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2007.11.30

『田沼意次◎その虚実』(4)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、地元の研究者でなければ気がつかないし、知ることも困難なデータについて、いくつも明らかにされていて、教えられるところが大きい。

その一つ。
天明7年(1787)i10月2日、田沼意次(をきつぐ)につげられた再度の知行(2万7000石)と領地の没収、強制隠居と蟄居(ちっきょ)の結果、陸奥・下村ほかで1万石を与えられた孫・龍助淡路守意明 をきあき)は、大坂城の守衛を命ぜられ、かの地で歿したことは、『寛政譜』にある。寛政8年(1796)9月22日、24歳であった。

その後を継いだ次弟の意壱(をきかず)は、一七九九年(寛政11)ニ月、新見大炊頭(おおいのかみ)の娘と結婚したが、翌年九月一七日死去した。(略)
ついで末弟意信(をきのぶ)が家督相続し、一八○ニ年(享和ニ)一一月、松平播磨守妹を嫁に迎えたところ、彼女は翌年八月ちょうど一○ヶ月目に没した。引き続いて翌九月一ニ日、意信も死去した。
このようにして、意知(をきとも)の三人の遺児はついに絶えてしまった。そのあと、意次の弟意誠(をきのぶ)の孫意定(をきさだ)を養子に迎えて嗣がせたところ、意定は相続九ヶ月、一八○四年(文化元)七月に四日(意次の命日)に没した。
以上一七九六年意明の死から、一八○四年意定の死まで、なんと八年間に五人の若者たちがつぎつぎと死んでしまった。(略)

さすがに後藤さんも、この連なった死を、一橋治済(はるさだ)による毒殺とは言っていない。
まあ、不遇による精神的ストレスはあったかもしれない。
後藤さんに望むのは、4人の享年を記しておいてほしかった。

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