寛政重修諸家譜(18)
2007年4月21日『寛政譜(17)』で、書き忘れていたのは、6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が妻帯していなかつたことだ。
9代目当主・辰蔵宣義(のぶのり)が幕府へ上呈した[先祖書]に、
宣尹妻 無御座候
宣尹養子 譜末ニ有之
とある。
30歳代にも達した家禄400石の家柄の当主のところへ、嫁が来ないというのは、いささか不審だ。
仮に、宣尹が衆道好みであったとしても、体面上、娶るはず。
宣尹の持病を怖れて、来手がなかったというほうが、より真にちかいのではなかろうか。
そういう目で[先祖書]を眺めていくと、いろいろと納得がいく。
『寛政譜』の黄○の女子は、同一人である。小説で波津(はつ)という名を与えられている。
左端のおって書きには、
実は宣安が女(むすめ---つまり、宣尹の妹)。宣尹にやしなわれて宣雄が妻となる。
このあたりの経緯は、鬼平ファンなら、小説でしっかりと心得ているはず。
ほんとうに、そうか?
母親は、兄の宣尹と同じ、家女---つまり、召使い女、池波さん流の表現をとると、下女であり、妾(めかけ)。
父親は、2007年4月19日の[寛政譜(15)]に記したように、これまた、40歳近くまで妻帯もかなわなかった病気もちの5代目・宣安。
兄・宣尹は、父・宣安が39歳のときの初めての子。
当の家女が、1人産めば2人産むもそう変るものでなし---とおもえば、2人目の女の子は2,3年で産んだろう。
とすると、黄○の女子は、宣有の庶子・宣雄よりも1,2年、先に生まれたことも考えられる。
兄・宣尹の養女になったときは、30歳をすぎていたかも。
それまで嫁がなかった---いや、嫁げなかったのは、病身で、夫婦生活に耐えられなかったから、とも推測できる。ふた目と見られない醜女(しこめ)でないかぎり。
病床に寝たままの30歳すぎの花嫁を了承するのは、厄介者ぐらしをしてきた宣雄しかいない。
形の上はともかく、波津は真の妻ではないのだから、3歳の子・銕三郎とともに厄介になっていた宣雄の妻(?)も同意するしかなかった。
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コメント
『寛政譜』、どこか変とおもい、じっと見る。
左端の女子は、もちろん、波津のことだけれど、宣雄の妻だから、夫と横並び? と不審がった。
でも、まあ、波津は宣尹の妹であり、かつ、その養女であり、その夫が宣雄なんだから、これで間違いではない。
『寛政譜』の編輯者もずいぶん考えた結果なんだろうな。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.22 14:40
私も、この場所は兄弟(姉妹)の欄と思っていましたので
違和感があります。
この前の定位置に?ある「妻は宣尹が養女」の記載が目に入ってくるからです。
それはそれとして、『寛政譜』があれば見たいと思って足立中央図書館に行ってみました。
ここにあるのは、『新訂 寛政重修諸家譜』22巻と『索引』4巻、それと『家紋』1巻の27冊。『家紋』の後に載っている索引がなれない私には大助かりでした。
実際に接してみると、いつもちゅうすけさんから頂戴している史料(資料)の有り難さが、改めて身にしみました。
私は、歴史の掘り下げ方をと言うより、物事の極め方と言ったような事を教わっていると思っています。
今連載の『寛政譜』が、まさにそのもの。(私にはちょっとお手上げ、こんがらかってきましたが)
これからも,楽しみです。
投稿: 足立の山勝 | 2007.04.22 20:32