駒込の勝林寺
相良からちょっと脇道---といっても江戸なんだが。
駒込の勝林寺(豊島区駒込7-4-14)で、田沼意次(おきつぐ)の墓へ詣でがてら、当山(万年山)の小冊子を購った。
それによると、開山は了堂良歇(禅河弘禅師)---湯島天神(文京区)の前あたり。
開基は中川元故(医師)。
そして、中興開基が田沼意次とされている。
開基とは、寺院を創設するときの、主として経済的な援助者。
江戸開府のころに開山。
明暦3年(1657)の大火で焼失し、駒込蓬来町へ。
それから七十年たった安永九年(1780)十ニ月十四日に、勝林寺の中興開基とされる老中田沼意次から、下屋敷二百六十坪を勝林寺に寄進する申し出があったのです。
申し出は直ちに寺社奉行阿部備中守へ届けられ、十八日寺社奉行土岐美濃守御内寄合で聞き届けられました。
その後勝林寺を支え、庇護者となった田沼家が、この時点はじめて勝林寺の歴史に登場したわけで、それは勝林寺にとって大変大きなことであり、特筆しなければならないことでしょう。
安永9年といえば、意次が老中となって9年目、この年の4月13日に、この年に落成した相良城へ初めて国入りしている。
ということは、相良・大江の平田寺の住職とも会ったということで、相良においての香華寺を平田寺としたのかもしれない。
平田寺も勝林寺も、ともに臨済宗妙心寺派。
勝林寺への下屋敷の寄進は、相良から帰府後のことである。
さて、この小冊子に一つの不思議がある。
収録されている意次の肖像画が、そう。
これまで、勝林寺蔵と諸書に掲げられているものよりも、はるかに加齢している。
2007年11月12日[田沼意次の肖像画]参照。
勝林寺には、2幅の肖像画があるということであろうか。
このことも、寺へ問い合わせてみなければならない。
それとは別に---。
明治40年(1907)本郷通りの拡張のために墓地を染井に移転。
昭和15年(1940)に道路新設のため寺自体も現在地へ。
昭和20年(1945)戦災。
昭和28年(1953)本道再建。
空襲が郊外ともいえる染井のような地区にまでおよんだのは、滝野川の造兵廠の爆撃のとばっちりだったのであろう。
意次が寄進した袈裟が失われたのは、この戦災時であろうか。
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コメント
2007年11月12日[田沼意次の肖像画]に掲げた、意次の壮年期の肖像画は、2幅とも相良史料館蔵とわかり、その旨をコメント欄に投じました。
ただ、11月15日の本稿は、そのままにしておくので、読む人が、「不思議」の数行を消して読みすすんでいただければ、ありがたいです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.16 13:54