲ以田沼主殿殿申込候而御退出後暫〆御出、羽目之間ニ而掛御目候、此度之御僉議之義共段々申上、追而百性方尋之義心得等之義伺、とかく真直ニ相分り候様第一ニ候、領主御咎附候者百性重ク成候義ニも有之間鋪、又先達而之通ニ軽く突留候と申儀ニも有之間鋪、とかく中分之処残り不申相当ニ有之様然、猶又趣茂候ハハ可被申聞候、替り候儀も有之候ハハ被仲聞鋪候、左候ハハ右被仰候通ニ可心得候、惣体吟味事品ニ寄軽く突留り候事も可有之候へ共、此度之義者甚御疑も有之事ニ候間、残り不申様可然候、品ニより是ハと存候儀茂出申候而も差略有之間鋪事候由被仰聞、何分ニも正道に相分り候様可申合被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

今日、口奥良筑をもって田沼主殿どのへ申し込み候て、御退出後暫くしてお出で、羽目之間にてお目にかかり候、この度のご僉議の義ども段々申しあげ、追って百姓方お尋ねの義心得などの義伺ひ、とかく真直ぐに相わかり候様第一に候、領主お咎め付き候は百姓重くなり候儀にもこれあるまじく、又先達ての通りに軽く突き留め候と申す儀にもこれあるまじく、とかく中分の処残り申さず相当にこれある様然るべく、なお又趣も候はば申し聞けらるべく候。替わり候儀もこれあり候はば仰せ聞けられまじく候、左候はば、右仰せられ候通りに心得べく候、惣体(そうたい→そうじて)吟味は事品により軽く突き留り候こともこれあるべく候えども、この度の儀は甚だお疑い(将軍の疑い)もこれあることに候間、残り申さざる様然るべく候、品によりこれはと存じ候儀も出で申し候ても、差略これあるまじきことに候由仰せ聞けられ、何分にも正道に相わかり候様申し合わすべく申され候(田沼がいった)。

誤読をおそれず、現代文に意訳。

今日、手前、阿部伊予守正右が、確認しておきたいことがあったので、口奥(たぶん同朋の)良筑を通じて田沼主殿頭どのへ面談を申し入れたところ、ご退出後しばらくして、城内の羽目の間でお目にかかることができた。
そのとき、このたびのご僉議(せんぎ)の経緯についていろいろご説明を申しあげた。
さらに、農民側の吟味についても、お尋ねがあり、僉議にあたっての心得などもお伺いした。
田沼どのがおっしゃるには、とにかく、だれもが納得がいくよう、まっとうであることが第一である。領主へのお咎めに対する気遣いから、百姓たちへの処罰が重くなってはいけない、また、先だっての裁決のように適当なところで打ち止めにしてはいけない、再吟味して、事実をすべて申しのべるように調べつくすことが肝心。
お上(将軍・家重)は、先の結果を承認なされてはいない。
まあ、吟味というものは、事と次第によっては軽めに打ち切ることもあろうが、この件の僉議については、お上もご疑念をお漏らしになっているのであるから、手抜きや妥協、えこひいきなどがあってはならない。だれが見ても正道---という取調べを申し合わせてやってほしいと申された。

その結果の一つが、勘定奉行(公事方)の大橋近江守親義(ちかよし)の処分であろう。
宝暦4年(754)4月9日に、顕職である長崎奉行から上記へ栄進。
この〔大橋〕の姓に見覚えがあった。そう、鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女(小説では久栄)の実家の姓である。
彼女が長谷川家へ婚じたのは、宝暦8年のこの再僉議から、15,6年ほどのちだが。

それで、『寛政譜』をあたってみた。やはり---であった。大橋近江守は本家。

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(青=近江守親義 緑=久栄の父親・与惣右衛門親英 赤=久栄)

肥後国山本郡大橋の出自とある。
早くから家康に仕え、大坂の陣とか関ヶ原の戦いにも参陣している。家禄2120石。
3代目の次男が分家(400石・廩米200俵)。その分家から廩米200俵を分けてもらって家を立てたのが久栄の実家の大橋家
男子運が悪くて、戸主は全部養子だが、そのことはのちほど。

『寛政譜』は、近江守親義が家禄を召し上げられた理由をこう記している。

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(宝暦)8年10月29日、金森兵部少輔頼錦(よりかね)が所領の農民等騒動せしとき、(寺社奉行の)本多長門守忠央(ただなか)が申旨あるにまかせ、頼錦がたのみうけがい、配下に属する美濃郡代青木次郎九郎安清に書をあたへ、安清をのれが所存を記して其処置をこふのときも、頼錦が内存の趣を以てよろしくはからふべき旨、返書に及びしかば、安清彼の農民等を糺問するにいたる。これによりて農民等不平を抱き、公に訴へ、そのこと評議あるのときも、安清に示せし事はつつみて申述ず。再応糺明せらるるに及びてもなをこれを陳じ、只におのれが非をおほはんとせし条、重職のものの所為にあらずとて、相馬弾正少弼尊胤にながくめし預けらる。

この処罰は、3人の息子たちにもおよび、当然、断家。

ということは、世間の白い目は、久栄の実家・大橋与惣右衛門親英(ちかひで)にも向けられたろう。
久栄、この年には6歳。

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