« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007年12月の記事

2007.12.31

与詩(よし)を迎えに(11)

長谷川さま。お部屋へお導きいたします」
荷運びの雲助・〔風速(かざはや)〕権七(ごんしち)を見送った銕三郎(てつさぶろう)が引き返すと、上がりがまちに、女中の衣装に着替えた都茂(とも)が待っていた。
「おや。都茂どのは、女中もなさるのかな」
銕三郎が問いかけた。
「あら。わたしはもともと、〔めうが屋〕の女中でございますよ。たまたま、お嬢さまのお迎えに平塚まで出向いただけなんです」
都茂さんが女中頭とは、これは、好運というもの」
「なんの運でございます?」
「小田原宿で供の藤六(とおろく)を先発させてしまったので、いささか、こころ細くおもっていたところなのです」
長谷川さまがこころ細いだなんて、信じられません。なんでしたら、その藤六さんとやらの代わりに、わたしが府中までお供をしてもよろしゅうございますよ」
「そんな冗談を言うと、ここのご亭主に叱られますぞ」
「いいえ。本気です」
なにが可笑しいのか、都茂は笑いころげた。

そこへ、むすめ風に着替えて奥から現れた阿記(あき)が、
都茂さん。長谷川さまがお困りじゃありませんか。ムダ口をいってないで、早く、ご案内をおし」
都茂は、阿記に見えないようにちろりと舌をだしてから、改まった口調で、
「いい塩梅(あんばい)に、離れのお客さまが、朝、お発ちになっておりましたので、そちらを、長谷川さまに---との主人の申しつけでございます」
「それはかたじけない」

ほとんどの湯治の客たちは、表の2階に逗留している。
離れは、母屋から半丁ほど離れたしもた家風につくってあり、表の雑音がほとんど達しない。
「忍びあいに向いていますな」
「今夜、わたしが忍んで参ってもよろしゅうございますよ」
「いや。母上に叱られます」
「冗談なのに、長谷川さまは正気なんだから。湯舟は、この戸の向こうです。誰も参りませんから、お独りでごゆっくり、お疲れをおほころばせくださいませ。なんでしたら、わたしが背中をおこすりしてもよろしゅうございます」
「いや。ありがたいが---」
「こんなおばあちゃんだと、お母上に叱られます、ですか」
都茂は、また、笑いころげながら、いささかうらめしげな光がこもった目を伏せた。

母屋へ引き返す都茂に、銕三郎がやさしく言った。
「ご女中頭どの。拙が湯浴(ゆあ)みを終えたころあいに、ご亭主どのへ、ここへ顔をお見せくださいと頼んでおいてくだされませぬか」
「承知いたしましてございます」
背を向けたまま、都茂が応じた。

硫黄(いおう)の臭いの強い、黄色い色合いの湯が湯舟にあふれている。
真水のあがり湯で流してもながしても、肌についたつるつるが落ちない。
部屋へ戻ると、炬燵(こたつ)に炭火が入っていた。
高地なので、冷気が、まだきつい季節だ。

〔めうが屋〕の亭主・次右衛門がやってきた。
「ご亭主どのは、この地にお永いのでしょうか?」
「畑宿(はたしゅく)村から婿に入って、30年になります」
「それは、それは。ところで、ご同業の三島宿本陣・樋口伝左衛門どののことですが---」
「去年、お亡りになりました先代のほうですか、それとも、襲名なさったいまの伝左衛門どの---」
「えっ?、伝左衛門どのがお亡くなりになった---存じませぬでした」
「去年のいまごろ、脳卒中とうかがっております」
「で、襲名なさったのは、ご子息?」
「いえ---お嬢さまに、府中の脇本陣・〔大万屋〕さんから婿ををお迎えになって---」
「お嬢さまって---4年前に泊まったときには、いなかったようだが---」
「先代は艶福な方らしく、脇におつくりになっていて、お嫁にお出しになったのに、数年で後家におなりになり、幸いといっては失礼にあたりますが、先代のご内儀が3年前に歿されたので、家へ入れになったのだそうでございます。それはお美しくお上品な、芯のしっかりなさったご新造さんだそうで---お名は、なんでも、お芙美(ふみ)さんとか、お芙沙(ふさ)さんとか---」
「あの芙沙---さん」
「はい。同業の仲間内では、あの方がお継ぎになったから、〔樋口屋〕はご安泰、と評判です」
「ほう。いちど、お目どおりを願いたいものですな」
「ご紹介状をしたためましょうか」
「いや---じつは、こたびも、三島での宿は〔樋口屋〕がとってあるのです」

次右衛門が引きさがったあと、銕三郎は掌の汗をぬぐっていた。
(おれが宿泊したら、お芙沙はどんな顔をするだろう。歓待してくれるか。4年前の夜のことはなかったこととして黙殺するか。宿賃を前払いしているのだから、おれが行くことは存じていることになった)

炬燵に足をいれて横になっているうちに、うとうと、まどろんだらしい。
長谷川さま」
声にあけた目のまん前に、女の顔が---。

Up_360

「あっ」
凝視。

_360

「なんだ、阿記どのか」
「なんだ、阿記どのか--とは、どういう意味でございますか?」

_360_2
(国芳『江戸錦吾妻文庫』[扉絵])

銕三郎が起きあがると、阿記は差し向かいの形で、炬燵の反対側に足を入れた。

長谷川さま。お気にさわったら、いつでも、そのようにおっしゃってください」
阿記は、そう、前置きしておいて、父・次右衛門から、銕三郎が、〔樋口屋〕のお芙沙と面識があるのではないかと聞いたが、
長谷川さま。4年前のお旅で、後家になられたばかりのお芙沙さんと、わけありにおなりになったのではございませんか?」
阿記どのは、客商売の老舗育ち、さすがに鋭い---なれど、4年前といえば拙は、まだ、14歳ですぞ」
「なにが、まだ---なものですか。大人のおんなからみれば、14歳は、りっぱな男性でございます」
「ほう---」
「ごまかさないでくださいませ。大人のおんな、と申し上げました。つまり、結婚とかなにかを考えなくてもいいおんなということです」
「なるほど---」
「まだ、しらっぱくれていらっしゃいますね。観念して、白状なさいませ。なにがあったのでございますか? 4年前にお芙沙さんと---」

銕三郎のあたまの中には、いつもの絵が浮かんでいた。

_360_3
(歌麿『歌まくら』[後家の睦]部分)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

阿記どの。拙からの問いにお答えくださったら、拙も正直にお話しします。阿記どののこんどの里帰りは、ただの里帰りですかな。それとも---」
「はい。縁切りのつもりの里帰りです。もう、平塚へは戻りません。旬日で、鎌倉の松ヶ浦の尼寺・東慶寺へ足かけ3年(実際は丸2年)、お世話になるつもりでおります。父母も承知でございます。
はい、わたしは告白しました。こんどは、長谷川さまの側でございます。さあ、さあ---さあ、さあ」
「なぜ、拙とお芙沙さんのことに、おこだわりになるのですか?」
「また、ずるい。でも、申しあげます。〔樋口屋〕さんに、お泊りなってはなりません。お芙沙さんにとっても、長谷川さまにとっても、よい結果にはなりません」
「拙も、そのつもりになってきております。これで、阿記どのご推察どおりの返答になりましたね」
「許してさしあげます」
2人は、はればれと笑った。
銕三郎は、成人期の関門の一つを無事に越えたつもりになった。


| | コメント (0)

2007.12.30

与詩(よし)を迎えに(10)

「む? この匂いは---」
双子山の北はずれ---芦の湯村の近くで、銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、ものが腐っているような異臭を感じた。
「芦の湯の売りものの、硫黄(いおう)の匂いでございます」
阿記(あき 21歳)の声がころころと嬉しげにはずんでいる。生まれ故郷の香りが誇らしげだ。

_360_3
(箱根七湯 『東海道名所図会』)

Up_360
(上掲絵の部分拡大)

村のとば口で立ち止まった阿記は、銕三郎に寄りそい、小声で、
「長谷川さま。お願いがございます」
硫黄の匂いに、阿記の髪の香油の香りがまじる。
「なんでしょうかな?」
「村人の口がうるそうございます。わたしと都茂(とも 43歳)は、ここから先に参り、家へ戻ります。長谷川さまは一と息遅れて〔めうがや〕へお入りくださいませ」
「あいわかりました。都茂さん。権七(ごんしち)どのと昼を摂りたいゆえ、2人前の食事を頼んでおいてください。飲み物も忘れずにな」

権七が驚いたような声をだした。
長谷川さま。あっしに奢ってくださるんで?」
「そのつもりだが---嫌ですか?」
「滅相もねえ。こいつぁ、豪儀だ」

芦の湯村には20軒ほどの湯治旅籠があるが、〔めうが屋〕は、畑宿(はたしゅく)村の実力者・茗荷屋畑右衛門の一族というだけあって、店がまえも広く、もっとも大きい旅籠で、村の入り口近くにあった。

玄関に、阿記が油紙をもって待っていた。
「お腰のものをお預かりいたします」
「えっ?」
「硫黄の湯気(ゆげ)で、錆がつくことがございます。油紙でしっかりとつつんでおけば、大事ございませんのです」

「湯は昼飯のあと」と断った銕三郎が、権七の盃へ酒を注いでいると、宿の主人・次右衛門があいさつに現れた。宿泊の礼をきまり文句で述べたあと、
「先刻は、むすめたちをお助けいただいたそうで、かたじけなく存じます」
「いや、ご亭主どの。礼は、権七どのへ申されよ。権七どのが気やすく応じてくださったればこそ、です」
権七が酒にむせる。
権七さん。ご配慮、ありがとうよ」

次右衛門が去ると、権七が言った。
長谷川さま。あなたというご武家さまは、齢に似合わず、人たらしの名人でごぜえやすな」
「たらしてなど、してない」
長谷川さまのような人あしらいをされちまうと、この権七めにかぎりやせん、どんな荒くれでも、長谷川さまのためなら---と心にきめますぜ」
「そうであって、ほしい」
「そうでありやすとも」
「ま、飲(や)ってください」

食事を終えた権七が、
「お帰りの節、かならずお手伝いをさせてくだせえよ」
「日時を、箱根の関所へ、きっと、伝えておくゆえ、頼みましたぞ」
「そうそう。いわでものことでやすが---。あの、阿記とかいうご新造さんも、大年増の都茂さんも、長谷川さまにぞっこんの気配ですだ。くれぐれもご要心を---」
「なにを愚かな---」
「いやぁ、この〔風速(かざはや)〕の権七、女を観る目はたしかでさあ」
「一泊だけの客です。気をまわしてはなりません」
「ま、湯蛸(ゆだこ)になって食われてしまわねえよう---せいぜい、気をおつけなすって。では、お帰りをお待ちしとります」

| | コメント (0)

2007.12.29

与詩(よし)を迎えに(9)

小田原から3里(12キロ)、七曲り八折れしながら登り坂を歩いてきた。早春だというのに、汗がとまらない。
畑宿(はたしゅく)村が近い。

_360
(箱根道・畑宿村付近 左・箱根駅 右・小田原宿から
『東海道分間延絵図』)

銕三郎(てつさぶろう)は、その村の茶店で一休みするつもりで、坂を上っていると、饅頭形の菅笠がころがってきた。
受けとめ.る。紫色の緒がついていた。
坂の上の2人の女性に、雲助が因縁をつけている声が聞こえてきた。

「笠は、こなたの方のものですかな?」
銕三郎が割ってはいって、女性に声をかけた。
若い新造風と大年増が、
「ありがとうございます」
すがりつくような目で、礼をいいう。
銕三郎は事態を察した。小田原から荷を背負ってきた雲助が酒代をせびり、応じなかった侍女の菅笠を、放りなげてすごんだのだ。

「笠を拾ったのもなにかのご縁。どうだろう。ご両所に代わって、拙がお手前の言い分を聞こうではないか。いや。申しおくれた、拙は、府中奉行の朝倉どのの身内で、長谷川宣以(のぶため)といいます」
府中奉行の名前をだしたのが効いたらしい。
「ご武家さまが話を聞いてくださるなら、それでもいい」
「では、あらちで、聞かせていただく」
銕三郎は先に立って、女たちから離れた。

「どういうことかな?」
「小田原での取り決めは、畑宿まで、坂登りできまりの400文、酒手を別に100文だった」
「それで?」
「湯本の茶屋で休んだときに、大年増のほうが、自分の荷もわしへ渡した。それで、別口の400文を請求しただが、湯元からだから半分の200文にしてくれとぬかしやがった」
「それは、お手前の言い分がまっとうだな。あいわかった。これで話がついたことにしてくれないか」
銕三郎が小粒を2個、雲助に握らせると、とたんに態度が軟化した。
「ところで、こちらは名乗った。して、お手前の名は?」
「名なんか、どうでもいいではねえか」
「いや、失礼した。じつは、府中奉行のむすめごを、江戸へ連れに行くところで、そのときの荷物運びに、お手前を指名したいとおもったのでな」
「そういうことなら---権七(ごんしち)と呼んでくだせえ」
「あいわかった。権七どの、帰りの日時は、前もって箱根関所へ通じておくから、よしなに頼みますぞ」
「若いのに、まあ、話の通じるご武家さまだ。おらぁ、たまげたよ」

2人連れの女性の行く先は、芦の湯とのこと。
「じつは、手前も、芦の湯で脚休めをするところです」
「よろしければ、ごいっしょ、お願いできましょうか?」
権七どの。そういうことだ。荷運びは芦の湯までだが、向こうに着いたら、畑宿村から芦の湯までの荷運び賃は別にはらう」
「がってんでさぁ」

道々、聞いたところによると、若い新造風は阿記(あき)といい、眉は落としていないが、平塚の太物商い〔越中屋〕の内儀で、実家へ里帰りするところだという。実家は芦の湯の旅籠〔めうが屋〕とのこと。侍女はお都茂(とも)と。
「じつは、芦の湯の宿を決めていないです」
「それなら、どうぞ、わたしの実家へお泊りください。先刻のお返しもいたしたいし」
「これは重畳。お言葉に甘えてご厄介になります。ところで、差しつかえなければ、小田原から権七どのに、畑宿村まで、と頼まれたわけは?」
「畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門が一族なので、荷物を預かってもらい、あとで実家の者を引き取りに行かせるつもりでした」
阿記のいいわけである。

芦の湯は、畑宿村はずれを右に折れて小1里(約3キロ)。

_360_2
(上掲図の畑宿村はずれの拡大 道を横切っている左端細尾石橋の
先から右へ折れる小道が芦の湯へ28丁)

_360_5
(赤○=芦の湯  赤細線=山道 青○=畑宿 緑○=箱根駅
明治19年製版の地図)


 

| | コメント (0)

2007.12.28

与詩(よし)を迎えに(8)

(はて。あの男、〔荒神屋(こうじんや)〕の助太郎(すけたろう)ではないのか。京師の東のはずれの荒神口に太物(ふともの 木綿の着物)の店をだしているとかいっていたが、また、下ってきたのか?)

銕三郎(てつさぶろうが)が不審におもった男は、万能薬と評判の〔透頂香(とうちんこう)〕を商っている〔ういろう〕店の向いで、帳面になにやら書き込んでいる2人づれである。

_365
ういろう屋 (『東海道名所図会』)

4年前に駿州・田中城や志太郡(したこおり)の小川(こがわ)への旅の途次、箱根の芦ノ湖畔で話しかけられ、沼津で別れた。
【参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)

その時の助太郎は一人旅だったが、こんどは、25,6歳の精悍な男づれである。
助太郎のほうは相変わらず、細身をたもっているが、そろそろ、40代の半ばのはず。

あのとき、いっしょだった老僕の太作(たさく)は、絵図面師かも---と見たが、当人は妻女と太物屋をやっているとはいっていた。余裕ができると、ほうぼうの風景を写生してまわるのと、大店の表がまえを写し描くのを趣味にしているとも、本人の口から聞いた。

声をかけるかどうか一瞬、迷ったが、〔ういろう〕店に出入する姿は認められるにきまっている。
こころを決めて、声をかけた。
「〔荒神屋〕の助太郎どのではありませぬか」

呼びかけられた助太郎は、瞬時、びくっとしたが、銕三郎を確認すると、たちまち、細い目を柔和な笑みに変えて、
「おや---長谷川さまでは---こんなところで---。ごりっぱな若衆におなりになっているので、咄嗟に、わが目を疑いました。お久しぶりでございます」
「京ではなかったのですか?」
長谷川さまこそ、どうして小田原へ?」
「府中(静岡市)への途次です。助太郎どのはいずれへ?」
「これの母親の病気が重いということで---下総へ」
と連れの男を目で指し、
「あ、娘婿の彦次でございます。これ、ごあいさつしないか。お旗本の長谷川さまの若さまだ」
彦次と申します。お初にお目にかかります」

助太郎どのの四方山(よもやま)話しもお聞きしたいのですが、この店で〔透頂香(とうちんこう)〕を求めたら箱根越えです。先を急ぎますので---」
銕三郎はそういって、彦次の母親の分の〔透頂香(とうちんこう)〕も小さな包にしてもらって店の外へ出てみると、2人は消えていた。
東海道の大磯のほうを見やったが、その姿はなかった。
(相変わらずの速脚だなあ)

あきらめた銕三郎が、箱根口のほうへ去ると、〔ういろう〕店の向いの家の脇の猫道に潜んでいた2人がぬっと現れた。
「危ないところであった。彦次がうまく口うらを合わせてくれたので助かった」
長谷川とかいいましたか、あの若侍さん?」
「そうだ。父ごは、小十人組の頭(かしら)といっていたから、のちのちには先手の組頭、そして、火盗改メだ」
「くわばら、くわばら」

荒神〕の助太郎は、まさか、銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が、火盗改メから京都・西町奉行として赴任してくることも、そのあと、銕三郎が火盗改メとなった〔鬼平〕に、娘の二代目〔荒神〕のお(なつ)が追われることになろうとは、このときは予想もしていない。

| | コメント (2)

2007.12.27

与詩(よし)を迎えに(7)

藤六(とうろく)。おぬし、一足先に駿府へ参り、 おれの到着が一日か二日遅れると、朝倉ご奉行の役宅へ通じておいてくれぬか」

小田原の脇本陣〔小清水伊兵衛〕方を発つ朝、銕三郎(てつさぶろう)は、供の藤六(45歳)に命じた。
「若、お疲れですか?」
「うん。久しぶりの遠出で、いささかくたびれておる。それで、箱根の湯に、一日、二日か、浸(つ)かって行きたい。これは、駿府で、おれを待っているあいだの、夜の軍資金だ」
「これは、どうも---。それでは、お言葉のとおりにさせていただきます」
「うん。おれはこれから、、〔ういろう〕へ立ち寄って、朝倉ご奉行への見舞いの〔透頂香(とうちんこう)を求めてくる。おぬしは、先をいそげ」
「はい。駿府でお待ちしております」

箱根道へ急ぐ藤六の背中へ、声にはださず、銕三郎は胸の奥でつぶやいた。
(してやったり。三島での一日がこれで得られた)
三島へは昼に着き、大社の裏のお芙沙(ふさ)の消息を近所で聞いてみるつもりなのだ。

さて---。
このアーカイブの書き手は、ずっと、思案しつづけてきた。というより、探しつづけてきた。
なにを? 銕三郎がお芙沙に再会できたとして、その様子を伝える絵を、である。
4年前の初めての出会いの姿は、なんども引いたように、歌麿『歌まくら』[若後家の睦(むつみ)]に象徴させてきた。

_360

_360_2

偶然に出会ったこの絵、着衣とはいえ、銕三郎がお芙沙に抱いているイメージに、あまりにもぴったりしすぎていることに、あとで気がついた。

で、4年後---銕三郎は18歳、お芙沙は30歳になるかならぬか。その2人の出会いにふさわしい絵をさがしまくったのだが、出会わない。
芙沙は後家か人妻だから、眉を落としていなければならない。

_360_3
(北斎『ついの雛形』[豪的なおんな]部分)

_360_4
(北斎『させもが露』[好色女の独言]部分)

_360_6

さすが、北斎。法悦の境地をただようこの面もち---とくに、見るでもなく、閉じるでもない双瞳には瞠目(?)。

与詩(よし)を迎えに(7)

_360_5
(北斎『させもが露』[若後家の好色]部分)

360_2
(国貞『艶紫娯拾余話』[水原]部分)

_360
(国芳『江戸錦吾妻文庫』[後家の介抱]部分)

_360_2
(国芳『江戸錦吾妻文庫』[舐乳]部分)

どうも、どれも、銕三郎が描いているイメージではなさそうだ。歌麿の若後家の、匂うように上品で、それていて秘めた色気がほしいのだ。

これでは、銕三郎をお芙沙にあわせるわけにはいかなくなってきてしまう。

それでも、読み手の方々が、だれそれの絵でいいのでは---とおっしゃるのであれば、ご支持にしたがうのにやぶさかではない。


| | コメント (0)

2007.12.26

与詩(よし)を迎えに(6)

銕三郎(てつさぶろう 18歳)。これは、道中の小遣いである。なんになと、使うがよい。旅籠の支払いは、前のときと同じで、すでにとどけてある」
あすは駿府へ旅立つ前の日の夕餉(ゆうげ)のとき、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)がかなり重い金袋を渡してくれた。

「かたじけのう。遠慮なく頂戴いたします」
「こんどは、親類中から餞別を集めていないらしいゆえ、それぐらいは必要であろう」
「はっ。どうも。あの節は、見苦しいことをいたして申しわけございませぬでした」
「もう、よい。すんだことをくよくよと悩むでない」

4年前に銕三郎は、あることを調べるために駿州・藤枝宿はずれの田中城まで、旅をした。初めての旅という口実を使って、親類中をまわり、餞別をたっぷり集めたのだ。

その旅には、銕三郎にとって、思いがけない人生体験が待っていた。女躰に初めて接したのである。

_685
(歌麿『歌まくら』[若後家の睦」部分 「芸術新潮]2003年1月号)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

夫を亡くしたばかりのお芙沙に出会い、男になった。
豊饒な体験であった。
芙沙のやわらかな女躰が発した、山百合のそれのように濃密な香りが、いまでも鼻あたりで匂うよう気がすることがときどきある。
(4年も前のことなのに。以来、女躰には触れていない。塾の悪童たちからしきりに誘われるが、お芙沙を裏切るようで、そういう場所の女は、抱きたくない)

(お芙沙に会うことがかなうやもしれない)
そう思っただけで、股間が固くなってくる。
そういう年齢なのだ。
股間もお芙沙を求めてうずく。
自分でも怖いほどに再会を熱望している。
(元服名・宣以 のぶため となったと告げたら、お芙沙は「やはり、わたしには(てつ)さまです」というだろうか)
とめどもない。

妄想をふりはらい、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)のところの小者がとどけてくれた、駿府町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の経歴書に、しばし専念することにした。

_360_2

駿府奉行は1000石高だが、役料が別に500俵。奉行所には与力8騎、同心60人。
(身内でいうと、本家の主膳正直(まさなお 54歳 徒(かち)の頭 1450石)伯父とおもって対すればいいか)。

銕三郎は、自分の意見を気ばとも気おくれもしないで坦々というが、年長者の言うことも最後までうなずきながら聞くので、彼らからは不思議と可愛いがられるほうだ。
朝倉のじいさんは病床にあるときいている。小田原で〔ういろう〕でも買って行こう)。

| | コメント (0)

2007.12.25

与詩(よし)を迎えに(5)

中根さま。朝倉ご奉行の最初の奥方に嫁がれた、大木(400石)さまのことをお伺いしてよろしゅうございますしょうか?」
「先代の孫八郎親次(ちかつぐ 82歳卒)どのですかな、それとも、当代の喜兵衛親祇(ちかまさ 53歳 新番の2番手組頭)どののほうですかな」

銕三郎(てつさぶろう)は、そこまでは意識していなかった。嫁いだ人は、朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)が駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)として赴任する前に、江戸ですでに亡じている。
中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)は、温和な目に、興味深げな色をうかべて、銕三郎の問いかけを待っていた。

「いえ、大木さまの菩提寺が、わが家とおなじ、四谷・須賀町の戒行寺なものですから、どのようなお家柄かと---」
「そのことでしたか。大木家は、武田方の流れです。長谷川どのは法華宗でしたな。推察ですが、大木どのは身延(みのぶ)のご縁やもしれませぬな。屋敷はたしか、三番町。ご当代は、新番・2番手のお組頭が長いようです」
「あの、お逝きになった方にお子は?」
「あったとしても、江戸の屋敷にお住まいでしょうが、もう、相当のお齢ゆえ、男子なら養子に、女子なら嫁がれていると考えたほうがよろしいでしょう。お子がなにか?」
「駿府に迎えに行きます養女が6歳なので、いじめにでもあっていたらと案じましたが、なるほど、朝倉ご奉行のお齢をからしますと---これは、杞憂でした」

「それで、いつ、お発ちかな?」
「あと、3日のうちでございます」
「それまでに、朝倉ご奉行のご経歴をお届けいたしましょう」
「あ、お手数をおかけして、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎どのに妹ごができる慶事のお役にたてば、老骨の喜びでもありますわい」

_360


| | コメント (0)

2007.12.24

与詩(よし)を迎えに(4)

「駿府の朝倉ご奉行(仁左衛門景増 かげます 61歳 300石)の2番目の奥方は離縁---また、何ゆえでございましょう?」
銕三郎(てつさぶろう)は、うっかり質(き)いて、恥じた。
他家の内緒(ないしょ)ごとに立ち入ってはならぬと、父・宣雄(のぶお)から、きつく言われている。

中根伝左衛門正雅(まさちか 76歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)が応えた。
「さあ。そこまでは、届け書には記してありませんが、女子の出生届けと、奥方の離縁届けが同じ日になっているところをみると、その女子の誕生にかかわることかもしれませんな」
「その、女子の誕生は?」
「宝歴8年だったような---」
「と、すると、いま6歳---」
「そうなりますかな」
「冗談ではない。与詩(よし)だ」
「いま、なんといわれました?」
「いえ。なんでもありません」
「そうですか。それで、同じ年に3番目の奥方をお迎えになり申したが、なんでも、20歳のお若い女性(にょしょう)だったようです」
志乃(しの)どのです」
「ほう---」
「わが家に養女にきた多可の、従姉(いとこ)です」
「すると、]陸奥・守山藩(2万石)の江戸藩邸の三木---忠大夫(ちゅうだゆう)と申されたかな。そのご仁の---」
「兄の子と聞いています」
銕三郎どの---」
「はい」
長谷川どのには内緒にしてくだされますかな」
「なんでございましょう?」
「その、2番目の奥方のことじゃ」
「つまり、6歳の与詩の実母---」
「そのお方は、駿州の天領地のご代官・平岡彦兵衛良寛(よしひろ 51歳 200俵)の妹ごとなっており、朝倉どのが駿府のご奉行に赴任されときに、身辺のお世話をしていて、奥方になられたようで---」
「------」
「それが、平岡どのの実の妹ではなく、養女---」
「養女?」
滝川家ゆかりの女性(にょしよう)らしく---」
滝川といわれますと、織田右府信長)さまの重職だった?」
「はい。しかし、その女性(にょしょう)の父親・滝川無久(むきゅう)なるご仁は、徳川の家臣にはおりません。平岡良寛どのの亡父・良久(よしひさ)どのが山城の代官時代にでも知りあった、滝川一族の中の浪人でしょう。いや、出自はともかく---」
中根伝左衛門は、駿府定番から帰任した大番の番士から聞いたところによると---平岡家の養女を、赴任してきた朝倉ご奉行の身辺のお世話をするように持ちかけたのが、平岡代官だったとか。そのときも、その女性(にょしょう)は20歳をすぎているように見えたと。
朝倉奉行は53歳だったから、女性(にょしょう)の年齢は気にならなかったろうと、彼女が妊娠して2番目の奥方になおったときの、番士たちの無責任なうわさだった。

宝暦8年(1758)---すなわち、与詩が生まれた年、守山藩(2万2000石)の江戸屋敷居住・三木久大夫が、藩主・大学頭頼寛(よりひろ)が幕用で駿府に停泊したとき、とつぜん体調をくずして旬日の滞在となった。久太夫は何度か町奉行の朝倉景増と打ちあわせで会っているうちに、亡妻とのあいだにできていた娘・志乃を江戸から呼び、臨月に近い2番目の奥方に代わって身辺の世話がかりにする話がついた。
そして、奉行はこの20歳の志乃にも手をつけ、たちまち懐妊。そのことが2番目の奥方の耳に入るや、重い気欝になり、やがて、離縁ということにまでなった。

_360


| | コメント (0)

2007.12.23

与詩(よし)を迎えに(3)

「お取りこみご多用のところ、私ごとの些事をお願いいたし、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎(てつさぶろう)どのは、親戚も同然ゆえ。しかも、養女のことは手前がおすすめしたことでもありますから---」
中根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)邸である。
3年前よりもさらに歯が抜けてしまっているので、伝左衛門の言葉は、聞きとりにくい。

老僕の太作が書箋をとどけた2日後が伝左衛門の非番で、依頼した調べはすませていくれていた。

取り込み---銕三郎が言ったのは、伝左衛門が2年前に迎えた養子---花井惣右衛門貞辰(さだとき 当時67歳 甲府勤番 260俵)のニ男・忠三郎正庸(まさつね 28歳 無役)に、最初の女子が生まれたばかりであることを指している。

3年前、築地の長谷川邸を訪れた伝左衛門を、銕三郎が付きそって牛込逢坂まで送ったときには、忠三郎正庸の養子の件は決まっていなかった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣養子は手続きがいろいろと面倒なこともあるが、伝左衛門の場合は、実の息子への愛着が強かったのと、自分が職に執着して家督を遅らせた自責の念もあり、このまま家名を絶ってもとひそかに考えもし、養子縁組を後(おく)らせていた。

そんなこともあって、伝左衛門は、亡息・銕之助(てつのすけ)と同じ「」の字を名にもつ銕三郎に特別の親しみを感じたらしく、自分が11歳で天野家から中根家へ養子に入ったときの生ぐさい話しを打ち明けてくれた。
というのは、若くて後家になった家付きむすめの義母の情事についてのことだった。養子だった28歳の夫が、大坂定番で赴任中に病死したのである。帰任まではと張り詰めていた決意がくずれたか、孤閨がまもれなくなり、養子の大助(のちの伝左衛門)につらくあたった。
寡婦の生理に気づいた大助は、その期間の夜は、義妹2人を連れて親類の家へ泊まりこんで難を避けることにした。

そのときの詳細は、2007年10月15日[養女のすすめ](2)
2007年10月16日[養女のすすめろ](3)

_360
(中根伝左衛門。緑○=継母と亡妻。黄○=養子の正庸)

「お2人目の養女をお迎えになるとか」
「はい。両親がそのように決めました。で、妹になる子を、手前が駿府へ受け取りにまいります」
「それは、重畳。先に養女になられた---」
多可です」
「そう。その多可どのは、まことにご不憫でしたな」
「こんどの養女は、多可の継姉に縁があるようです」
「そのようですな。じつは、ご依頼があったので、駿府のご奉行・朝倉朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どののご内室との婚儀届けをあらめてみました。後妻どのがおもうけになったおんなのお子のようですな」
「さあ。そこまでは存じませぬでしたが---」

多可どのの実父は、美濃・加納藩の松平侯のご家中でしたな」
三木忠大夫どの」
「さよう、さよう。齢なもので、遠いお方の姓名は咄嗟に出なくなりまして、失礼つかまつった---朝倉ご奉行の三度目のご内室も、その三木どののむすめごでござった」
「そのように聞いております」
「2人目のご内室が、離縁されていることも?」
「存じませんでした」

| | コメント (0)

2007.12.22

与詩(よし)を迎えに(2)

翌日。
銕三郎(てつさぶろう 諱(いみな)は宣以 のぶため)は、老僕・太作(たさく 57歳)を呼んだ。
「牛込ご門まで、使いをしてくれぬか」
「牛込ご門といいますと---」
「ご書物奉行の中根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)さまのところだ。いつだったかの夜、拙がお送りした。逢坂横町あたりだ」
「昼間ですから、あたりの店屋か自身番所で訊けば、たやすくわかるとおもいます」
「書状をとどけ、家僕にいちばん近い非番の日を教えてもらってきてくれ」
銕三郎は、昨夜のうちにしたためた書状を手渡した。

「若---」
「む。なにか、分からぬことでも---」
「さようではありませぬ。このたびの駿府行きにお供がかないませず、申しわけありませぬ」
「なんだ、もう、太作たちのあいだにまで知れているのか」
「このたびのお供は、殿さまから藤六(とうろく 45歳)が申しつかっております。あれはまだ若いし、しっかり者ですから、お供は大丈夫、勤まりましょう」
「そうか、藤六か」

太作は、にじりよって声をひそめた。
「若。三島宿で、大社の裏へいらっしゃってはなりませぬ」
「なにを申すかと思えば---」
「いいえ。若は、大社の裏をお訪ねになろうとお考えのはずです。しかし、それだけは、なさってはなりませぬ」
「なにゆえ、だ?」
「若。あれから、5年近く経っております」
「うむ---」
「女性(にしょう)にとって、20代の5年は、ふつうの齢の倍にも3倍にもあたるほど、変化がございます」
「3倍も、な」
「はい。その女性(にょしょう)の方は、いま、若さまと顔をあわせたら、ひどくお困りになるやもしれませぬ」
「そうときまったものでもなかろうが?」
「いえ。女性(にょしょう)の過去に立ち入るようなことはしないのが、まことの男というものでございます」
太作の忠告、しかと分かったから、安心していてよい」
「男と男の約束でこざいますぞ」
「うむ。男同士の約定だ」

しかし、銕三郎のこころのうちは、太作の言葉で逆に火がついていた。
(5年か。お芙沙(ふさ)も30歳近い。どんなおんなになっていることか)。

__360
(歌麿『後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

A_360_2
(歌麿『歌撰恋之部 物思恋』

(お芙沙は、ときどきは、おれのことを思いだしていてはくれないのだろうか)。
(おなごは、処女(むすめ)のしるしをささげた男と、初穂を食わせてくれた男は忘れぬ---ものと、黄鶴塾の大久保が言っていたがなあ。お芙沙はおれの初穂を食った)。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

| | コメント (0)

2007.12.21

与詩(よし)を迎えに

夕食に、母・妙(たえ)が同席した---といっても、膳はない。

(てつさぶろう)に、駿府へ行ってもらわねばならぬ」
父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が改まって切りだした。
「あの、駿府でございますか?」
「そうじゃ。じつは、こなたの母者とも相談の上のことだが、養女を迎えることにした」
「また、養女でこざいますか?」
「また---とは、なんという言い草じゃ}
「申しわけございませぬ。して、どちらからでございますか?」

「駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どのの娘ごでの」
先手の組頭(1500石高)からの転任だから、ふつうの1000石高の遠国(おんごく)奉行では格下げになるということで、駿府になったのであろう。宝暦5年(1754)からだから、足かけ8年在任している。

が口をはさんだ。
「じつは、多可に従姉(いとこ)がいたことは知っておいででしょう?」
「はい。多可がわが家へ養女にまいるまえに嫁いでいたとか、聞きました」
「その、多可の従姉の嫁ぎ先が、朝倉さまなのです」
「え? 駿府町ご奉行の朝倉さまは、たしか、かなりのお齢とお聞きしておりますが---」
「この春、61歳におなりじゃ」
「すると---多可の従姉は---?」
妙が笑みをうかべて言う。
「20歳のときに嫁いだそうです」
「何年前のことでございますか?」
「5年前とか」
朝倉さまは56歳!」
「これ、頓狂な声をだすでない。駿府町奉行ともなれば、奥方なしでは職務がうまく運ばぬ」
宣雄が制した。
妙が言葉をたした。
「3人目の奥方としてなのです」

「というと、養女にしますのは、まだ赤子?」
「そうではない。2人目の奥方のお子じゃ。齢は6歳。名前は、与詩(よし)」
「6歳の与詩でございますか」
朝倉どのが正月から病いに伏されていての。奥方の志乃(しの)どの---多可の従姉のお名だが、志乃どのから、多可との縁が薄れないうちに、できるだけ早くと申されてきた。そこで、銕三郎、そなたに、迎えにいってもらいたいのじゃ。東海道は初めてではないからの」

「わたくしも、多可がいなくなってから、こころ寂しゅうて---」
母のが、さも、こころ細げにい言ったが、銕三郎のほうは、それどころではなかった。
(もしか---もしかして、三島宿で、お芙沙(ふさ)に再会できるかもしれない。お芙沙は、あの家にいるだろうか)
一晩だけ交わったお芙沙の、大胆にうごきながらもはにかむような姿態が、よみがえってきた。

_360_2
(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003.1月号より)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

そんな銕三郎の心の動きを読んでいるだろうに、宣雄は無表情を装い、18歳---男子としては一人前の、わが子を眺めているのだった。

| | コメント (0)

2007.12.20

平蔵の五分(ごぶ)目紙(3)

「そういえば、源内(げんない 平賀)は、こんなことも申していたな」
側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ 44歳 相良藩主 1万石)は、場所が自分の下屋敷であること、集まっているのが気のゆるせる者たちであるせいだろう、いつもの酒量よりすごしたかして、口がなめらかだ。

「機略(きりゃく 発明)は、無から生まれるものではない---すでにあるものの新しい組みあわせによって、別の新しい器用(きよう 働き)が生まれるのだと」
「殿のいまのお言葉を、長谷川どのの〔五番手の碁盤目紙〕にあてはめますと、紙裁(だ)ち用の目安(めやす)紙と、清(しん)国渡りの書箋(しょせん)を新しく組み合わせた、ということでしょうか」
横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)が、わかりきったなぞりをしてみせる。北京の文房四宝の有名店・栄宝斎の朱色罫入りの書箋を築地の屋敷に備えていることを匂わせたかったのだ。

_300

長谷川どのの〔平蔵の五分(ごぶ)目紙は、いまご覧になったものとは別に、もう一つございます」
ここぞとばかりに、本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)が同僚の平蔵宣雄の売り込みをはかる。

「ほう---どのような?」
勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)が鷹揚に受けた。

宣雄は、仕方なく、懐から取り出した手控え帳から小ぶりの碁盤目紙を引き抜いて、石谷淡路守に渡した。
その手控え帳は、30枚ほどの和紙を二つ折りにし、合わさった側を表紙ともども和書ふうに綴じたもので、大きさは紙入れほど、厚みは1分(いちぶ 3mm)なかった。
〔碁盤目紙〕は、二つ折りにした紙の間に入っていた。

長谷川どの。そちらの手控え帳は?」
淡路守が、渡された〔碁盤目紙〕を手に、宣雄の手控え帳に視線を向けた。
「はい。手前のはとりとめもないこころ覚えですが、組衆たちは、それぞれが己れの好みの主題を書きとめております」
「己れの好みといいますと---?」
「ある者は、その日の天候と風向きに寒暑。ある者は、毎日のお菜。またある者は、お城の下馬門脇の樹木のときどきの姿などなど---」
「なんのためでござるかな」
そう訊いたのは意次だった。
「なんのためと申しますより、組衆の気くばりが伸びればと存じまして」
「代わって申し上げます」
本多紀品が口をはさんだ。

「10組ある小十人組は、交替で営中の桧の間へ詰めておりますが、お上(将軍)はもとより、お供をすることもある重職方のご霊廟へのご代参の外出も、そうたびたびはありませぬ。そんなわけで、組の者たちはともすればお勤めがなおざりになりかねませぬ。 
それをおもんぱかった長谷川どのの、気分引き締めの観察養いで、効果は十分以上にあがっております。ゆえに手前の6番手でも、望む者には配ろうかと考えております」

意次が口元をほころばせながら言った。
本多どの。それならば、お急ぎあれ。お勤め変わりがあってからでは、手後れになりましょうぞ」
本多紀品は、はっと気がつき、頭を下げた。

本多采女紀品の、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭(くみがしら)への移動は、それから1ヶ月も経ない、その年の11月7日であった。


| | コメント (0)

2007.12.19

平蔵の五分(ごぶ)目紙(2)

「〔五番手の碁盤目紙〕を、いつ、どのように、思いつかれましたかな」
勘定奉行(3000石高)の石谷淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がうながした。

佐渡奉行(1000石高)だった彼の、勘定奉行への大抜擢は、2年前の宝暦9年(1759)10月4日で、平蔵宣雄(のぶお 小十人頭 400石)や本多采女紀品(のりただ 小十人頭 2000石)がはじめて田沼意次(おきつぐ)の下屋敷に招かれた年のことであった。

いまでは、一色周防守政沆(まさひろ 72歳 600石 勝手(財務)をのぞき、前任者がすべて辞めたり転任して、石谷清昌は政策を立案しやすくなっている。
意次の手まわしである。
高齢の一色周防守は、柔らかな性格で、ほとんど同僚や下役に異を唱えない。

_360
(4人の奉行の2人は公事(裁判)方がきまり)

宣雄が答えたことをかいつまんで記すと、30歳になるまで、当主で5歳年長の従兄(いとこ)・権十楼宣尹(のぶただ)の厄介(いそうろう)だった彼は、身の上だけは比較的自由であった。知行地の新田開拓の監督に行かないときには、知行地の名主・戸村五左衛門から次の村の名主へと申し送るように紹介状を書いてもらい、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)などの村々を旅していることが少なくなかった。
訪れた村むらの中に、田づくりよりも紙づくりに精をそそいでいる小村があった。そこの村長(むらおさ)の家で、漉きあげた100枚近い紙を、規格の寸法に裁つのに、線が刷ってある基(もと)紙をあて、それに乗せた分厚い定規板紙裁ち包丁を沿わせて切っていくのを見て感心し、心にとめた。
小十人組の五番手の頭(かしら)を仰せつかったとき、組下のものが記録している『御勤日録』の文字の大きさが、人によってさまざまなので、もっと読みやすくできないものかと考えているうちに、かの山村での裁断の当て紙のことを思いだし、ついでに、文字の大きさもそろえようと考えてつくったら、用紙が7割方減ることになったと。

つまり、いまの原稿用紙に似たものである。

「すると、用紙の節約は、結果でございますか?」
訊いたのは、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 37歳 小普請組頭)。
「さようです。紙を使う量を減らすことは、初手には考えつきませぬでした。ただただ、揃った字の日録にするには---との思いだけがありました」
「いや。長谷川どがいわれたこと、じつにうがったお話しです。組衆に、紙を節約するための〔碁盤目紙〕だといえば、不服をとなえる偏屈者も出てまいりましょう。それを、字をそろえて読みやすく---といえば、誰も傷つかず、みんな気をそろえてとりくみましょう。その結果は、いわずしての用紙の節約---税もそのようにいきたいもの」
すぐに気がまわるところが、いかにも石谷淡路守らしい。

それに、田沼意次がつけたした。
「かの奇才・平賀国倫(くにとも 源内のこと)も申していたが、機略(きりゃく 発明)というものには、そのことをつきつめていってことがなったものと、別のことを狙ってつくったはずなのに、思いもよらない新しい働きが生まれたものとの2通りがあるとな」


| | コメント (0)

2007.12.18

平蔵の五分(ごぶ)目紙

長谷川どの。いま営中で評判の、〔平蔵の目紙〕というものを、ご披露ねがえませぬかな?」
席へ落ち着くなり、勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がきりだした。
平蔵宣雄(のぶお 44歳 小十人組の頭)が石谷清昌と私ごとでこう間近で向きあうのは、3年前の宝暦9年(1959)の秋に、田沼意次の下屋敷で会って以来であった。
【参考】2007年7月25~28日[田沼邸] (1) (2) (3) (4)     2007年7月29~ [石谷備後守清昌] (1) (2) (3)    

「これは、恐れ入ります。そのようなことが、淡路(あわじ)さまのお耳にまで達していましょうとは---」
「いや、拙も耳にしておるぞ」
笑顔で言ったのは、この屋敷の主・側衆の田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 44歳 相良藩主 1万石)。

じつは、この年---宝暦11年6月に薨じた家重の喪事と、将軍職の継承の諸事もほとんど片付いたので、久しぶりに浜町(蛎殻町)の下屋敷で、くつろいだ食事をしたいからと、宣雄本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 31歳 西丸小姓組)が招かれた。

田沼の息がかりは、石谷清昌のほかに、横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 38歳 小普請組頭 530石)がはべっている。
横田家の祖は武田方からの幕臣入り、川井家の祖は遠江の出で今川方の徳川家への奉仕---よほど意次に目をかけられているのだろう。

酒と肴が出る前に、平蔵宣雄は、
「せっかくのお声がかりなので、不本意ながら---」
そう謙遜の辞をのべ、懐から厚めの美濃紙をとりだして、淡路守清昌の前に差し出した。
清昌がそれを、意次へ渡す。
意次から和泉守準松へ、そして、川井久敬へ。

それは、美濃紙に碁盤の目のような桝目を刷らせたものであった。

_360

久敬が訊く。
長谷川どのは、この〔平蔵の目紙〕---失礼、世間の呼び名に従いましただけです、これを組衆全員にお配りとか---」
「はい。幸いにも、手前の5番手組には、目が弱った者がおりませんので---」
「拝見しましたところ、この桝目は1寸(いっすん 約3センチ)の半分、5分(ごぶ 1.5センチ)ごとの目のようですな---」
「ゆえに、〔五番手の碁盤目紙〕とか、〔平蔵の五分目紙〕と呼ばれておるようでございます」
宣雄が赤面した。

「〔五番手の碁盤目紙〕とは、いいえておるのお。はっははは」
意次が細い目をさらに糸のように細めて笑った。
宣雄は恐縮の体(てい)で、首を縮める。
そこへ、井上寛司が指揮して、酒と肴が運ばれてきた。

「おお、わが屋敷の名用人どのよ。ちょうどよいおりじゃ。長谷川どのの公費の節約ぶりを勉強させていただくがよい。とくと拝見なさい」
意次は、〔平蔵の五分目紙〕を筆頭用人の井上寛司へ渡す。
突然のことで、井上用人は、首をかしげている。

意次は、みなに酒をすすめながら、
「それはな、井上。半紙の下において、その桝目の中に納まるように字をしたためるのじゃ。そうすると、字が小さくなる。その分だけ、用紙が少なくてすむし、文も曲がらない。なんとも、名案ではないか」
「なるほど---」
「どうじゃの、井上。わが田沼家は、家が新しいゆえ、老いて目がかすんでいる者もいない。長谷川どのに伺って、〔五分目紙〕の板木(はんぎ)を彫った彫り師と刷り師のところへ参り、わが家分を刷ってもらってこい」
「いや、井上どの。勘定奉行所であつえたものをおすそ分けいたします」
石谷清昌が横から、井上寛司を助けた。
と、すかさず、
淡路どの。そのように、公けでつくったものを横流しして、勘定奉行がつとまりましょうや?」
意次が軽く応じた。

| | コメント (0)

2007.12.17

宣雄、小十人頭の同僚(8)

小十人組の頭(かしら)から、次のポストに進むのに、吉宗家重のころから、先手組頭と目付が増えているように思えるので、その実証をしている。

これまで、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)と同期ともいえる中で、宣雄の5番手、そして宣雄とかかわりが濃かった本多采女紀品(のりただ 2000石)の6番手を、 『柳営補任』からすでに引いた。

もう一組、宣雄が小十人の頭になったときに、閥づくりの講への誘いをかけておきながら、翌年---宝暦9年(1759)11月に、さっさと新番頭(2000石高)へ栄転していった神尾(かんお)五郎三郎春由(はるよし 40歳 1500石)のいた7番手を掲げよう。
【参考】 講への誘いは、2007年5月27日[宣雄、小十人組頭を招待]

_360

_360_2

15人の頭のうち、享保10年以降3人---神尾春由の後任の能勢(のせ)助十郎頼寿(よりひさ 廩米300俵)も、宣雄在任中ということで加えると、15人中4人が先手組頭に進んでいる。

別件だが、安永5年(1776)閏9月、将軍・家治は、日光参詣をした。幕臣たちはそれに供奉(ぐぶ)したこと誇らしげに「家譜」にしたためて提出している。能勢家もそうしている。時に、頼寿は74歳であった。
喜寿に近い老武士が、江戸から日光まで、まあ、先手の組頭だから騎馬だろうが、それでも姿勢を正して供をしている姿を想像すると、なんともおかしい。
---というか、74歳になっても先手・弓の頭を引退しない執念には唸るほかない。

小十人の3組だけだが、吉宗家重の時代に、小十人組の頭たちが、次のポストとして、できればと、一つには先手組頭を望んだらしいことは、だいたい推察できた。

これは、吉宗の人材登用りの方針にしたがって、享保8年に、各職位の役料が引き上げられたり、きちんと定められたことによるようだ。

『柳営補任』は、先手組頭の役料について、次のように記している。

一 元御役料五百俵、天和二年四月廿一日御役料地方直御加増、その後千五百高三百俵御役料被下、享保八卯六月十八日ヨリ千五百石高定ル

| | コメント (0)

2007.12.16

宣雄、小十人頭の同僚(7)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組の頭(かしら 1000石高)から、番方(ばんかた 武官系)の栄達の最終ポストに近い先手・弓の8番手の組頭へ、明和2年に移った。47歳であった。
この、小十人組の頭から先手・組頭のコースは、吉宗家重の時代にはよくあったケースかどうかを、検索している。

宣雄の5番手の『柳営補任』はすでに見た。2007年12月15日[宣雄、小十人頭の同僚(6)]

たびたび顔を見せてきて、宝暦12年12月28日に発令になった本多采女紀品(のりただ 48歳 2000席)の組---6番手を調べてみる。

_360

_360_2

この組の頭は、本多紀品(緑○)まで20人、うち4人が先手組頭へ栄進。
本多紀品の前は2人つづいている。両人ともりっぱな譜代の一門。

榊原大膳久明(ひさあきら 42歳 1000石)。その後、西丸の持弓の頭になり、致仕後は、養老米300俵を9年間賜った。

安藤弾正少弼惟要(これとし 39歳 300石 のち加増され800石)は、先手組頭を足かけ3年で終えて作事奉行(2000石高)、勘定奉行(3000石高)、大目付(3000石高)などの行政職へ転じ、養老米300俵を3年間賜る。
そうそう、この仁は、本多紀品といっしょで、先手組頭の時代に火盗改メも勤めている。

こうして見てみると、人によっては、先手組頭は、決して番方のふきだまりとはいいきれない。

あと、もう一組、検索してみれば、宣雄のころの趨勢がつかめるだろう。


| | コメント (0)

2007.12.15

宣雄、小十人頭の同僚(6)

小十人組の頭(かしら 1000石格)に就任することは、中流以下・お目見(おめみえ)以上の幕臣にとって、幹部候補生として、スタートを切ったことになる。

つぎに目指すのは、番方(ばんかた 武官系)なら先手の組頭(1500石格)、役方(やくかた 行政官)なら目付(めつけ 1000石格)。目付は1000石格だが、家禄が500石以上の家の者には、町奉行(3000石格)がころがりこんでこないともかぎらない。江戸の町奉行でなくても、京都町奉行なら1500石格である。

小十人組の頭が、いつごろから出世の経過コースになったか、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が任命された5番手の最初の仁から、宣雄までの『柳営補任』をあたってみた。

_360

_360_2

宣雄を含めて15人。
うち、宣雄ともで5人が先手組頭へ栄転している。
上段・左端、先手組頭へ最初に任じられた細井金五郎勝則『寛政譜』勝行 かつゆき 49歳 1800石)の延宝といえば、四代将軍・家綱の時代である。幕府の職制がほぼかたまったころというえよう。
しかし、その後の3人は目付。
先手組頭へ復したのは、享保のころからだから、八代・吉宗の時代。これとそのころの番方の幕臣たちのこころがまえと、なにか関係があるのであろうか。たとえば、先手組頭なら、ほとんど老衰するまで1500石をもらいつづけられるとか。
中段の黄○・曽我七兵衛助賢(すけかた 46歳 800石)がその仁だが、5年後に新番頭(2000石高)へ移っている。
中段・左端の岩本内膳正正房(まさふさ 46歳 廩米300俵)は、吉宗の江戸城入りで紀伊から召された仁である。吉宗は、譜代の重臣たちに配慮して、紀伊から呼んで幕臣とした200余名には、大きな禄を与えなかったというが、職位についていた役料で報いたとみておきたい。もちろん、結論を出すには、200余名を検索してみなければならないが。
なお、岩本正房は61歳で歿するまで15年間、その職にあった。

芝山小兵衛正武(まさたけ)については、2007年12月7日[多可の嫁入り](5)を参照。

前の3人の先手組頭への昇進を知っている宣雄も、とうぜん、それを目標にして手を打ったと考えてもおかしくはあるまい。
伊兵衛名を受け継いで名乗っていた長谷川家の代々の面々は、一人も就くことができなかった番方の役職に、宣雄は初めてついたのであるから、子孫のために、さらに高のぞみをしたろう。

こういう、歴史にも残らない中流以下の幕臣の記録をあたって類推を重ねる作業は、きわめて困難で、想像の手がかりもまた少ない。

| | コメント (0)

2007.12.14

宣雄、小十人頭の同僚(5)

以下は、つぶやきである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の小十人組の頭(かしら)時代を検証していて、彼のころには、組が10組あったことは、分かった。(『文化武鑑l』では7組に減っている)。

頭は1000石高だが、いってみれば通過ポストで、7,8年で次のより役料の高い職席へ栄進するのが筋道、ということも推察できた。

1組に20人いる組衆の家禄は、100俵10人扶持で、桧の間席ということも、分かった。
2勤1直1休(昼の勤務を2日したら1晩宿直、翌日は休み)だろう。

組衆の中の一人---家禄が150俵とやや高い者が、与(組)頭(くみがしら)となって内務をとりしきっていることも、分かった。2007年12月7日[多可の嫁入り](5)『文化武鑑l』では1組に2人)。

わからないのは、小十人組のすべてを統括しているのが誰かということ。手元の参考書などでは若年寄の支配となっているが、譜代の大名である彼らが、徒(かち)組などまで、直接に統括しているとは思えない。

さらに、10人の頭の中に、代表がいるにちがいない、と推測してみた。先任順だろうか、家禄によるのだろうか、それとも年齢?

宣雄が頭に選任された時点---宝暦8年(17589) 9月に在職していた10人を検証。
まず、先任順。年齢は頭席へ着任時。

堀甚五兵衛信明(のぶあきら) 宝暦2年(1752) 43歳
仙石監物政啓(まさひろ)    宝暦3年(1753) 50歳
本多采女紀品(のりただ)     宝暦3年(1753) 39歳
佐野大学為成(ためなり)     宝暦4年(1754) 51歳
神尾五郎三郎春由(はるよし) 宝暦4年(1754) 35歳
山本弥五左衛門正以(まさつぐ)宝暦5年(1755) 54歳
荒井十大夫高国(たかくに)   宝暦6年(1756) 45歳
曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)   宝暦7年(1757) 38歳
長崎半左衛門元亨(もととお)  宝暦8年(1758) 45歳
長谷川平蔵宣雄          宝暦8年(1758) 41歳
同年の場合は、発令が1日でも早いほうが上位に就くのがきまり。

宣雄の着任時の年齢で並べると、

山本弥五左衛門     57歳
仙石監物政啓       55歳
佐野大学為成        55歳
堀甚五兵衛信明     49歳
山本弥五左衛門正以  57歳
荒井十大夫高国     47歳
長崎半左衛門元亨    45歳
本多采女紀品       44歳
長谷川平蔵宣雄     41歳
神尾五郎三郎春由    39歳
曲渕勝次郎景漸     39歳
神尾春由と曲渕景漸が特別の存在であることが、うかがえる。

家禄で見ると、

仙石監物政啓    2700石
本多采女紀品    2000石
長崎半左衛門元亨 1800石
曲渕勝次郎景漸   1650石
神尾五郎三郎春由 1500石
堀甚五兵衛信明   1000石
佐野大学為成      540石
長谷川平蔵宣雄    400石
山本弥五左衛門    300俵
荒井十大夫高国    250俵

年齢的には山本弥五左衛門正以が長老、仙石監物政啓が次老---といっても、先手組の長老、次老、三老とは20歳以上の開きがある。

けっきょく、仙石監物政啓あたりが表向きの代表となり、荒井十大夫高国が雑務を引き受けていたかも。
荒井高国は、宣雄が慣れたころに、若返りをいいたてて交替を申し出たろう。
このほかに交替で月番---といっても1ヶ月で交替するのではなく、半年ぐらいは勤めたか。

| | コメント (0)

2007.12.13

宣雄、小十人頭の同僚(4)

宝暦12年(1762)11月7日付の辞令で、宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭に就いたことは、この項の最初に書いておいた。

先手組頭は、1500石高だから、家禄が低い番方(武官系)の幕臣にとっては、のぼりつめた職位といえる。
(本多紀品の家は2000石だから、役料に足(た)りない家禄を補填する足高(たしだか)はなく、まあ、無役でいるより外見がいい---という程度と、本人は言っているが)。

のぼりつめた---そう、先手組頭は、番方の爺(じじい)の捨てどころ、とは言われていた。それほど、老齢化していたともいえる。

長谷川平蔵宣雄が、小十人頭(1000石高)に抜擢されたのは、宝暦8年(1758)9月15日、40歳の年であった。
それから足かけ8年後の、明和2年(1765)、47歳のときに先手・弓の8番手の組頭に栄転している。
家柄がきわめてよく、一門も多い本多紀品が先手組頭に転じたのは48歳、宣は47歳。

息子の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)は41歳で先手組頭に選抜されている。
平蔵宣以の才幹が群を抜いてすぐれていたといもいえるし、閣僚たちが、先手組頭の若返りを図っての抜擢だったともいえる。

(じじつ、平蔵宣以が組頭に就任した天明6年の、平蔵をのぞく33人の組頭の平均年齢は61歳を超えていた。戦闘集団としての組頭に、1丁も走ると息があがるほどの老齢の仁がいることは理にあわない。しかし、70代はおろか、80歳をすぎた組頭もいたのである)。

平蔵宣雄の時代に戻って---。

宣雄が小十人頭に抜擢された宝暦8年の時点で同組頭だった者のうち、先手組頭に転じたのは、宣雄を含めて6人と、すでに報告してある。

その発令時の年齢が高かった順に並べてみる。
佐野大学為成   頭拝命時年齢 60歳(2年目に卒)
仙石監物政啓             59歳(7年後、持筒頭)
荒井十大夫高国           55歳(9年後卒)◎
堀甚五兵衛信明           51歳(13年後、致仕)
本多采女紀品             48歳(6年後、新番頭) ◎
長谷川平蔵宣雄           47歳(7年後、京都町奉行)◎
(◎=火盗改メ拝命)

宣雄以前の長谷川家は両番とはいえ、それ以上の役職に就くことがかなった者はいなかった。
両番とは、小姓組の番士、書院番士入りができる資格を持つ家柄のことである。

宣雄以後の、平蔵宣以辰蔵こと平蔵宣義(のぶのり)ともに、役職に就けたのは、宣雄が初めて拓(ひら)いた道といえる。

本多紀品と仙石政啓『寛政譜・個人譜』はすでに開陳している。参考までに、佐野為成と荒井高国の分を掲げておく。

_360

_360_2

| | コメント (0)

2007.12.12

宣雄、小十人頭の同僚(3)

宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、
「先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」
といったことについて、若干の解説を付しておく。

まず、小十人組。
扈従が転じたものといわれる。主君をとりかこむ徒(かち)の士である。
組数は時代によって増減があったが、宣雄のころは10組。
番衆は1組20人。100石高10人扶持。

頭は1000石高で、布衣(ほい)。番方(武官系)幹部候補生のスタート・ラインの一つである。
次のステップは、1500石高の先手組頭。
中には、役方(行政職系)の目付(1000石高)を望む者もいる。町奉行(3000石高)への必須コースと思われているからである。

1000石高とは、ポストについている役料だが、家禄がそれ以下の場合は、家禄を差し引いた残り分を足(た)して役高になるようにする。その足し分を足高(たしだが)という。
宣雄の例でいうと、家禄が400石だから、小十人頭に就くと、600石の足高がもらえる。足高がつくこと、あるいは加増があることを、武家では出世という。

先手組頭は、役高は1500石だから、小十人頭はもとより、同じ1000石高の徒(かち)の組頭や目付などが狙っているから、競争相手は多い。

いっぽう、家禄が1500石以上---本多紀品のように2000石もあると、足高はつかない。
先のことになるが、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの先任者・堀帯刀秀隆(ひでたか)も家禄が1500石だったから足高はもらっていない。

宣雄が小十人頭に抜擢されたときの同僚9人のうち、先手組頭になったのは宣雄を含めて6人だから、当時としては、かなり率がいい。

その6人の一人---仙石監物政啓(まさひろ)の『寛政譜』を掲げる。
仙石政啓が小十人組・8番手の頭になったのは宝暦3年(1753)で、50歳のとき。
先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に栄転したのは宝暦12年(1762)の4月だから、10年近く、小十人組の頭をして待ったことになる。59歳になっていた。
34組ある先手組頭が、番方の爺捨て山といわれるゆえんでもある。つまり、ほとんど、行き止まりなのである。
しかし、仙石政啓は幸運にも、その上の持筒(もちつつ)の頭へ栄転している。これは頭が4人しかいないから、競争率はかなり高い。
もっとも、役料はあがらず、先手組頭と同じ1500石。組衆は50人だから、音物(いんもつ)は多くなるかもしれないが、配下が多い分、出費もともなおう。いってみれば、名誉職みたいなものであろう。
それよりも、87歳まで長生きした政啓が、致仕(ちし)後、300俵の年金をらもらっていることに注目。ある程度の役職をこなすと、この年金300俵がつく。
換算すると、年3000万円。
高級官僚が、退官後に退職金かせぎの渡りをするのは、この年300俵の養老米がつかないからかも。

_360


| | コメント (0)

2007.12.11

宣雄、小十人頭の同僚(2)

「この先、御鉄砲場の近くに、わが家の縁者・長谷川久三正脩(まさなる 52歳 4070石)の下屋敷がございます」
「おお。御納戸町にお屋敷をお持ちの---下屋敷とはうらやましい」
「なに、1万坪もの土地に、いたずらに雑木を茂らせ、狐狸(こり)に貸しておるだけとか」

_360_2
(赤○=長谷川久三郎の千駄ヶ谷の下屋敷)

2人は笑った。小十人頭の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)と長谷川平蔵宣雄(のぶお 44歳)であった。
向かっているのは権田原。、同じく小十人頭の羽太求馬(きゅうま)正堯(まさたか 49歳 700石)の屋敷である。
ときは、宝暦12年(1762)10月の小春日和(こはるより)の午後。

つい、5日ほど前に、羽太の息・半蔵正忠(まさただ 21歳)の才幹を幕府がみとめたということで、家督前に書院番の第2組に召された。
その祝儀の品を届けるために、出向いている。
わざわざ---といってはなんだが、2人とも、それを口実に、憂さばらしをしようというわけである。
とりわけ、宣雄は、嫁に出した多可が、男児を産んだのはいいが、産辱熱であっけなく逝ってしまったことで、気分が沈んでいた。
本多紀品にさそわれのを機に、気分を改めようと思い立った。

幕府が、親がまだ引退していないのに、その嗣子たちを取り立てたのは、羽太家だけでなく、百人近かった。
一橋家の家老職を勤めている田沼能登守意誠(おきのぶ 42歳 800石)の息・主水意致(おきむね 22歳)は小姓組番士に、石谷淡路守清昌(きよまさ 42歳 勘定奉行兼長崎奉行 800石)の息・左衛門清定(きよさだ 17歳)は西丸小姓組に召された。

羽太どののお住まいは、六道の辻の近くと聞いております」
長谷川どのにお任せです」

2人は、大山街道(現・青山通り)から六道の辻へ向けて、駒を右折させた。
祝儀の品・鰹節は、従っている若侍たちが携えている。
_360_3
(右=伊勢屋伊兵衛 にんぺんの屋号で知られる鰹節問店
『江戸買物独案内』  文政7年 1824刊)

ちなみに、鰹節の贈答用商品切手を考案して大ヒットさせたのは、にんべんの伊勢屋の六代目伊兵衛で、もっと後世---文化文政のころである。

宣雄は駒足をすこし早めて従者との距離をとり、小声で、本多紀品に訊いた。
本多どのも小十人のお頭(かしら)が、10年近くになります。そろそろ、先手の組頭へ---」
「なにをいわれる。先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」

それから2ヶ月とたたないで、本多紀品は、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭を命じられた。
先任の島弥左衛門一巽(かずかぜ 52歳 1500石)が、火盗改メを兼務していて、組下の同心が失態を演じて辞職に追い込まれたらしい。

| | コメント (0)

2007.12.10

宣雄、小十人頭の同僚

幕臣の役職履歴をまとめた『柳営補任』に載っている、小十人頭(かしら)のリストから、鬼平の父・長谷川平蔵宣雄(のぶお)がその任についていた期間の同僚を表にしてみた。
あくまでも、手控えである。
これらの一人ひとりをつきつめて、宣雄、ひいては長谷川家との関連を考察していくときのメモ(索引)と思っていただきたい。

赤○=平蔵宣雄 黄○=平蔵宣雄就任時の同役 緑○=親友 青○=一族(本家)


_360


_360


_360_2

| | コメント (1)

2007.12.09

多可の嫁入り(7)

多可の婚儀には、長谷川家側からは宣雄(のぶお)養父母と銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため)、本家の小膳正直(なおまさ 徒頭 43歳 1450余石)夫妻が、水原(みはら)家側は実兄・幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳 小十人組衆 廩米150俵)が、花婿(?)の水原善次郎の本所・二ッ目南割下水の家に、出席した。

再婚でもあり、自邸での婚儀でもあるということで、小普請組の与頭(くみがしら)をつとめていた善次郎正明(まさあきら 40歳 廩米200俵)の上役である支配・戸田弥十郎忠汎(ただあつ 54歳 2570石)は、別の日に料亭へ招いて挨拶をすることになった。

水原善次郎の小普請与頭には役料300俵と20人扶持がついていたから、生活はほどほどに余裕があったが、格式の高い長谷川正直宣雄に丁寧に挨拶されて、善次郎はいささか、緊張気味であった。
(あれなら、多可も粗略にはされまい)
銕三郎は、末席で、そうおもいながら、酌をしつされつする大人たちを眺めながら、箸を使っていた。

翌宝暦12年(1762)秋、男子を産んだ多可は、産後の肥立ちが悪しく、あっけなく歿した。
子どもは、幼名を源之助とつけられ、丈夫に成長したが、長谷川家とは縁がきれたも同然となった。
善次郎が、また後妻を迎えたからである。こんどは、一門の多い水野家の女で、父親は書院番与頭だった甚五兵衛忠堯(ただたか 500石)だが、むすめが嫁ぐ前年に歿しており、弟・忠居(たたおき 34歳)が家督していた。
女は36歳まで、嫁(い)きおくれていたのである。それでも、2人の男子を産んだ。
水野一門の引きがあったのであろう、善次郎は、着実に出世をつづけた。
息子の源之助保興(やすおき)も書院番士にとりたてられた。

しかし、水野から来た女は、源之助正興(ただおき)をどういう育て方をしたのか、博打をおぼえ、松平定信が老中になって綱紀の粛正をはかったとき、、幕臣で博打の首謀者だった者の家士を自分の屋敷にかくまったりしたことが発覚、遠島になった。27歳だった。
おかまいなしだった父親・善次郎保明は68歳。

天明8年(1788)8月9日だから、捕縛したのは、長谷川平蔵宣以(43歳)ではない。
平蔵宣以が火盗改メ・助役を勤めたのは、その前年の9月19日から、翌8年春までで、本役を拝命したのは、その年の10月2日からである。

平蔵宣以とすれば、多可の産んだ子を、わが手で捕縛しないですんだことが、まだしもの慰めであったろう。

_360_2

_360_3


| | コメント (3)

2007.12.08

多可の嫁入り(6)

長谷川どのは先刻、2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとなれば---と、お尋ねでしたな?」
「はい」

3年前の宝暦8年(1758)中秋、小十人の頭(かしら)に抜擢された長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、前任の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)宅に引継ぎのお礼に行った時の会話のつづきである。

「与頭・佐原三十郎からは、もう、聞き取りずみでござろう?」
「まだ一度だけですが---」
「おこころばえは?」
「52歳には、とうてい見えない達者さで---」
「はは、はは。後妻(のちぞえ)が、いこう若こうござるのでな」
「なるほど。内儀の齢(とし)は、うっかり、聞きもらしました」
「あれには、与頭代行は無用ですな。もっとも、内儀を可愛がりすぎて、腎虚でも病めば別ですが---」

佐原三十郎正房(まさふさ)は、宣雄が小十人組の5番手の頭になる2年前の宝暦6年に、50歳で与頭の席を射とめていた。
初めて召されたのが39歳での小十人組入りだから、かなり遅かった。
このところ、役づきの幕臣の老齢化を、幕閣たちも議論していた。人生が50年では終わりがたくなっていたのである。

もっとも、佐原三十郎の与頭の席は、偶然のようにころがりこんできたものだった。

前任・酒井庄右衛門実清(さねきよ 71歳 廩米150俵)が、つまらない事件にまきこまれて、40年も小十人組衆を勤めた末に、63歳でやっと手に入れた与頭の職を、棒にふったのだ。
実子・小文太実行(さねゆき)は、父・実清がいっこうに隠居する気配を見せないので家督できず、手をつくして田沼意誠(おきのぶ)に認められ、一橋家の近習番となっていた。ところが7年目に30歳で父に先立って逝ってしまった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣の養子は、手続きもうるさく、なかなかにむづかしい。
それでも、小沢某(小姓番組 400俵)の三男・熊之助というのを養子に決めたが、熊之助は実家に居座ってよりつかない。それというのも、浅草・田町にある実家が博打場となっていて、そっちがおもしろいからだった。そのバチ場での口論から、人を斬り殺してしまったのを、親子ともどもに糊塗しようとした罪で、熊之助は遠島、実清は71歳でお役ご免の蟄居、その後は小普請入りを命じられたのである。
佐原三十郎が与頭の後釜として引きあげられた。

「いや、酒井庄右衛門は、貧乏くじを引いたともいえます」
そう前置きした柴山小兵衛は、庄右衛門が与頭に執着した遠因は、その前の与頭・酒井弥三郎元嘉(もとよし 廩米150俵)が、77歳までの21年間も与頭の席を後進にゆずらなかったからだといった。弥三郎も引退を遅らせたので、長嗣子が先立ち、家督をゆずりそこなっている。

長谷川どのは、酒井弥三郎や酒井庄右衛門といった頑固者たちがいなくなってからのお頭こ着任だから、まずはやりやすいはず。手前は、両というより老・酒井2人には手こずりましたからな。はっはは」

酒井というが、弥三郎は大老も出す名門・酒井の(清和源氏を称する)一統の末だが、庄右衛門のほうの酒井は近江の平氏系で、両者はまったくつながりはない。

長谷川どの。とにかく、幸田佐原の手綱をたくみにおさばきあれ。そうすれば、組衆はことさらに波風をたてますまい」

_360
(小十人組 絵版手 酒井・佐原系前後の与頭)
----------------------------------------------------

_360_5

_360_6

_360_7


| | コメント (0)

2007.12.07

多可の嫁入り(5)

「2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとしますと、だれとだれが適任とお考えでしょう?」

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士から、小十人組・5番手の頭(かしら)に抜擢さりれたのは、宝暦(ほうりゃく)8年(1758)の中秋であった。40歳だった。
ひととおりの就任挨拶廻りをすませた宣雄は、前任者の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)を、四谷南伊賀町の屋敷へ訪ね、後任の頭としての心得を儀礼的にうかがったあとで、質(ただ)した。
芝山小兵衛は、先手・弓組5番手の組頭へ栄転したので、機嫌がよかった。

柴山は、小十人組の頭を足かけ13年も勤めていた。
中奥御番から、延享2年(1745)に、5番手組の頭へ栄進。同じ日に、組衆・須藤三左衛門盛胤(もりたね 廩米150俵 48歳)が与頭に引きあげられた。

10組ある小十人組の番衆は1組20人。与頭は各組に2名ずついる。
5番手の与頭の先任者は、酒井弥三郎元嘉(もとよし 当時74歳 廩米150俵)で、すでに与頭を19年もこなしている老練の仁であった。

須藤老は、毒にも薬にもならない好人物だが、与頭の役高300俵を手放したくないのでありましょう。お役目をまっとうするには、長谷川どののお考えどおり、与頭の代行者がいたほうが万事につけてよろしいが、さて、手当てをどうするか」
高齢の酒井弥三郎という先例も経験している芝山小兵衛は、代行のことを検討したこともあったらしいが、役料のことで断念した気配だ。

「代行の役料はともかく、芝山さまの人選をお聞かせください」
「そうさな、須藤老の代行には、できるということでは幸田善太郎でしょう」
「人望もございますか?」
「もちろんのこと」

与頭の役高は300俵である。満額支給されるのではなく、足高(たしだか)といって、須藤三左衛門の場合は家禄が廩米150俵だから、300俵になるように150俵が足(た)される。

家禄150俵の須藤三左衛門にとってみれば、収入が倍になっているのだから、高齢になったからといって、うかうかとは手放せない。辞められない。
番衆たちからの音物(いんもつ 贈り物)も捨てたものではない。

将軍へのお目得(みえ)はふつうなら200俵以上の幕臣だが、小十人の番士は百俵お目見といって、100俵の家禄でもその資格がある。

こうした経緯で、幸田善太郎の与頭代行がきまった。
特別の手当ては、じつは、宝暦9年に田沼意次(おきつぐ)と面識ができてから、5人扶持が特別にでるようになった。
1人扶持は1日に玄米5合だから、5人扶持だと2.5升、1年だとざっと130俵(注:当時の1俵は3斗5升計算)。

_360
(小十人組 5番手与頭 須藤・幸田系の前後 『柳営補任』)

_360_2
(須藤家譜)

_230

| | コメント (0)

2007.12.06

多可の嫁入り(4)

長谷川さまの若さまではありませんか」

声をかけてきたのは、つい先ほど、子どもたちが駆けだしてきた横丁から現れた中年の侍であった。
庭木の手入れでもしていたのだろう、丸腰で、手に剪定ばさみを持っている。
長谷川ですが、そちらさまは?」
「やはり、そうでしたか。いや、失礼とはおもいながら、見覚えがありましたゆえ---」

男は、宣雄(のぶお)が頭(かしら)をしている、小十人組の5番手で、与頭(くみがしら)代行役の幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳。廩米150俵)と名乗った。
「お頭には、たいそう、お引き立てをいただいております。いつでしたか、築地・湊町のお屋敷へ所用で訪ねしましたおり、若さまをお見受けしたことがあったのでございます」
「さようでしたか。私はうつけで、お顔も覚えず、失礼いたしました」
「なんの、なんの。それより、お急ぎでなければ、拙宅にて、お茶なと、さしあげたいのですが---」
「せっかくですが、いささか、急いでおりますゆえ、ご辞退させていただきます」
「無理にとは申しかねますが、たまたま、非番だったので、若さまへお目にかかれました。重畳々々」

幸田善太郎は、丁寧すぎるほどに腰を折って、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 16歳)に別れの挨拶をしたが、目は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目の南割下水のあたりをうろついているのか、疑っていることがはっきりと見てとれた。
庭木の手入れをしながら、あたりを行きつ戻りつしている銕三郎を、しばらく監視していたのであろう。

銕三郎はいい訳をすれば、かえって疑いを濃くするばかりだと観念し、黙ったまま、横網町のほうへ歩いた。

_360
(本所絵図 尾張屋板 赤○=二ッ目南割下水)

_360_2
(二ッ目通・南割下水あたりを拡大)

夜、銕三郎は、二ッ目の通りで幸田善太郎精義に会ったことを、父・宣雄に報告しておいた。
「おお、幸田どのにな---」
といってから、組のいまの与頭の須藤三左衛門盛胤(もりたね 64歳 廩米 100俵)どのは、銕三郎が生まれる1年前から、17年間も現職をつめとめている組の生き字引のような存在だが、なにしろ高齢で、最近は物忘れも多い。いずれ引退をすすめるつもりでいるものの、後任には幸田どのを推そうとこころづもりしており、内々に須藤どののやり方を見習うように申しつけてある---と、つねになく、役筋のことを話してくれた。
宣雄は、配下の者にもかならず「どの」をつけて話す。それも組下の者たちにうけがいい素因の一つでもあった。

Photo
(幸田家譜 緑○=長兄・精義 赤○=養子に出た次男・保明)
_360_3
(緑○=長兄・精義 赤○=次男・保明)

幸田さまも、父上には、たいそう、引き立てをうけている、と感謝しておりました」
幸田どのの舎弟が、多可(たか)が嫁入りする水原(みはら)保明(やすあきら 40歳 廩米150俵 小普請)どのなのだよ」
「それで、幸田さまの懇請をお断りになれなかったと---?」
「そうではない。多可はわしの養女にはなっているが、出が陪臣の三木どののむすめであるために、正式には、徳川の旗本には嫁入りがむずかしい。(てつ)は、水原どのを40男と老人あつかいをするが、いまは小普請でも、いつお役に就かないものでもない」
「そうしますと、幸田さまとも、親類づきあいを---?}
「いや。舎弟は水原家へ養子に入っているゆえ、表むき、わが家とは、陪縁よりも薄かろう」
「あいわかりました。先夜のふとどきのこと、お許しください」
多可のことは、みなで、こころから祝ってやりたい」
「はい」
宣雄は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目などへわざわざ出向いたのか、訊かなかった。

| | コメント (0)

2007.12.05

多可の嫁入り(3)

銕三郎(てつさぶろう 16歳 元服後の諱:いみなは宣以 のぶため)が、母・(たえ)の部屋へ、挨拶に行った。

「母上。これより、講書へ参じてまいります」
「供は、太助ですね」
「はい」
の部屋には、尾張町の呉服商・布袋屋の手代・清助が、多可(たか)の紋服をひろげていた。

_100多可の嫁ぎ先---水原(みはら)善次郎保明(やすあき 40歳 小普請組 150俵)の家紋の〔丸に三橘〕である。

婚儀は菊の季節と決まっていた。
(わが家の家紋は左藤三巴、駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし)侯は立ち三葵だったなあ。多可は三木家からの養女だし、三つの縁かな)
宣以は、愚にもつかない数あわせをしながら、南八丁堀の横井黄鶴塾へ向かう。
このところ、愚にもつかないことを考えるのが、楽しくて仕方がない。そういう年齢なのだろう。
同年輩の塾生たちとの意味のない軽口のやりとりも、気楽な仲間づきあいと割り切れるようになった。

(三つ---など、たまたま、並んだだけだ、ばかばかしい)
その苦笑に、
「若。なにか?」
供をしている太助が訊いた。
「おお、そうだ。塾の帰りに、回向院(えこういん)へ詣でるから、迎えはいらないぞ」

回向院は嘘だった。本所の南割下水の水原家を下見に行った。

両国橋を渡らないで、瓦町から対岸の横網町へ不二見の渡し舟に乗った。
武士の装(なり)をしているので、渡し賃をはらわなくてよい。

_360
(不二見の渡し 『風俗画報 新撰東京図会 浅草区之部』 
明治41年4月20日号)

川面(かわも)に反射する光も真夏とは異なり、やわらいで見える。
頬をかすめる微風にも、秋の気配があった。

横網町をすぎ、御竹蔵の堀ぞいに東へ。
右手に津島侯の上屋敷の屋根がのぞめるあたりが二ッ目の通り。
南堀下水はそこから東へ、先端はとりあえず大横川につらなる。
堀幅は2間たらず。ものを運ぶ小舟を通すための掘割である。

水原保明の拝領屋敷も、保明の生家の幸田家も、二ッ目にあると聞いていた。
南掘下水をはさんで、両側は1戸あたり150坪(約500平方メートル)前後の下級幕臣の家が肩をよせあうように並んでいる。
門札はでていないし、人通りはないので、どれが水島家がわからない。
(俺は、いったい、なんのためにこんなことをしているのだ)
自嘲ぎみに、舌を鳴らした。
(これから、多可がどんな所で暮らすのか、見ておこうと思ったのだ)
(それを知ったからといって、どうなるものではないな)
自問自答している自分があわれに思えてきいて、また、舌打ちした。
(俺は、多可の兄者なのだ)
多可は、ここで、しみが浮き出た40歳のおやじの手で躰をなぶられるのだ。一文字の左右になびいている若い芝生も---だ)

突然、横の道から、幼い子どもが5人、走りでてきた。
「ちと、尋ねるが---」
子どもたちは、立ち止まりしないで、駆け去って行った。


| | コメント (0)

2007.12.04

多可の嫁入り(2)

夜、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)が自分の部屋へ引きとってから、宣雄(のぶお)は、内室(妻)同様の(たえ)に、書院へ、茶を運ばせた。

は、幕府に届けている室ではない。
正式の室は、11年前に病死している。
いや、あれは妻というには、あまりに縁の薄い女であった。
婚儀の日も病床にいた。宣雄の養子願いを、小普請組頭(くみがしら)を通して、幕府へ提出しておしまい。
だから、宴ももうけていない。親戚へは、宣雄が巡回して内祝いの品を届けてまわった。

は、その前から長谷川家に住みこんでいた。銕三郎の実母だったからである。
は、長谷川家の知行地の一つ、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこうり)寺崎村の名主・戸村家のむすめだったときに、宣雄の子・銕三郎を身籠ったと推察している。

長谷川家の当主だった従兄の宣尹(のぶただ)が病死(35歳)したとき、未婚だったために継嗣がいず、急遽、居候(いそうろう)身分の宣雄(30歳)が宣尹の実妹の婿養子となった経緯は、これまでに幾度も紹介した。
小説と史実は、いささか異なる。

は、ずっと、長谷川家の家政をみてきた。
そう、籍のうえでは内室の波津(小説の中での名)が祝言(?)の3年後に、いちども病床を離れることなく歿するまでも、その後も。

「このたびの、多可(たか)のことでは、いろいろと気くばりをしてくれて、ありがたくおもっている」
多可は、当家のむすめでございますから、母親として、とうぜんのことです」
三木家では、養女に出したことで、縁がほとんど切れたとおもっているらしい」
三木さまは、お後妻(のちぞえ)をお迎えになっておりますから、多可のことは、こちらへお任せになったおつもりでございましょう」
「何分ともに、よろしく頼む」

16歳の多可が、後妻として嫁ぐ相手は40歳、役にめぐまれずに小普請入りしている水原(みはら)善次郎保明(やすあきら)だが、じつは、この仁は養子で、実家は幸田(こうだ 廩米150俵)家。
善次郎の3歳上の実兄・善太郎(43歳)は、宣雄の小十人組・5番手の組頭代理役をつとめている。そんな縁故で、水原家へ養子に入っている善次郎の後妻にと、多可を乞われた。

宣雄とすれば、多可を、もっと家禄の高い幕臣のところへ嫁がせたかったが、嫁入りをいそいだのは、多可がむすめとしての躰つきになるとともに、銕三郎のことを慕いはじめたからである。
このままにしておくと、どんな拍子に、銕三郎とできてしまうかもしれない雰囲気だった。
そのことはが先に気がついた。
自分と宣雄とのなれ染めのことを考えれば、危険はすぐそばまで来ているようにおもえた。
は、2年前に、銕三郎が三島宿で、若後家・芙沙(ふさ)から、濃厚な初体験を与えられたことは知らない。
宣雄は、男同士の秘密として、おくびにも出していない。

_360_4
(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2002年1月号)

銕三郎のほうは、女躰といえば、すでに夫の巧緻のかぎりをつくして開発された芙沙の性戯と、豊かだがしっとりなめらかな肌の記憶が、いまだに鮮明である。くり返しおもいだすこでよけいに美化されてもいる。

参考銕三郎の初体験】
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(1)
(2)

多可の、来たときよりも丸みがついたとはいえ、あいかわらず細い躰には、銕三郎は魅力を感じていない。
一人っ子で育った銕三郎にしてみれば、多可は妹であった。
井上立泉(りゅうせん)医師から教えられた、太ももの付け根の割れ目をはさんで、左右にそよいでいるむすめの芝生探索のことは、すでに放念している。

鉄三郎が間違いをしでかす前に、多可を遠ざけるにしくはない」
「間違いがお好きなのは、殿さまの血筋でございますれば---」
「ばか。どこやらの名主のおなごの誘いがはげしかったから、つい---」
「つい---どうなさいました? 着物を着たままだったのに---」
「もう、よしなさい。昔のことではないか」
「いいえ。おなごにとっては、初めてのときのことは、いつまでも、つい、昨日のことでございます」
ふだんはきわめて控えめなだが、あのときのことになると、がぜん、多弁になる。
「わかった、わかった。それより、多可のことだが---」

_360_2
(水原家譜)
_360_3
(赤○=水原保明 緑○=多可 黄○=多可が産んだ保興)

【参考】
2007年10月28日~[多可が来た](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

2007年12月5日[多可の嫁入り] (1)

| | コメント (0)

2007.12.03

多可の嫁入り

「父上、多可(たか)の婚儀のことにつき、少々、お訊きいたしとうございます」
銕三郎(てつさぶろう)が、思いつめた面もちで切りだした。

宝暦11年(1761)の晩夏のことである。
16歳になっていた銕三郎は元服もすまして宣以(のぶため)と名乗っている。そろそろお目見(みえ)の年齢である。
父の平蔵宣雄(のぶお)は44歳。小十人組・5番手の頭となって3年目で、組下のものたちからの評判もよい。

多可がどうかしたか?」
「どうもいたしません」
「では、なにが訊きたい?」
多可の婚儀の相手です」
水原(みはら)保明(やすあきら 200俵 小普請組)どのが、なにか?」
「あちらは、40歳というではありませぬか」
「それがどうした?」
多可は、手前とおなじ、16歳です」
(てつ)は去年は15歳であった。多可もおなじ15歳。ことし、揃って16歳になるのは、とうぜんのことだと思うがの」
「そのようなことを申しているのではありませぬ」
「なにを言いたい?」
水原さまには、前妻がいらっしゃいました」
「その奥方は、昨春に薨(みまか)られた」
「つまり、その---多可は、後妻(のちぞえ)ということになります」
「後妻といっても、前妻には世嗣ができなんだ」
「しかし、多可は初めての嫁入りです。なにも、40男の後妻にいかずとも、ほかに---」
「控えよ、銕三郎ッ。お主が出しゃばる事柄ではない!」

普段は温厚な宣雄が、この時は、目尻を朱にして声を荒立てた。
銕三郎は、もうそれ以上は異をとなえなかった。

あくる日、銕三郎は、多可に言った。
「ほんとうに、嫁(い)ってもいいのだな」
「はい」
「先方は、40歳だぞ」
「兄上。武家のおなごは、決めらたことに従うものと心得ております」
「む」
「兄上のおこころざしを、多加は終生、忘れませぬ」

参考
2007年8月[多可が来た](1) (2) (3) (4) (5) (6)
ー (7)

_250


| | コメント (0)

2007.12.02

一橋治済(4)

故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』 (センチュリー・ブックス 1971.9.20)が、在野の研究家らしく、田沼意次(おきつぐ)を追い落とした張本人は一橋治済(はるさだ)と決めて、その陰謀の一つとして、次のような縁組リストを掲載している。

_360

え? 男子17人、女子7人!
と驚いた。
いったい、何人の側女に産ませたの---と、急いで『徳川家諸家系譜 巻3』を取り出して、気がついた。

なにも、治済が産ませた子とはかぎるまい、孫もいるだろうと。
それで、内室と子を産んだ側女を数えてみた。

『徳川家諸家系譜』治済の項には、「治済九子有り」と。
つまり、『系譜』には、男子のみで、女子は記されていない。このことがわかっただけでも、『系譜』を開いてみた甲斐があった。
男子は3人の側女が産んでいる。岩本氏、丸山氏、中村氏。
次男斉国(なりくに)の内室は左大臣藤原治孝の娘・隆子は、嫁いで2年で薨じている。享年18歳。斉朝は実子かどうか不明。父親の斉国も19歳で卒。

後藤さんは女子のことをなにで調べたのだろう。独学なのだから、すごい探索力だ。

9人の男子のうち、3人は夭折、あとの4人も18歳から20歳で卒している。
すなわち、9男児のうち、生存したのは3人。一覧リストのうち、将軍となった家斉(いえなり)、斉匡(なりまさ)、斉敦(なりあつ)。

子がいれば、継嗣以外は養子にし、嫁にやるわけだから、治済だけが特記すべきとは思えないのだが。

後藤さんの推測は---、

ほとんどの親藩大名家へ養嗣子としてはいる余地があったということにも疑問が生じる。ひそかに黒い魔手が廻ってあらかじめ工作され、養子相続のやむをえない状態に作為されたともおもえる。(略)

そういう推理なら、20歳前に死んだ治済の男子6人にも、魔手がおよんだといわないと、片手落ちではあるまいか。

ということで、リストはメモとしての記録ということに。

| | コメント (0)

2007.12.01

『田沼意次◎その虚実』(5)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、その後、同じ版元から、新書シリーズノ1冊『田沼意次◎その虚実』(1988.10.10)に衣替えし再刊行された。

(意知 をきとも の四男)意明(をきあき)以下四人の死後、意次(をきつぐ)の四男意正(をきまさ)が相続した。彼は田沼家全盛のころ、水野忠友(ただとも 出羽守 駿州・沼津藩主 老中 3万石)に養子に行っていた忠徳(ただのり)である。忠友は意次の引き立てによって出世し、老中にまでなったのに、田沼失脚と見るや自分に難がおよぶのをおそれ、この忠徳(離縁後、意正 をきまさ)を離縁帰籍させた。それが家にもどっていたのである。
意正には娘が一人(長男意留 をきとめ のほかに)あったが、彼女は文政九年(1826)柳生但馬守栄次郎(大和国柳生 1万石)の室になった。武術万能のそのころ、将軍家指南番柳生家へ正室として迎えられたくらいだから、女流剣士として当代一流だったことは、まずまちがいないところであろう。意次以下田沼家の人々の武芸実力を語った文献はないが、この孫娘を見て、家風の様子がほぼうかがい知ることができよう。(略)

柳生家と聞いて、女武芸者を連想することをとやかくいうのではない。
_1池波ファンなら、田沼意次(をきつぐ)と女武芸者の文字からは、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬を連想する。
三冬は、池波さんが直木賞を受賞した年の『別冊文藝春秋』に発表した[妙音記]佐々木留伊(るい)の再来であることも、ファンなら承知している。

しかし、『剣客商売』『小説新潮』で連載が始まったのは、1972年新年号からと書くと、改めて『田沼意次 ゆがめられた---』の刊行年へ目をやるのではなかろうか。
---連載開始の前年の、1971年9月。

もちろん、若い女武芸者と老齢の剣客---秋山小兵衛をからませた『剣客商売』の構想は、もっと早くから練られていたろう。、『小説新潮』の編集部には、予告もされていたろうし、資料もそれなりに集められていたろう。
が、しかし、『田沼意次 ゆがめられた---』が発想の一つの引き金になったと考えても、的はずれとはいえないのではなかろうか。

いや、それよりも、『田沼意次 ゆがめられた---』によって、意次像が、池波さんの中ではじけたというほうが、より正確かも知れない。
平岩弓枝さんが『田沼意次 ゆがめられた---』に触発されて『魚の棲む城』の田沼意次を造形したように。

あるいは、すべてはぼくの妄想かも知れない。
しかし、意次池波さんの接点の一つは、解けたといえるのではあるまいか。『剣客商売』の5年前に始まった『鬼平犯科帳』における、賄賂取りの田沼像から脱却したことの説明もこれでつかないだろうか。

| | コメント (2)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »