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2007.12.23

与詩(よし)を迎えに(3)

「お取りこみご多用のところ、私ごとの些事をお願いいたし、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎(てつさぶろう)どのは、親戚も同然ゆえ。しかも、養女のことは手前がおすすめしたことでもありますから---」
中根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)邸である。
3年前よりもさらに歯が抜けてしまっているので、伝左衛門の言葉は、聞きとりにくい。

老僕の太作が書箋をとどけた2日後が伝左衛門の非番で、依頼した調べはすませていくれていた。

取り込み---銕三郎が言ったのは、伝左衛門が2年前に迎えた養子---花井惣右衛門貞辰(さだとき 当時67歳 甲府勤番 260俵)のニ男・忠三郎正庸(まさつね 28歳 無役)に、最初の女子が生まれたばかりであることを指している。

3年前、築地の長谷川邸を訪れた伝左衛門を、銕三郎が付きそって牛込逢坂まで送ったときには、忠三郎正庸の養子の件は決まっていなかった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣養子は手続きがいろいろと面倒なこともあるが、伝左衛門の場合は、実の息子への愛着が強かったのと、自分が職に執着して家督を遅らせた自責の念もあり、このまま家名を絶ってもとひそかに考えもし、養子縁組を後(おく)らせていた。

そんなこともあって、伝左衛門は、亡息・銕之助(てつのすけ)と同じ「」の字を名にもつ銕三郎に特別の親しみを感じたらしく、自分が11歳で天野家から中根家へ養子に入ったときの生ぐさい話しを打ち明けてくれた。
というのは、若くて後家になった家付きむすめの義母の情事についてのことだった。養子だった28歳の夫が、大坂定番で赴任中に病死したのである。帰任まではと張り詰めていた決意がくずれたか、孤閨がまもれなくなり、養子の大助(のちの伝左衛門)につらくあたった。
寡婦の生理に気づいた大助は、その期間の夜は、義妹2人を連れて親類の家へ泊まりこんで難を避けることにした。

そのときの詳細は、2007年10月15日[養女のすすめ](2)
2007年10月16日[養女のすすめろ](3)

_360
(中根伝左衛門。緑○=継母と亡妻。黄○=養子の正庸)

「お2人目の養女をお迎えになるとか」
「はい。両親がそのように決めました。で、妹になる子を、手前が駿府へ受け取りにまいります」
「それは、重畳。先に養女になられた---」
多可です」
「そう。その多可どのは、まことにご不憫でしたな」
「こんどの養女は、多可の継姉に縁があるようです」
「そのようですな。じつは、ご依頼があったので、駿府のご奉行・朝倉朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どののご内室との婚儀届けをあらめてみました。後妻どのがおもうけになったおんなのお子のようですな」
「さあ。そこまでは存じませぬでしたが---」

多可どのの実父は、美濃・加納藩の松平侯のご家中でしたな」
三木忠大夫どの」
「さよう、さよう。齢なもので、遠いお方の姓名は咄嗟に出なくなりまして、失礼つかまつった---朝倉ご奉行の三度目のご内室も、その三木どののむすめごでござった」
「そのように聞いております」
「2人目のご内室が、離縁されていることも?」
「存じませんでした」

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