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2007.11.16

田沼街道(上)

相良の下見は、SBS学苑〔鬼平クラス〕のメンバーで、相良生まれの八木忠由さんの案内で2007年10月下旬に行った。
この人の土地勘と事前調査、それに同クラスの安池さんの探索がなかったら、相良ウォーキングは実りの薄いものになったはずだ。

八木さん運転の車は、最初、町はずれの花庄屋・大鐘(おおがね)家へ向かった。
_120同家のリーフレットはいう。

一五九七年、柴田勝家家臣、福井県丸亀城、城代家老、大鐘藤八郎が遠州相良へ移り、この大鐘屋敷を構えた。
旗本三千石の格式を持ち、十八世紀頃より大庄屋となる。現在、長屋門・母屋が国の重要文化財に指定されている。

柴田勝家の家老が、相良へ隠棲したということは、羽柴秀吉に敗れたからであろうか。
越前国北の庄(柴田家)の滅亡は天正11年(1583)と、手元の年表にある。大鐘家が相良へ移ったのはそれから14年もあと。家康が招じたのかも。

大鐘家は、長屋門の前の〔門膳〕で客に料理を供しているとリーフレットにあり、八木さんはここでの昼食を予定していたが、その日は営業していなかった。
(ついでに付記すると、大鐘家が長屋門を建てたのは、相良城が落成して、田沼意次が国入りをした翌安永10年(1781)である。田沼意次(おきつぐ)から、何かの指示でもあったのであろうか)。

_220いや、昼食はどうでもいい。 
主眼は、同家の前に、非舗装のまま歴然とのこっている田沼街道である。
田沼街道サイトからいうと、「同家の前」にのこっている、という表現になるが、大鐘家側から見れば、そこに旧道「小山街道」があったから居を構えたら、それが田沼意次の相良拝領につづく相良城の築城につれて整備された「相良街道」、またの名「田沼街道」となったのだ---ということになる。

いずれにしても、相良地区にかろうじて残っている4ヶ所の「田沼街道」の1ヶ所なのだ。
昼食をあきらめ、国道473号線からはずれた、車もすれ違えないほどに狭い田舎道を、しばらく眺めた。

意次は、将軍・家治から、相良城の築城を命じられたことになっている。命じられたか、意次側から伺って将軍が許可したのかは、不明である。
とにかく、明和5年(1768)から築城が始まった。
膨大な資材が相良へ運びこまれる。
そのための道路を整備する必要が生じた。
いついかなる時代でも、道路は経済活動の血管でもある。
そのことを承知していた意次は、築城支配役に任じた用人・井上寛司らにもそのことをいいふくめたに違いない。


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