« 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(3) | トップページ | 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5) »

2008.09.22

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(4)

「兄上。母上がお呼びです」
一応は武家のむすめ風に言ってから、
「兄上、やったじゃないの---」
与詩(よし 11歳)は、肩をすくめた。

駿府城代・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)が晩年にもうけた二女だったが、長谷川家へ養女にきて5年になる。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] (1011121314151617181920212223242526272829303132333435363738394041) 

養父・宣雄(のぶお 50歳)や養母・(たえ 43歳)にはすっかりなじんだが、銕三郎(てつさぶろう 23歳)には、駿府へ迎えにきてもらった道中、お寝しょうの心配をさせたので、いまだに照れがのこっている。
だから、逆に姉さんぶった口をきく。

「やったって、なんのことだ」
さま」
大橋どののご息女か?」
わざと、とぼけた。

銕三郎には分かっていた。
今日あたり、〔あすか山〕の寅松(とらまつ 17歳 掏摸)が、大橋家を訪ねて、久栄一行から掏った金を戻しに行ったはずである。
そのとき、銕三郎に諌められたから、と告げる。

参照】2008年9月8日[中畑(なかばたけ)〕のお竜] (2) (3) (4)

そうすれば、まともな武家の家なら、明日あたり、久栄が礼を述べにやってくる。
しかし、こんなに早々とくるとは---。

「おとないは、これで2度目ですよ。兄上が女性(にょしょう)にとって隅におけない人であることは、阿記(あき 享年25歳)姉上のことでわかっていましたけれど、もう、次の方ができたなんて---」
「ばか。余計なことをしゃべると、嫁入りのときに、おむつのことをバラすぞ」
「意地悪」

客間へ行くと、母・と歓談していた久栄が、先細の三つ指をそろえ、黒々とした双眸で、まともに銕三郎の目をみつめて、
「その節はお世話になりましたばかりか、寅松どのまでお気くばりいただき、まことにありがとうございました」
ふかぶかと頭(こうべ)をさげた。
銕三郎には、久栄の白くきれいな項(うなじ)が、なまめかしく映った。

「いや。もののはずみで、としりあいましてな---」
どもりながら、やっと、言えた。

「〔船橋屋〕のお羊羹をおもちくださったのですよ」
「それは、それは---」
あいかわらず、口がまわらない。

Photo
(羊羹が秘伝の〔船橋屋織江)

【参照】〔船橋屋〕は、2008年8年9日[〔菊川の仲居・お松〕 (8) (10)

「お酒ともおもいましたが、父が、こちらさまはお召し上がりにならないようだと申しましたので」
「そうでしたか。いや、なに---」

銕三郎の、常にない、しどろもどろがつづく。
「ちと、約束がありまして。失礼」

いそいで支度をし、門から離れた角で待った。
しばらくして、供の小者を従えた久栄があらわれたので、
大橋どの」

「なんでございましょう?」
久栄はかすかに微笑んで、銕三郎をみつめた。
目じりがさがって、やさしげな表情になる。
「これから、寅松と逢います。遠路、そのことだけで府内にきたので、慰労してやります」
「それは行きとどいたおこころ遣いですこと---」
「お差し支えなければ、ごいっしょにいかがとおもいまして---」

「遠くでございましょうか?」
「いえ。四ッ目ノ橋のそばですから、ほんの5丁(500m)ばかり---」
久栄は、ちょっとかんがえるふりをして、
十蔵。そなたはお帰りなさい。私の帰りは長谷川さまがお送りくださりましょうほどに---」
みごとに供を帰してしまった。
武家のすめとしては、大胆きわまる決心である。

十蔵は、しつけよく表情も変えず、銕三郎に腰をかがめ、
「お嬢さまを、よろしく---」
とだけ言い、大川のほうへ去った。

「さ。邪魔者が消えました。参りましょう」
久栄が、先に立って三之橋に向かってあゆみはじめたのには、銕三郎のほうが、あっけにとられた形であった。
振り返った久栄は、いたずらっぽく、満面に笑みをたたえている。

_350
(三ッ目ノ橋から〔盗人酒場〕 長谷川邸は、三ッ目ノ橋の左手2丁)

〔盗人酒場〕へ入っていくと、寅松の話しを真剣な顔つきで聞いていたおまさが、飯台から立ち上がったが、久栄を認めて、寄ってはこなかった。

寅松が、
「おや。大橋のお姫さま。またお会いできました」
それで、おまさは、寅松の事件の主(ぬし)だとわかったようであった。

おまさ。手習いのいいお師匠さんをお連れした」
銕三郎が、
「手習い帖をもってきて、観ていただきなさい」
おまさは、しげしげと久栄を見つめていて、動かなかった。

久栄も表情をくずさず、生真面目な声で話しかけた。
おまささんですね。お初にお目もじいたします。久栄と申します。深大寺(じんだいじ)で、長谷川さまに、大層お世話になりました。そのいきさつは、そちらの寅松どのからお聞きになったとおもいます。きょうは、寅松どののご好意のご報告に、長谷川さまのお母上のところへ伺いました。そういたしましたら、寅松どのがこちらにいらっしゃるからと、銕三郎さまがお誘いくださいました。寅松どのに、長谷川さまへ報告できたことをお伝えできる、丁度いい折りとおもい、ご相伴させていただきました。突然のおとない、お許しくださいますよう」

おまさは、一言も返せなかった。
くやしいけれど、大人のおんなと子どもの対面だと、身にしみるほど分かった。
精一杯の笑顔を見せて、
「ようこそ、いらっしゃました」

久栄は内心からの笑顔を返し、
「私にも、4,5年前、おまささんの齢ごろがございました。ちょうどそのころは、お師匠さまに、筆をもつ手を、いつもぴしゃりとぶたれておりました」

おんな同士のすさまじい心理戦に、あっけにとられていた銕三郎が、やっと口をはさめた。
おまさ。拙だと、どうしても男文字になってしまう。おまさはおんななのだから、もう、そろそろ、おんなのお師匠さんのお手本を学んだほうがいいとおもうよ」
おまさがうなずき、手習い帖をとりに2階へあがった。

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) ((2) (3) (5) (6) (7) (8)

|

« 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(3) | トップページ | 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5) »

002長谷川平蔵の妻・久栄」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(3) | トップページ | 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5) »