『よしの冊子(ぞうし)』(14)
『よしの冊子』(寛政元年(1789)11月22日より)
一. 長谷川平蔵だと早く済んで出費もあまりかからない、と町々で悦んでいる様子。
先ごろ、捕りものがあり、吟味したところ、行跡がよろしくないので親から勘当を受けているとか。
しかも格別お仕置をいい渡すほどのものでもないので、親を呼び出し、勘当を許し、説教してきかせるように申しつけ、科人のほうも呼び出して、きびしく叱り、この後は孝行するように申しわたしておしまいにしたので、親子ともありがたがり、思ったよりも軽く、かつ早いお捌きでありがたい、と評判のよし。
【ちゅうすけ注:】
火盗改メの長官(おかしら)も一種の裁判(公事 くじ)権を持って
いる。
もちろん、逮捕後は、公事を専門としている町奉行所にまかせる
ことのほうが多かったが、長谷川平蔵はこのんで裁決をしたがっ
たフシがある。
長引く公事でもの要りがかさみ、被告・原告とも迷惑がっていた
ことは、佐藤雅美さん『恵比寿屋喜兵衛手控え』(講談社文庫)
などにしばしば書かれている。
一. 去年中より旧冬この春へかけてたびたび火事があったが、左金吾殿が去年のご加役のとき以来、気がよったから火事があるとのことだった。
左金吾どのも一徹の気性で立身はなるまいと思われていたのが、このごろは気を取りなおして、立身でもするか、という気分になられたみたい。左金吾どの気が直ったから、世間の火事ざたでそうぞうしいとの様子。
一. 町方では、長谷川平蔵はいままでにない加役(火盗改メ)だと悦び、とにかく慈悲深い方だ、といっているそうな。
長谷川平蔵が組の者へ申しつけたのは、十手は腰の物と同じと心得て、みだりに抜くことのないようにと。
これから先、十手で人を殺めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける、と申し渡したので、よくよく手にあまった時でなければ十手を抜かなくなった、と町々で悦んでいるそうな。
召し捕った者を自身番所へ預けるときにも、半紙へ割判を捺し、送り状を認めることにしているので、間違いも少なく、手短でよいと口々に噂しているとのこと。
【ちゅうすけ注:】
テレビ『鬼平犯科帳』のラストで、与力・同心たちが縦横に十手を
振り回すのは、史実の平蔵の信条に反しているが、まあ、テレビ
はあれがあるために爽快感がかもしだされているともいえる。
一. 長谷川(平蔵)は頭も切れ、与力同心も先年から勤めてきている者どもで、いずれも名高い士が多く、功績のほどもこの上ない者たちとのこと。
しかもこのごろは町でゆすりなどもいささかもせず、まことに潔白のよし。
かつては同心の内には、四谷や新宿の女郎を揚げづめにして与力もおよばぬ勢いの者もいたらしい。
しかも行きには四谷の自身番へ立ち寄り、女郎へのみやげを貰い、また帰りには自身番にて内へのみやげを貰って帰ったとか。
与力にも、吉原で女郎の手を引きながら十手で人を打ったものもあったよし。
右のようなあぶれものは当節はなくなり、ひしとかたまり、召し捕りに出精しているもよう。
左金吾どのの組には手違いもこれあり、同心の中には暇を出された者いたとか。
一. 捕まった巾着切り(掏摸)どもはみんな(水替人夫として)佐渡ヶ島へ送られるので、なるたけ捕まらないように心がけた。
もし捕まりそうになったら、没義道(もぎどう)であれなんであれ、かまわずに引き切って逃げることにしているよし。そんなことだから、このごろは掏摸が手荒くなって長谷川組の与力や同心がこぼしているよし。
【ちゅうすけ注:】
佐渡ヶ島の金山坑道の排水の水汲人夫に送られると、10人に5
人は半年以内に病死するといわれていた。
それほど仕事が苛酷だったらしい。
一. 手先組の与力たちが、鉄砲の稽古のために与力仲間でいくらかずっ分担金を出しあって、射撃上手の浪人たちを師匠格として雇うことにしたら、とは左金吾どのの発案だが、それではこれまでは鉄砲撃ちはどうしていたのだ、これまでの訓練は無駄骨だったのかとか、浪人者たちよりも御家人の中に師匠になれる射撃上手者がいくらだっているはずだとか、いろいろ議論が出、けっきょく、浪人案は中止になったよし。
そんなことで、江目純平、斎藤庄兵衛などへ弟子入りする者が出ている模様。先手の柴田三右衛門(勝彭 かつよし 65歳 500石 先手・鉄砲の6番手組頭)よりも斎藤庄兵衛を頼りにしていて、与力同心がみなみな弟子になった模様。
庄兵衛は極貧で、蔵宿(札差し)棄捐も大分あって、年賦にしてもらっていたところ、家督して以来初めて20両という金を御切米(注・春に4分の1、夏4分の1、秋2分の1に区切って渡されるから切米という)の売却代金として受けとったと悦び、その上に柴田の組弟子になれたので、暮れには柴田から銀(南鐐2朱銀? 2分=5万円前後)2枚、組から10枚(2両2分=50万円見当)も来るだろうと楽しみにしていたところ、柴田からは塩引き1尺、組からは鴨1番が来たきりなので当てが大外れ。さても武芸は金にならないものだが、そうはいっても師匠は出精して教えなければならない、まあ、そんなものかと笑っていたそうな。
一. 先手の松波平右衛門(正英 まさひで 68歳 700石鉄砲の13番手組頭)組では、左金吾どのが紹介した浪人者を師匠にして稽古しているよし。
乗馬の訓練も始めたところ、組の中には地借りもいて不承知なので、同心の地面を借りて馬場をこしらえたよし。
一. 先手の中山下野守(直彰 なおあきら 500石 弓の8組頭)は、同心に芝を射させたので1人につき7両ずつかかったので、これでは続かないと止め、百射に切りかえたよし。百射だと2分ずつですむ模様。どちらにせよ、このごろは先手頭もこんな調子でいろいろと物入りが多く、与力同心も出費が重なっているらしい。
一. 長谷川平蔵掛りの養育地(人足寄場)が六万坪に出来たので、諸組から同心を11人雇ったとか。平蔵はなにかと工夫をしているらしいとの噂。
一. 石川島の養育地(人足寄場)については、長谷川の努力は大いに有りがたいことだ、行きだおれなどもいなくなった武家屋敷でも町でも悦んでいるよし。
このことについて、平蔵は与力同心の人員が不足なので、与力1人、同心11人を増員したとのこと。与力は中山下野守(直彰 500石 弓組頭)組の中山為之丞という者。
もっとも与力が5人の下野守の組は大いに迷惑と感じて平蔵の要請を一度は断ったらしいが、為之丞はできる人物なので、平蔵にたってと望まれ、よんどころなく移籍させたらしい。
もっとも為之丞は火盗改方の与力としてもできる与力らしい。
【ちゅうすけ注:】
中山組の組屋敷は四谷本村町。長谷川組の与力として引きぬか
れて中山為之丞は、ここから人足寄場へ通勤したのであろう。
一. 長谷川平蔵組へ移籍した中山下野守(直彰 500石 弓組頭)組の与力・中山為之丞は、大島流の鎗を得意としているよし。大島流では為之丞ほどの遣い手はいないといっているよし。
先だって加役を勤めたときに中間を捕らえて手を斬られた男のよし。
為之丞はいたって人のかわゆがる(人望がある)男のよし。
中山下野守組の与力の定員は5人なので平蔵の要請を断ったが、強引に引き抜いてしまったらしい。
【ちゅうすけ注:】
中山組が火盗改メの任についた記録はない。
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