『よしの冊子(ぞうし)』(12)
『よしの冊子』(寛政元年9月9日より)
一. 長谷川平蔵(宣以 のぶため 44歳 400石)は町奉行を望んでいたところ、池田(筑後守長恵 ながしげ 45歳 900石)になられてがっかりしているよし。
まあ一般的にいって平蔵の評判はほどよくはない模様。
このあいだも湯島で泥棒を一人召し捕って自身番へ預け、いってきかせたには、明日までに自分の屋敷へ連れてこい。
もし今夜火事でもあって混雑したならば、逃がしてもそのほうどもを咎めはせぬ。
またただちに捕らえると見えをきり、その泥棒に手拭いは持っているかと聞き、供の者へ申しつけて近所で手拭いを一本買ってこさせ、[あした日中、手拭いもかぶずにおれがところへ引かれて来るもせつなかろうからこれをやる」と渡したよし。
長谷川平蔵は仁政を安売りをすると噂されているよし。
【ちゅうすけ注:】
池田筑後守は、京都町奉行から栄転。京都在任中に、たまたま
禁裏の火災があり、その処理のために上京した老中首座・松平
定信への応対も幸いしたらしい。家柄も、因州・池田家の一門。
一門は多いほうで、家ごとにまとめた下のシートは8葉。
長恵の家は末尾に近い。
一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川は父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(?)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。
【ちゅうすけ注:】
父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
10月17日53歳のとき。
本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
本役を発令。
幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
があったからだ。
その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
行へ栄転した。
『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳から
28歳で、立派に助手がつとまった。
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