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2005.04.16

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その1)

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収められている[敵(かたき)]で初登場した正統派の盗賊団の首魁。のち、鬼平直属の密偵となってかずかずの篇で活躍。巻9の[鯉肝のお里]で、いっしょに見張り役をつとめていた女密偵おまさと結ばれる。

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(参照: 女密偵おまさの項)

年齢・容姿:[敵](寛政元年 1789)のとき50男。6尺(約1.8メートル)ゆたかな巨漢。ひげあとが濃い。
生国:近江(おうみ)国犬上郡(いぬがみこおり)大滝地区(現・滋賀県犬上郡多賀町大滝)
ここが有力候補地として急浮上してきたのは、朝日カルチャーセンター(新宿)の鬼平クラスでともに学んでいる堀之内勝一さんが、『侠客』の中のつぎの一節を見つけたことによる。

近江の国・犬上郡・富之尾は、彦根城下から南へ三里。
琵琶の湖の東岸、二里半のところにある。
このあたりは、近江と伊勢の両国にまたがる山塊の、その山ひだにかこまれた山村で、総称を〔大滝〕とよぶ。
江戸からここまで、中山道を約百二十里。 (新潮文庫 1969.03.26) p215

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明治19年の彦根・富之尾地図

鬼平シリーズに先立つ忍者ものの取材で、織田信長軍と浅井長政勢の戦いの現場や、六角家の観音寺城から甲賀への逃避の経路などふんだり、好きな彦根を幾度も訪ねている池波さんのこと、彦根市のすぐ隣j町の多賀大社や大滝神社へも詣でたか。

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多賀大社拝殿

探索の発端:三国峠を通りかかった剣友・岸井左馬之助が、斬りあいをしている2人の男を見かけ、残ったほうの男(五郎蔵)のあとをつけたことから、その盗人宿、一味の存在が知れた。

結末: 小梅村の盗人宿で、〔小妻(こづま)〕の伝八の姦計で寝返っていた配下たちが、五郎蔵へ斬ってかかったが、鬼平と左馬之助の出現で救われ、密偵となる。
(参照: 〔小妻〕の伝八の項)

つぶやき:多賀町の大滝を、この目で確かめるために、出向いた。彦根からバスで多賀大社へ。参詣後、近江鉄道多賀線[多賀神社前]駅でタクシーを待つ。
犬上川ぞいに遡行して山間(やまあい)に入っていくこと15分(約6キロ)、大滝神社に達した。北の山側が人家が少ない「富之尾」である。

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神社前のバス停

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大滝神社参道

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境内の崖下の犬上川上流の滝(?) いま、落差が50センチほどなのは、上流に犬上ダムができたから。かつては堂々たる瀑布であったらしい。

大滝郷の経緯について、多賀町役場からの返信---。

お問い合わせの件につきまして、お答えします。
1.大滝村が多賀町に編入された経緯
明治22年(1889)4月1日に町村制が施行されて、多賀、久徳、芹谷、脇ヶ畑、大滝村として五つの行政単位となった。
昭和16年(1941)11月3日、多賀、久徳、芹谷の3か村が合併して旧多賀町となった。
昭和30年(1955)4月1日、脇ヶ畑、大滝村が多賀町に合併された。このときの旧多賀町の人口 6,765人、大滝村 3,685人、脇ヶ畑村 264人。
2.江戸時代の大滝村の人口・戸数など
明治22年に大滝村となったわけで、江戸時代には同村名はなかったので、計算不可能。、

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[敵(かたき)]で、〔大滝〕の五郎蔵に密偵になることを鬼平がすすめたとき、池波さんは五郎蔵のどこに魅力を見出していたのであろうか。
生国が近江国であれそのほかのどこであれ、この男は、鬼平が長谷川平蔵の陽の姿とすると、陰の部分を生きてきているとおもったのではなかろうか。
文庫巻7の[泥鰌の和助始末]で、若い銕三郎と岸井左馬之助はあやうく盗みという泥水をかぶりそうになった。
松岡重兵衛の一喝でおもいとどまったが、もし、あのまま泥水に足をつけていたら、銕三郎は五郎蔵になっていたろう。

その五郎蔵、10年前の配下は一人も残っていないことが[敵]で明かされる。「当時のものたちは、死んだり、捕えられたり、他の親分の下へついたりもしていた」。
つまり、一枚岩の組織を率いてきたのではなかった。そこに鬼平にはない、この男の陰の部分を読み取る。
その分、五郎蔵に男としての幅と、一重ではない性格が付加された。

 

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コメント

五郎蔵が六尺に達する大男で当時の横綱小野川と同じとお気軽書き込み帳に書きましたが池波さんは梅安も確か大男に書いてますね。
平蔵は人並みのようですが。
闇の世界で生き抜くには充分な貫禄それには大男も資質の一つでしょう。

投稿: 靖酔 | 2005.04.18 09:28

>靖酔さん

江戸時代、6尺の背丈の男といえば、大男だったのでしょうね。
5尺2,3寸(1メートル56センチから60センチ前後)が普通だったでしょうから。

戦後、栄養状態が好転して、平均身長がずんずん伸びたのですよね。

ところで、男のベルトに穴が5つあけられているのは、軍服の名ごりです。
各自、自分のウェストサイズに合った穴を使いました。ベルトサイズは1色。

いまなら、ベルトは自分サイズに切ってしまいますが、紳士は、3つ目の穴を使うのが正しいなんていわれ、そこへくるようにサイズを切るのです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.04.18 12:26

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