『よしの冊子(ぞうし)』(35)
『よしの冊子』についての簡単な解説
松平定信の老中首座時代に、側近の水野左内為長(ためなが)が、侯の施政上に参考に資すべく、幕政、世情についての見聞、幕府の各部署を担当する人材の性格、善悪などを見聞にまかせて鋭意収集記録して呈覧した、無題の日記的雑報として成立。
*どの為政者も、こういう隠密掛を置き、情報、世評……ひいては人事考課の基となるものを、ひそかに集めていたのではないか?
記録は、闇から闇へ、葬られていたのではないか?
幕府の職制では、
大目付…大名以下、老中管轄の幕臣の監察と政務の得失の検診。
典儀の操守。
定員:だいたい4名。役高3000石。
目付……若年寄に所属。政事の得失を糾察。
定員:10名。享保から。役高1000石。
徒目付…目付管轄の事務を補佐し、諸般の巡察取締に服す。
定員:40名。組頭3名。役高100俵5人扶持。
小人(こびと)目付
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『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より
一 太田運八郎(資同 すけあつ 30歳 3000石)はいたって出精家で、こんどお召しになったのは、西の丸の目付だろうと元気いっぱいで登城したところ、先手の頭だったので、青菜に塩の落ち込みようで、弱りきっているよし。
目付などの仲間からも、「あれはどうしたことだ。ほかにつける役がありそうなものだ。まあ、ああなっては平蔵の後釜にでもなさるおつもりか。それにしても惜しい人事だ」といいあっているよし。
【ちゅうすけ注:】
太田運八郎は天明8年(1788)6月14日から寄合火事場見廻。
寛政3年正月から御使番を兼帯、出世コースに乗っていた。
長谷川平蔵とのやり取りの経緯は、『夕刊フジ』に連載したコ
ラム [部下を信頼する]のタイトルで発表したものを2007年
10月5日『よしの冊子』(33)に採録。
一、 太田運八郎に火盗改メの助役を命じられたところ、長谷川平蔵はいたっていじめ、何を問い合わせてもいろいろむずかしくいいたて、伝達することも日々違うのだそうな。
だいたい太田は西の丸の目付を狙っていたので、お召しのあった当日は喜び勇んで登城したところ、先手をいいつけられたものだから、失望の極みだったところへ、加役を命じられたので元気になったばかり。
ところが長谷川のことのほかの仕打ち、さらに配下の者たちもむずかしくいじめるので、大いに弱り、辞めたいなどといっている模様。
一、長谷川平蔵方へ太田運八郎がはじめて伝達を受けに行ったとき、 平蔵がいうには、「こっちはそっちを出し抜こうと思い、そっちはこっちを出し抜く、これがいま第一の伝達でござる」といったので、さすがの運八郎もびっくり仰天、あいさつに困ったそうな。
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