大橋与惣兵衛親英
ついでだから、久栄(ひさえ 16歳)の父・大橋与惣兵衛(よそべえ)親英(ちかふさ 55歳=明和5年(1768) 西丸新番・与頭)についても記しておく。
やがて、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 23歳 のちの鬼平)の岳父となる仁である。
家譜をみると、与惣兵衛親英の父は、黒田左太郎忠恒(ただつね 享年93歳 新番与頭 250俵)、母は大橋与惣右衛門親宗(ちかむね 享年79歳 800石)のむすめである。
長生きのDNAを受け継いだ仁のようだ。おめでとう。
与惣右衛門親宗も、与惣兵衛も同族で、本家(2120石 絶家)は肥後国山本郡大橋の出で、家康以来の幕臣である。
黒田家は、近江国伊香郡黒田村の出。
本家は、黒田官兵衛高(よしたか 筑前福岡藩主 52万石)。
その数代前の左衛門尉宗満(むねみつ)の長男・高満(たかみつ)の末裔を称している。
(黒田忠恒・親英の個人譜)
三男の三郎左衛門親英は、母親の縁で大橋家に養子に入ったとかんがえるのはもっともである。
それもあるが、黒田左太郎忠恒は、小梅村に屋敷をあてがわれていたものの、実は、下谷・和泉通りの大橋家の敷地の一部を借り、別棟を建てていたのである。
先代の与惣兵衛親定(ちかさだ 享年68)が享保17(1732)年5月4日に葬したので、急遽、末期養子の届けをだし、同年7月4日に遺跡継承(39歳)がみとめられた。
ずいぶん,遅い養子入りであるが、むしろ、養父・親定の手ぬかりを責めるべきかもしれない。
黒田姓から大橋姓に変わって出仕してからの親英の勤務ぶりと出世はめざましい。
ただ、万年家からの先妻が産んだ長女を自分の実家へ養女に出したり、二女・英乃(ひでの 22歳)の婿養子の選択などを見ると、仕事はでき、人づきあいもそつはなかったであろうが、家族への配慮には、久栄のいうとおり、欠けるところがあったやに見うける。
『鬼平犯科帳』では、高杉道場で、銕三郎の32歳年長の老剣友と書かれているが、はたして、入門していたかどうか。p158 新装版p270
仕事一点張りの親英が、地所借りしていた黒田家にまだ籍があった時代、和泉橋通りからわざわざ本所・出村の高杉道場まで稽古に通ったともおもいがたい。
あるいは、久栄が、どこかで近藤勘四郎と知り合い、に処女のあかしを奪われたすこし前に入門したとしても、住まいは和泉橋通りであったのである。
長谷川家と大橋家が、入江町になかった史実も引いた。
とすると、
「もう久栄は、嫁にゆけぬ」
などと、愚痴を銕三郎にこぼすこともなかったろう。
ま、このあたりは、小説の醍醐味なので、あまり、かっちりと触れては、それこそ艶消しというもの。
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