相良の浄心寺
2007年3月12日に、[相良の平賀源内墓碑]のタイトルで、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』 (羽衣出版 1996.11.17 3,300円)を語った浄心寺の住職・木内隆敬師のことと、同寺にある源内の墓石の写真を、SBS学苑〔鬼平クラス〕安池欣一さんのリポートで紹介した。
(浄心寺の山門)
殺人の罪で伝馬町の牢へ入れられ、病死したことになっている平賀源内が、じつは、老中・田沼意次(おきつぐ)の手配でひそかに脱牢、相良近辺に隠棲し、天寿をまっとうした---とする異説の証拠調べであった。
200年11月4日の〔鬼平クラス〕の相良ウォーキングでも、浄真寺の源内の墓石とされているものへ墓参した。
が、記事はそのことではない。
3月12日には、源内との関連が薄いとみなして割愛しておいた安池さんのリポートの追補である。
同寺の山門の欄間を飾っている彫刻について、牧之原市は、文化財に指定している。
福岡は、九州の都市ではなく、城下町・相良のメイン通りの町名。
彫刻のことはよくは知らないが、龍の根源である不屈さと睥睨する威圧感を様式美の中に巧みに融合させており、見る者に自省をうながしていると思う。
寛政元年(1789)といえば、田沼意次は江戸にあってすでに鬼界に入っており、相良城は破毀されていた。()(
前年---天明8年10月初旬に火盗改メに任じられた長谷川平蔵宣以(のぶため)は、循吏(じゅんり)としての実力をあらわし始めていた。
寺田洞仙の名は、1937年刊の平凡社『日本人名大事典』には収録されていない。
芸術畑の「人名事典」をあたるべきなんだろう。
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