与詩(よし)を迎えに(23)
「こちらの手が左、こちらが右の手。左と、右---さあ、言ってごらんなさい」
「こちらのてが、みぎ---」
「ちがいました。こちらが左、こちらが右」
「ひだり、みぎ」
「よくできました」
「---よくできました」
さつた峠を越えながらも、銕三郎(てつさぶろう)は根気よく、それこそ、道中合羽の中で与詩(よし)の手をとって、教えている。
馬上は少しさむい---と与詩が訴えたので、馬力に道中合羽を借りたのである。
「与詩さま。左をごらんなされませ。富士のお山があのように高々と見えます」
脇を歩む藤六(とうろく)も、与詩の手習いを助ける
(広重 『東海道五十三次』[由井 さつた峠から望む富士])
富士は、まだ白い衣を五合目あたりまで着ていた。
(快晴の日の富士山)
「おしろからは、おやまは、ちづ(智津)のせのたかさ」
「ここでは、お兄上さまの背よりも、もっと高く見えますでございましょう」
「うん」
「与詩。約束げんまんしたばかりでしょう、『うん』ではありません」
「『はい』、でしゅ」
「です」
「---です」
下りになると、与詩がこわがった。
銕三郎は、縄で自分と与詩の躰をしばって固定させた。
(箱根道は、与詩には馬は無理だな。山駕籠を、由井宿の問屋場から、権七(ごんしち)あての書状を送って、頼んでおこう)
ついでに、三島宿の旅籠〔甲州屋〕で待っている阿記(あき)にも、明日の投宿時刻を知らせる手紙を早飛脚に届けさせることにした。
蒲原(かんぱら)宿から三島宿までは、9里(36km)。朝発(だ)ちを明け六ッ(6時)にすれば、暮れの七ッ(4時)には宿へ着けるだろう。
「与詩。一ッ、二ッ、三ッ、四ッ---つづけて、数えてごらん」
「いつッ、ななッ、むっッ---」
「六ッ、七ッですよ」
「むっッ、ななッ、やっッ、ここのッ、とう」
「はい。道の松の樹をかぞえよう。一ッ---」
「ふたッ、みっッ---」
与詩は、指を折って数えている。
教育は根気だ、と銕三郎はつくづくおもいしった。
峠を降ると、倉沢村である。
数軒の茶店がさざえのつぼ焼きを、旅人たちに呼びかけている。
父・宣雄は〔休み陣屋・柏屋〕へ、いくばくかの金子(きんす)を手くばりしておいてくれていた。
姓を告げると、亭主・幸七(こうしち)があいさつにきた。
「長谷川さまには、お変わりございませんか?」
「息災iにて、小十人組・5番手の頭(かしら)を勤めておりますが、ご亭主は、父をご存じなのですか?」
60歳に近い幸七は、むかしをしのぶように腰をのばして、
「申しあげますこと、お父上には内緒にしておいてくださいませよ。じつは---」
と言いかけたのに、
「ご亭主。この子に厠(かわや)をお貸しください。藤六、与詩を厠へ」
2人が裏手へ去ったのを見すましてから幸七が話したことに、銕三郎は驚ろいた。
上方への旅の途中に〔柏屋〕へ立ちよった父・平蔵は、22歳の冷や飯の身で、これといった要件もない気楽なひとり旅だったらしい。
店先から、海女(あま)たちのあわび採りを眺めていたが、幸七から漁師たちがしめる赤ふんどしを借りて海へもぐり、たちまち、数ヶのあわびをものにした。
(倉沢の海であわびを採る海女たち 北斎画)
その姿に、倉沢村一番のあわびの採り手を売りものにしていた若年増の海女がひと目ぼれしてしまった。
「長谷川さまは逃げまわられたのですが、お君(きみ)のほうはあきらめるものですか。あわび採りも名人なら、いい男捕りも一番手と自分に言い聞かせたのでしょう、ついに3夜ほどをいっしょにお過ごしになりました。その後、どう話をおつけになったものか、4日目には、長谷川さまは京へお発ちになりましたよ」
(謹厳を絵に描いたような父上に、そのような艶聞があったとは---ということは、おれのは、その血筋なんだ)
「それで、お君とか申す海女どのは、いかがなりました? ご存命なら、40と幾つかにおなりのはず---」
「なに、お父上が去られてから、中古(ちゅうぶる)の亭主とくっついて---ほら、あそこの岩の上で躰を休めている齢をくっている海女がいましょう、あれがお君です」
(一と休みして、躰を温めている海女たち 北斎画)
すませて戻ってきた与詩に、
「与詩も、あそこの海女たちのように、泳ぎを覚えたいですか?」
「はい」
「そうか。では、江戸の家で、父上に、『泳ぎを教えてくださいませ』とお頼みしなさい。さ、言ってごらん」
「ちちうえ。およぎをおおしえ、くだちゃいませ」
「よくできました」
(父上の、驚愕のお顔が見えるようだわ。おれも、けっこう、悪(わる)だってこと)
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