« 『よしの冊子(ぞうし)』(12) | トップページ | 『よしの冊子(ぞうし)』(14) »

2007.09.14

『よしの冊子(ぞうし)』(13)

『よしの冊子』(寛政元年(1789)9月9日 つづき)

一. 加役に仰せつけられるはずの(松平)左金吾(定寅 さだとら)が湯治へ行ってしまわれた。
加役になる人が湯治へ行ったからには、湯治から帰ってくるまでは発令にはなるまい、と先手仲間が噂しているよし。
左金吾は一体に大気象の人のよし。湯治にも、願いが聞き届けられるまで家人にも打ちあけず、認可されたその日、許可がおりた、さあ出発だといわれたので、家人は肝をつぶされたよし。
左金吾が申されるには、とにかく泥棒が多く出るのはよくない、ことに重い科人が出るのは公儀の外聞が悪いからなるたけ出ないほうがいいと。
長谷川(平蔵宣以 のぷ゛ため)のほうは、悪い者がいるから捕らえるのだ、悪い者を捕らえないでは、世間が静かにならないといっているよし。
どちらも負けずぎらいの仁だからちょうどよいといわれているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  松平(久松)左金吾定寅が、火盗改メ・本役となった長谷川平蔵
  を監視するつもりで加役(火盗改メ・助役)になるために、2000
  石なのにわざわざ1500石格の先手組頭に格下げ任命されたの
  は天明8年(1788)9月28日、加役発令は同年10年6日(長谷
  川平蔵の本役発令は10月2日)。
・・左金吾は火事の多い冬場のための助役だから、翌年春4月21
  日には免じられている。
  で、その秋にも、平蔵と張り合うために周囲は、助役を志願すると
  見ていたのであろう。

一. 左金吾はいろいろ嫌われているとのよし。ご老中(首座・松平定信)の親類ゆえ、仲間内では恐れられているよし。かえってよくないともいわれている様子。

  【ちゅうきゅう注:】
  松平左金吾は老中首座・松平定信と同じ久松松平の家柄。
  久松松平は、家康の義兄弟ということで、最も重い松平系。

左金吾は禄高(2000石)も高いので暮らし向きもらくで、組下への手当などもいたってよろしいよし。
ほかの先手組の頭は、組下への手当が思うように行きとどかないから、左金吾一人がよろしくやるのは困るといいあっているよし。

一. 左金吾どのの評判はよろしいとも、悪いともいわれているよし。左金吾が申されるには、去年加役を勤め、今年も勤めるので、今年は馴れているので一工夫する、と。

  【ちゅうきゅう注:】
  松平左金吾は、長谷川平蔵の火盗改メを監視するためであろう
  か、寛政3年(1791)10月7日、再度助役を買ってでている。
  平蔵左金吾の心理戦、宣伝戦は小説になるほどの葛藤であっ
  た。

左金吾どのは無理なことはいわない。その代わり、たとえ古参であっても理屈に合わないことをいったときには合点しないで反対を唱えると。
左金吾は、お膝元が騒々しいのはよくないから、追い散らかしてお膝元さえ静かになればよい、とこのあいだまでにやっと七、八人ほどしか召し捕っていないよし。

一. 番町辺の旗本が知行地へ金を取り立てに家来をやったところ、その家来が帰り道に出会った旅人がいうには、
「私たちが親しくしている宿へお泊まりになりませんか」
というのでその宿へ泊まったが、旅人はいずれも盗賊で、夜中に取り立ての金子を残らず奪い取って逃げたよし。家来は仕方がないので宿の亭主を伴って江戸へ戻った。
で、旗本から支配へも届け、その泥棒を捕らえてほしいと願いでた。そのところへ、長谷川平蔵組の与力がやってきて、泥棒はすでに召し取っているという。
長谷川は捕り事は奇妙と思えるほどにうまいといわれているよし。

【ちゅうきゅう補:】この一件を推理して、『夕刊フジ』のコラムに[在方にも情報網]と題したもこんなストーリーを発表してみた。 

火付盗賊改メとしての長谷川平蔵の、じつにきめ細かな配慮をしのばせる逸話が伝わっている。
平蔵が火盗改メ・本役の長官となって丸一年目あたりというから、寛政元年(1789)晩秋のことだ。
中堅旗本の屋敷がつらなっていた番町。
そこの某家が知行地の下総・武射郡(千葉県北部)へ金の取り立てに家臣をやった。

帰路、千葉宿の茶店で隣あった親子とも見える2人連れが誘った。
「幕張宿には手前どもが親しくしている旅籠がございます。宿賃をいくらか引いてくれると思いますが……」
その旅籠へ泊まり、晩飯では2人連れが酒をおごった。
一日中の歩きづかれと酔いで熟睡中に、2人連れは取り立て金をのこらず盗んで逃げてしまった。

家臣は仕方なく、証人として旅籠の亭主を伴って江戸へ戻り、主人にことの次第を報告して陳謝。主人は顛末を組支配へ届け、犯人追捕を願い出た。

すると、早々と長谷川組の与力が番町の某家へやってきて、いったものだ。
「ご家来衆をたぶらかした犯人とおぼしき者どもをすでに捕らえているので、当のご家来衆に面どおしをしていただきたい」
で、家臣が火盗改メの役宅でもある菊川(墨田区)の長谷川邸へ出向くと、まさしく例の2人連れだった。

このことを伝えたものの本は、
長谷川は奇妙と思えるほど捕物がうまいといわれているよし」
と付記。

たしかに、盗難届けが出る前に犯人を捕らえてしまっているのだから神業のようにも思える。
が、じつはこれには仕かけがあった。

平蔵は火盗改メに就任するとともに、江戸近郊の村々の庄屋や宿場々々の村役人たちへ、盗難があったり不審な者がいたら長谷川組まできっと報告をよこすようにとの触れをまわしていたのだ。
例の2人組の別の犯行はだいぶ前からいくつかの旅籠から届けがきていた。
そこで人相書をたずさえた組の同心が千葉街道へ出張っていたところへ、2人組がのこのことあらわれてご用!となった。
村の庄屋や宿場の村役人が平蔵からの触れを真正直に受け取ったのにもわけがある。
平蔵以前の火盗改メの同心の中には、在方(村)で捕らえた盗賊を、村一番の分限者をえらんでその庭でわざと手荒く拷問。その悲鳴におそれをなした分限者は少なくない金子を同心へ贈ってよそへ移ってもらった。
平蔵は組の者をつよくいましめ、村で捕らえた盗賊はすぐさま江戸へ連れてくるように指示し、それがきちんと守られていたから、在方も長谷川組への協力だけは惜しまなかったのだ。
平蔵にしてみれば、組の与力10人、同心30人では江戸の警備・探索で手いっぱい、在方は村々の情報ルートを活用するしかなかったのだが。 


一. 平蔵組の同心が、召し捕った盗賊をあやまって逃がしたよし。重罪の盗賊なので、取り逃がした盗賊が30日以内に再逮捕できなかったら、その同心は辞職ものだとと噂されていた。ところが20日ほどたって、
「手前はこのあいだ逃げた重罪の者だが、やがては町奉行所の者の手にかかるやもしれない、どうせ捕まるならお慈悲深い平蔵様の手にかかったほうが、と思って自首した次第、逃げるときには縛られていたので、その縄をなくさないように大切に扱い、こうして持って参りました」
と、役宅へ現れたよし。
平蔵が他の人へ、「この泥棒には重い刑罰をいいわたさなければならないが、自首してきたところはうい奴じゃ。だから、こういう者のお仕置の仕方にはほとほと困る」と頭をかきかき洩らしたよし。

  【ちゅうきゅう注:】
  _100この話をヒントに池波=鬼平流に換骨脱胎したのが、文庫第21巻
  に収録[男の隠れ家]の結末部分。
  「男の……」は昭和57年(1982)3月号の
  『オール讀物』に発表されたが、この話の載
  った『よしの册子』を収録した『随筆百花苑 
  第8巻』
 (中央公論社)が出たのは約1年
  前の、昭和55年(1980)11月20日だった。


|

« 『よしの冊子(ぞうし)』(12) | トップページ | 『よしの冊子(ぞうし)』(14) »

221よしの冊子」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『よしの冊子(ぞうし)』(12) | トップページ | 『よしの冊子(ぞうし)』(14) »