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2007.11.01

多可が来た(5)

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)は、剣術の道場へ行く朝は、井戸端で鉄条入りの木刀の素振りを500回やる。
けさも木刀を振っていると、多可(たか 14歳 養女で、きのうからは銕三郎の妹)が大川の上げ潮を見あきたか、帰ってきて、挨拶をした。
「兄上、お早うございます」
「お早よう」
「このあたりは、やはり、海が近いのでございますね。潮の香りの強さが、大塚あたりとはまるで違います」
「匂いを嗅ぎに、わざわざ大川端(おおかわばた)まで行ってきたのか。もの好きな」
(女は匂いに敏感なんだな)
「吹上の下を流れる千川を見馴れております多可の目には、大川端の風情が広々と見えます」

「佃島が目の前で、大きな船がもやっておりました」
「うん。菱垣廻船や千石船がいつも停泊している」

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(小林清親 「佃島雨晴」)

多可は佃島といったが、ここらあたりから見えているのは石川島・月島のほうだ」、
のちに、平蔵宣以となった銕三郎が、この石川島に人足寄場を設けることになろうとは、このとき、多可銕三郎自身も知らない。

銕三郎は、上半身をあらわにしているのがなんとなく照れくさく、いそいで、手ぬぐいをしぼって汗を拭き、袖を通した。

これまでは下働きたちにしか見られなかったが、多可に見られるとなると、上半身、双肌(ろはだ)脱ぎはまずいかろう。しかし、素振りも500回もつづけると、汗びっしょりになる。
多可の目のとどかないところとなると、納屋の裏あたりしかないが、それにしても、嫡男のおれが、なんで泥棒猫かなにかのように、そんなところで隠れるように素振りをしなければならないんだ。間尺に会わない)
憤然としていると、多可が言った。
「兄上。汗がまだ匂っています。もう一度、お拭きなさいませ。背中のほう、お手伝いいたします」
「よ、余計なお世話だ」

銕三郎は、そのまま、自室へ戻ろうと、そばをとおりぬけながら、嗅ぐともなく多可の匂いを鼻に入れた。大川端までの往復ですこし汗ばんだか、みかんのような香りを発していた。
(これは、少女の匂いだ。あの夜、芙沙の裸躰から匂いたっていたのは、もっと濃密な、そう、生きもの---抱いた猫があばれるとき出すような匂いだった)

またしても、お芙沙との比較である。
女を見る基点が、お芙沙になってしまっている。

家僕の太作(たさく)がひそかに苦慮しているところも、これなのだ。
少年の銕三郎が、熟しきったお芙沙を女の基点にしては、偏る。

朝食になったとき、母・が言った。
「今日からは、膳は父上とごいっしょとなりました」
これまでは、父・平蔵宣雄は書院で摂っていた。銕三郎は、母といっしょに台所の隣の部屋で食べた。400石の格式の幕臣の家のしきたりであった。
それが昇格した---というより、宣雄が、多可に配慮したのであろう。

朝食といっても、白粥と梅干、それに削り鰹節程度のものである。
昼は、宣雄は弁当を江戸城内の小十人頭がつめている桧の間で摂る。

書院に膳が運ばれてくると、宣雄がまず言った、
「こちらが箸をとるまで、箸をとってはならぬ。話しかけられたら、箸を措(お)いてから答えよ。2本は乱さずに揃える。ものを含んだまま口をきいてはならぬ」
(いよいよ始まった。箸のあげおろしにまで気をつかうとは、まさにこのことだ)
銕三郎は思った。
母・は、上総(かずさ)の村長(むらおさ)の娘ゆえ、あまり行儀ばったことはいわなかった。
父・宣雄も、堅苦しいほうではなかったが、城勤めのあれこれを、いまから覚えさせておこうとしている。

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005長谷川宣雄の養女と園 」カテゴリの記事

コメント

この回から折りにふれて、小林清親画伯『東京名所図会』(仮称)からも借用することにしました。
没年を調べて、著作権がきれていることを確認できたからです。
両親の離婚により、池波少年は母方の祖父の家(永住町)に引きとられ、西町小学校へ通いながら、絵を描きまくっていました。
それを見た祖父が、小林清親画伯に弟子入りを頼んでやる---と約束してくれたと、エッセイにあります。祖父の死で約束は果たされませんでしたが。
ま、これも、縁ですから。

投稿: ちゅうすけ | 2007.11.03 06:47

清親の「東京名所図」は「江戸名所図会」とは一味違ってますね。
伝統的浮世絵に西洋画の遠近法、光と影が取り入れられて明治の東京の風景がリアリティに描かれていて、でも江戸の情緒が感じられる清親画のアップ楽しみです!

投稿: みやこのお豊 | 2007.11.03 11:18

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