南本所・三ッ目へ
「登城している留守に、地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)屋〕彦兵衛が来たら、用人・松浦とともに、きちんと聞きおくように」
銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督ののち平蔵宣以=小説の鬼平)が、父・宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)からこう申しつけられて5ヶ月経つが、宣雄が首を縦にふる話は、まだもたらされてきていない。
来たのは、帯に短し襷(たすき)に長し---の物件ばかりであった。
宣雄の条件は、敷地が1000坪以上で、江戸城まで徒歩半刻(はんとき 1時間)前後ですむところというのだから、〔丸子屋〕彦兵衛の、
「そんな美味しい話は、ご府内で10年に一つあれば、まさに、めっけものでございますよ。この商(あきな)いをはじめて、手前で七代目になりますが、これまで一度も手がけたことがございませんからねえ」
の言い分ではないが、たしかにむずかしい注文であった。
1000坪の敷地を持っている幕臣は、まず、家禄1500石以上3000石の家柄だから、お目見(めみえ)以上の旗本5200余家の中でも300家もない。
一方、彦兵衛が七代目と自慢しているのは、大権現・家康公の江戸入りを追っかけるように駿府から移って来て、地券屋として、幕臣の相対(あいたい)屋敷替えを主に手がけて200年近くを経ているためである。
幕臣の拝領屋敷で商売をつづけるには、駿府時代からの利権と、上層部への繋がりがものをいっている。
商いは、地価などない拝領地に町方だったらと仮の値段をつけ、交換する双方から5分(5パーセント)ずつの手数料をもらうこと成り立っている。
宣雄と〔丸子屋〕の先代との付き合いは14年前に、開府以来の赤坂築地の拝領屋敷(現・港区赤坂6-11)から、大川べりの築地のいまの屋敷へ移ったときから始まっている。
赤坂・氷川宮脇の陰気くさい屋敷を嫌ったのは、銕三郎を産んだ妙(たえ)で、銕三郎が5歳のとき、宣雄の正室・波津(はつ=小説の名)が病死した寛延3年(1750)に、移転を当主・宣雄に懇請。
(赤○=赤坂築地時代のハセ川イ平邸 赤坂氷川宮の下)
田園育ちの妙の希望で、健康な潮風が吹く湊町・築地(現・中央区湊2^12)が選ばれた。
(赤○=築地・湊町の長谷川邸 京橋から鉄砲洲にかけて)
(上図の部分拡大 赤○=長谷川邸が松平阿波守の中屋敷にくいこんでいたので、蜂須賀家とすれば、その敷地を合わせる機会を狙っていた)。
宣雄が1000坪以上の敷地を断固として主張して、それ以下の物件に見向きもしないのは、小十人組頭時代の同僚で、いまは先手・弓の16番手の組頭として火盗改メの助役(すけやく)に任じられていた、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)の屋敷を施設を見たからだった。
白洲、仮牢、捕り物道具小屋などを案内してくれた本多組の与力が、
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」
と言ったのが、頭から消えないのである。
武家育ちではない妻同様の妙に、悲鳴は聞かせられないと、心に決めていたのである。
そのためには、これまで倹約に倹約を重ねて蓄えてきた、すべての金銭をあててもいいとまで考えている。
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