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2008.09.28

大橋与惣兵衛親英(2)

大橋家3人目の養子・親号(ちかな)は、久栄(ひさえ 16歳=明和5年(1768))が銕三郎と初めて出逢った翌年、婚儀がととのい、花嫁となって家を出て行ったのちに、縁組みされた。

参照】[大橋与惣兵衛親英] (1)の家譜

つまり、家事をほとんだ省みることのなかった与惣兵衛も、久栄への養子をあきらめざるをえなかった結果といえる。

家長の権力が絶対とされていた徳川時代に、与惣兵衛の思惑(おもわく)を敢然とはねつけて、自分を貫いた久栄を、いまの世人は「みごと」と見るであろう。
しかし、江戸時代の見方では、はねっ返り、強情むすめ、であったろう。
それを意に介さなかった平蔵宣雄(のぶお)・(たえ)の父母をどう評価しようか。

ちゅうすけは、表向き、世間常識になるべくさからわないふりをしていた宣雄夫妻の、芯の強さと、こころの奥を見たおもいである。

もっとも、銕三郎久栄の華燭にいたるまでの道のりの曲折は、これから、記すことになるのだが---。

いまは、2度の養子縁組に失敗し、二女・英乃(ひでの 22歳)の欝病を招いたともいえる与惣兵衛の次の手をのぞいてみよう。

3人目の養子を、大番筋の家格にもかかわらず、なんと、医家の息子に目ぼしをつけたのである。
番医・野間玄琢成育(せいいく)の三男・千之丞(せんのじょう 10歳=明和6年(1769)であった。

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(野間玄琢成育と親号の個人譜)

しかも、目をつけ、下交渉をはじめてから、実際に養子縁組をするまでに、7年の看察期間をおくという慎重さであった。

千之丞が養子にきた安永6年(1777)には、与惣兵衛親英は64歳になっていた。
幕府の定めでは、当主が60歳をすぎてからの養子縁組は、審査が相当にきびしかった。
それでも、与惣兵衛は、千之丞が18歳に成人するまで待った。
ついでに記しておくと、この安永6年には、平蔵宣以(家督後の銕三郎襲名 32歳)の妻・久栄は25歳であった。もちろん、辰蔵のほか2人のむすめを産んでいた。

千之丞親号の実家・野間家は、尾張国知多郡(ちたこおり)野間村の出で、先祖は織田信長に仕えたが、本能寺の変事のあと浪人、医術を学び、京・京極で開業していた。
家康に見こまれ、隔年に江戸にくだるようになり、日本橋・元大工町(現・中央区日本橋2丁目)に屋敷を賜った。その屋敷は商業地であったため商家に貸し、三築(さんちく)長屋呼ばれた(大正5年刊『日本橋区史』)。
代々、幼名が三竹であったからである。

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(三築長屋のあった下大工町新道 池波さん愛用の近江屋板)

実父・成育の住まいは、小川町裏猿楽町の武家地で、医師・和田春長の所有地の借地にあった。

養子・千之丞親号の妻には、黒田家から親英の姪を養女として迎えて妻(め)あわせた。

与惣兵衛親英(ちかふさ)の慎重さは、ついに実った。
しかし、二女・英乃は、22歳から死ぬまで、男との縁を絶たれたままであった。
英乃の没年は未詳。香華寺である高田の宝祥寺(現・新宿区若松38-1)に過去帳がのこされていれば探れようか。

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(宝祥寺参道)

[大橋与惣兵衛] (1)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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