せんだい河岸
大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫 2001.6.15)は、辻善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3,17)によって被(き)せられた、賄賂取りの名人の汚名を雪(そそ)いだ名著といわれてきた。
それにたいして、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房 2007.7.10)は、大石説には史料の誤読がある---と、歴史学者同士の論争の形で、大石さんの田沼意次清廉説を攻撃している。
藤田説は、意次の賄賂取りは当時の風潮であったとしているが、それではなぜ、意次だけに非難が集中したかについては、田沼家の家来たちが一流の士でなかったとしてすましている。
大石さんが、松平派によって捏造・示唆されたものが多いという啓蒙の指摘には、ほとんど答えていない。
したがって、田沼意次を「おらが国さの殿さま」と思いたい相良では、大石説をもっぱらとしている。とうぜんであろう。
大石さんは、相良に残っている史蹟---せんだい河岸についても、早々に仙台藩による寄進とはきめられないのでは、と疑問を呈し、「仙台河岸」としないで、「せんだい河岸」と保留している。
同地に牧之原市教育委員会が建てた銘板は、
ご覧のように、仙台藩からの「石垣用材の寄進」と書いている。
仙台藩側、あるいは相良藩側に、それを証拠づける史料でもあるのだろうか。
仙台藩の幕閣への手入れ(収賄)のことは、辻さん、大石さん、藤田さんとも、伊達家の文書に拠って論を進めているのだが、この河岸のことには、辻さんと藤田さんは触れていなかったように思う。
(せんだい河岸の遺構のいま)
せんだい河岸がいまのように縮小されたのは、松平定信らの命令で、相良城が取り壊しになったときに河岸も縮小されたのであろうか。
銘板の文は、そのことには触れていない。
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コメント
村上元三さんの「田沼意次」でも、
「相良城破却を最後まで見とどけた三人は、涙を流しながら、その模様をかたった。
石垣もすべてこわされ、濠も埋め立てられたが、伊達重村の寄進してくれた仙台河岸だけは、川の流れのために残されたという。」(講談社文庫版 田沼意次 下巻 484ページ)
となってますね。
投稿: ぴーせん | 2007.11.18 17:39
>ぴーせん さん
そうでした、村上元三さんの『田沼意次』は、点と点をつないでよくまあ、あそこまで---という小説ですね。
もちろん、相良を取材もしているでしょうし、村上さんほど有名になれば、市役所も郷土史家も協力を惜しまないでしょう。
ただ、残っているせんだい河岸を観察すると、明治以後に手を加えた---というか、壊す方向に手を加えているように思えます。
松平定信以後の田沼の悪評が、地元の人にまで及んでいたのでは---と思ってしまいます。
もちろん、中には、山本周五郎さんのような田沼観をもった人もいたでしょうが、それも、このあいだの大戦後かも知れません。
せんだい河岸のいまの遺跡からは、人間の強欲しか伝わってこないような気がしていまます。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.19 03:09