相良城址の松樹
田沼意次(おきつぐ)が、家柄・門閥派の大名・幕臣たちに排斥され、陰謀のような形で政権を奪われた経緯は、これまで何度も記した。
もちろん、政治家が権力闘争の権化であることは心得ているつもりである。
しかし、政権の座から追い落としておいて、その居城であった相良城まで徹底的に壊しつくした史実は、支那やヨーロッパの歴史では読んでいるが、日本ではそんなに多くはないのでは---。
憎悪していても、ある程度のところで許すのが、日本人ではあるまいか。
政敵・松平定信(さだのぶ)のやりすぎは、どうも、彼の性格からきているように思え、調べてみたいことの一つにあげている。
ところで、徹底的に破壊しつくされた相良城だが、城址には数本の松樹だけが暴力をまぬがれた。小・中学校の校庭に健在である。
牧之原教育委員会の銘板がそのことを伝えている(相良町は、2006年に牧之原市相良地区となった)。
松樹たちは、城が壊されるのを、黙って見ていたろうが、胸のうちでは「なんて、無残な---」とつぶやいていたろうか。
まあ、意次は、この城が落成した時に10日間しか滞在していないから、松樹たちは、侯にはなじみが薄かったはず。
本丸跡には、牧之原し相良資料館が建てられ、田沼家の遺品なども陳列されているが、このことは別の機会に。
相良城の松樹のことを想起したのは、故・村上元三さん『六本木随筆』(中公文庫 1980.3.10)のせいである。村上さんは晩年は六本木に住まった。表通りからちょっと入って、たしか、うどん坂といったと思うが、その坂を背にした閑静なたたづまいの邸だった。
同エッセイに、六本木の町名の由来は、このあたりに六本の松の大樹があったからという説と、江戸期に、上杉、朽木、高木、片桐、一柳、青木と6人の「大名の中屋敷あるいは下屋敷があった」ためと『遊歴雑記』にあり、後者のほうが好ましいと。
そう。 『鬼平犯科帳』がらみを離れると、後者の命名のほうが、6大名家の歴史などへも空想が飛ぶ。
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