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2007.11.29

一橋治済(3)

住まいの近くの区図書館に、静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を、他区の館から取り寄せるサーヴィスを依頼しておいた。
手元の同書は、SBS学苑〔鬼平クラス〕の安池欣一さんが、静岡市立図書館から借り出し、わざわざ、托送便で送ってくださったもので、来月2日のクラス日には返却することになっている。

区図書館から、北区赤羽北図書館から借りられたとの連絡があった。
_150手にしてみると、写真のように、表題・装丁が『田沼意次◎その虚実』とは異なる。
表題は『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(清水書院 センチュリー・ブックス 人と歴史シリーズ 日本21 1971.9.20)。
安池さんからのメールでは、両書、内容は同一とのこと。
ということは、『---◎その虚実』に先立つ13年前、『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)の4年前に、多分、大石慎三郎さんの口添えで刊行されたものと推定。
おそらく、71歳の時の後藤さんの田沼関連の最初の著書ではあるまいか。田沼にこだわってから11年目--人間、一つことに集中すれば、熱意と執念と幸運にもよろうが、10年で一応の成果を手にできるという言い伝えの例証でもある。

さて、『---◎その虚実』でも『---ゆがめられた』でも同じことだが、後藤さんは、こう書いている。

一七八六年(天明六)八月、家治が病のために床についた。御典医大八木伝庵が病床にはべっていたが、病状はかばかしくないと聞いた田沼は、オランダ医の若林敬順・日向陶庵を推挙して立ち会わせた。二人は以前から田沼の家に出入りしていた新進の医師であった。
当時江戸の医療界は、人数の多い旧来の漢方医と、数は少ないがはりきっている新進蘭方医との間に学論が
対立し、事ごとに衝突していた。一波乱なしではおさまらぬ険悪な空気のなかで、漢方医師と蘭方医師が立会い診察をした。診察後の会議の状態は知るよしもないが、結果は、蘭方医師の主張する薬が調進された。ところがその翌日、家治の病状がにわかに変わり、ほどなく絶命した。時を移さず大奥の中で、
 将軍の死は毒殺だ。蘭方医が一服盛ったらしい。黒幕は田沼にちがいない。
といううわさを作って、奥女中らの間にふれ廻る者がいた。
将軍家治の死が、うわさのように毒殺であったとしたら、直接毒薬を飲ませた者はたれか、抜擢されて始めて昇殿し、将軍の脈をみた二人の新進医師か、それとも、自分のなわ張りをあらされ、体面を傷つけられた老典医か。その確認はつかめず、うやむやのうちに、葬られた。また、黒幕についても深く追求した形跡はない。(略)

たれが黒幕にしろ、和蘭両医の家治の病名の診立てはどうだったのか、どこかに記録はないものなのか。それによってどんな薬が勧められたかもわかるのでは。
まあ、家治の毒殺説は、これから先も、ミステリー的興味から、とかく論じられるであろうが、家治死後の政変の事実は変わらない。

後藤さんはさらに筆をすすめて、一橋治済(はるさだ)は---、

まず家斉(いえなり)の第四子家慶(いえよし)を次の将軍に決めておき、第七子敦之助(あつのすけ)を清水家に入れて同家を乗っ取り、一三子峰姫を三家水戸斉修(なりなが)の室となし、一五子斉順(なりなが)を紀州治宝(はるとみ)の養嗣子に入れて同家を継がせた。さらに次男治国(はるくに)の子斉朝(なりとも)を尾張家宗睦(むねむつ)の後嗣に入れた。そして斉朝に男子がないというと今度は家斉の四六子・斉温(なりはる)に嗣(つ)がせ、斉温が死ぬと、つぎは、第三○子・斉荘(なりたか)がその後を襲った。彼はその時すでに田安家を継いでいたのだったが横滑りして尾張家を継いだのである。(略)

一連のことが、治済にどう利益をもたらしたかが書かれていないから、まあ、見方にもよろうが、徳川一門にとってはあたりまえの婚姻・嗣子のようにも思えないこともない。

いささか勇み足かとも思えるのは、田沼政権で老中だった2人の死にも、治済の影があるような文章であろう。

一七八八年七月二四日意次没した後、わずか半年、一七八九年二月に、田沼時代に老中首座だった松平康福(やすよし)と、大老・井伊直幸(なおひで)が死去している。すなわち田沼時代の政界三巨頭が、わずか半年の間に三人も没したのである。(略)

『寛政譜』によると、
寛政元年(1789)2月8日、松平(松井)周防守康福歿、享年71歳。
寛政元年2月28日 井伊掃部頭直幸歿 享年61歳。

井伊直幸には死の1週間前から2回も、また松平康福にも1回、将軍の代理が見舞っている。突然の死ではない。もっとも、疑えば、ゆっくりの毒殺ってこともないではないが。

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コメント

『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』は 1971.9.20発行、剣客商売シリーズが1972年1月号よりスタート、果たして、池上さんはこの本を読んだでしょうか? 最も、剣客商売の構想は大分以前からあったようにも書いてありますが。

投稿: パルシェの枯木 | 2007.11.30 10:59

>パルシェの枯木さん
類推ですけれど、担当編集者というのは、関連資料を届けることもするのです。
最近の例ですと、『オール讀物』のT次長から平岩さんの『新・御宿かわせみ』の解説を頼まれた時、主要舞台になっている築地居留地に関する研究誌3冊を「平岩先生にもお渡ししてありますが---」といって渡されました。1冊1500円前後のものです。

池波さんが『剣客商売』の連載を半年が4ヶ月前に『小説新潮』の編集部に予告していれば、とうぜん、後藤一朗さんの本が゛でたら、すぐに届けたと思います。
それが、あの業界のしきたりというか、仁義なんでしょう。
ドル箱作家になると、担当編集者がリサーチャーにもなってくれるわけです。
池波さんの場合も、文春などはパリまで、フランス語の堪能な美人編集者を付き添わしていますからね。

投稿: chuukyuu | 2007.12.01 10:14

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