『よしの冊子(ぞうし)』(36)
『よしの冊子』(寛政4年10月13日)より
(湯島聖堂の件、省略)
一、中山下野守(直彰 なおあきら 弓の8番手の組頭 77歳 500石)は組与力を2人も長谷川の組へ取られたかわりに、助(すけ)与力1人を手当てしたところ、これも火盗改メ・加役に任じられた太田運八郎(資同 すけあつ 30歳 3000石 先手鉄砲(つつ)の11番手の組頭)方へ取られたよし。
これらのことも松平(久松)左金吾(定寅 さだとら 先手・鉄砲組頭 51歳 2000石)が万事を取り計らい、裏で手をまわしたらしい、どうも困ったものだ、なにかにつけて続柄をいい立てられるので、人は恐れ、自分も次第に気が大きくなってきている、と噂されている様子。
【ちゅうすけ注:】
松平左金吾定寅は、白河藩主で老中首座となっている松平定
信と同門の久松松平。つまり、家康の実母・於大が再婚先・久
松家で生んだ子たち---異父兄弟の末裔。
(品川東海寺の墓域にある定寅の墓)
ところで、中山組から与力を一人、松平左金吾が手配して加役
(冬場の火盗改メ・助役)になった太田運八郎方へまわした
のが事実なら、左金吾は運八郎に恩を売り、長谷川平蔵の監
視を依頼したとも勘ぐれる。
一、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付 55歳 300石と廩米100俵)は、人のことを悪くいわなければ立身できない、という主義の様子。とてつもない考え違いの心根だともっぱらの噂。
かつまたご倹約の方針についても、このくらいのことは…といって、よほどに大きなことでなければ報告しない、という伊達男のよし。
老中のお見出しとはいえ、最初とはえらい違いだといい交わされているよし。
【ちゅうすけ注:】
近世史の学者たちは、森山のエッセイ集『蛋(あま)の焼藻(た
くも)』とか『賎(しず)のをだ巻』をよく引用しているが、風俗の
ことはともかく、人物に関する部分は---「人のことを悪くいわなけ
れば立身できない、という主義」---この一行を腹に据えてから引
用してほしい。
長谷川平蔵に対しては、嫉妬まじりで、「平蔵の盗賊逮捕は覇
道、森山は王道」と京極備前守(高久 たかひさ 峰山藩主
若年寄 64歳 1万1000余石)が評した(らしい)と『蛋の焼藻』
に記している。
池波さんは『鬼平犯科帳』で、年齢も20歳ほど若返らせた京極
備前守を長谷川平蔵の後ろ楯としているが、いささか疑問。
捜査費用なども援助したようになっているが、史実はいつも手元
不如意の小藩主だったらしい。
なお、若年寄には役料はないが、あちこちからつけ届けはある。
一、長谷川平蔵は、いついつまでもお役を仰せつけられ、ただただ出費が重んで困っているといっているよう。
一説に、ほかの者は加役を勤めると身代を微塵に消費してしまうのに、平蔵ばかりは身代をよくしているので、身上が悪くなるまでいまのままでお行きになるお考えだとも取り沙汰されてもいる様子。
*『よしの冊子』現代語訳---とりあえず、ひとまずここまで。
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