与詩(よし)を迎えに(19)
「藤六(とうろく)、頼まれてくれないか。番頭どのに訊いて、土地でもっとも上等の酒を、角樽(つのだる)で求めてきてくれ」
町奉行所の内与力(うちよりき)・笹田左門(さもん)が帰るとすぐに、銕三郎(てつさぶろう 18歳)は藤六(45歳)に声をかけた。
「どう、お使いになりますので?」
「明朝、与詩(よし)を迎えに行ったとき、内与力どのに贈るのだ」
「それなら、若。酒好きのあの用人どのには、おなじ金高で、並みの酒を多くなさったほうが喜ばれるとおもいますが---」
「お前の考えにも、たしかに、一理ある。拙も、一度はそのように考えた。しかし、つねづね、父上からお教えいただいているのは、音物(いんもつ)は、少しずつたびたび贈るか、一度きりならできるだけ値のはるものを贈ってこころに残していただくようにせよ、と。明朝のことは、後者だ」
「分かりましてございます。つい、出すぎたことを申しあげました。お許しください」
「そうだ---ついでに、藤六、お前の寝酒も求めてくるがよい」
藤六は帳場へ行った。
銕三郎は、懐紙に小判を1枚ずつ包んだものを5個用意した。
明日、与詩を育ててくれた乳母と賄方の下女たちへの心づけである。実際に渡すのは2個か3個だが、そのときになって急にふえたときの用心に多めに備えたのだ。
内与力・左門が現れたのは、酒にことよせて、そういうことを悟らせるためと気がついたのである。
左門には、父・平蔵宣雄(のぶお)から、すでにしっかりと渡されているはずだから、角樽で、顔を立ててやればいい。
帳場へ降りて、番頭に小間物の老舗を訊こうと立ち上がりかけたが、苦笑して、腰を据えた。
3日後に再会する阿記(あき)への笄(こうがい)でもとおもったのだが、旬日のうちに頭を丸めて尼寺へ入るのだから、髪飾りはおかしい、と気づいたのだ。
(いや、早まるな。お芙沙(ふさ)に会ことになるやもしれない。なにか贈るべきであろう。そうだ、もっと難物---〔めうが屋)の女中頭(がしら)・都茂がいるぞ。これへの口止め料も必要だ。やはり行かねば---)
銕三郎は、帳場へ降りていった。
番頭と話していると、藤六が角樽を下げて戻ってきた。
「若。鶯宿梅(おうしゅくばい)の極上を仕入れて参りました。清水の蔵元の酒です」
「む。鶯宿梅とな。いまの季節にぴったりだ。まてよ、どっかで聞いたような---そうだ、雑司ヶ谷(ぞうしがや)から宿坂(しゅくさか)を下りて姿見橋(すがたみばし)の手前、砂利場村に南蔵院という真言宗の名刹がある。この寺の古梅樹が、たしか、鶯宿梅といったと、母上と鬼子母神へ参詣したときに聞いたのだ。これは、江戸育ちの笹田与力どのにはなによりの音物となろう。でかした、藤六」
銕三郎の土地勘は、すばらしい。いちど足をはこんだ地のあれこれも、正確に記憶する。
(上端=鬼子母神 赤○-南蔵院)
(南蔵院 『江戸名所図会』部分 中央樹=鶯宿梅 塗り絵師=ちゅうすけ)
([鶯宿梅]拡大図 塗り絵師=ちゅうすけ)
「して、若はどちらかへお出かけで?」
「そのことよ。ちょっとした買い物がある。いま、番頭どのに店を教えてもらった。すぐ、そこだ。お前の好みも知りたい。ついて参れ」
【ひとり言】
〔鶯黄梅〕は、元禄期(1688)に創業の現・静岡市清水区西久保の三和酒造(株)が江戸期に醸造していた銘柄である。
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コメント
まだ若く10代なのに銕三郎はなんとよく気がまわるのでしょう。
上から下まで男女を問わず、この気配りは父宣雄の教育ばかりでなく、持って生まれた天性のものでしょうか、後の鬼平の管理能力はこの頃から芽ばえていたのですね。
投稿: みやこのお豊 | 2008.01.08 12:47
>みやこのお豊さん
平蔵の人格形成の過程を追っています。両親、家族、親類、教師、友人、その他など、いろんな要因がかんがえられますが、両親が一番大きいのではないかと。
とくに、父親・宣雄という人は、調べれば調べるほど、奥の深い人なので、追いかけるのに、たいへんです。
息のつづくかぎり、このブログは、何年でもつづけながら、平蔵宣以=鬼平の人格形成と史実を追っていきたいと考えています。ご声援、よろしくお願いします。
書いても書いても反応がないと、やめたくおもい日もあります。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.08 18:34
音物の心配りの件、たいへん勉強になります。自分は銕三郎の倍ほどの年ですのに、全然この当たり気が回っておりませんでした。
銕三郎は両親の影響で、どんどん「人間通」になっていきますね。拝読していてしみじみ面白いです。
投稿: えむ | 2008.01.11 18:03