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2007.04.19

寛政重修諸家譜(15)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の実父・宣雄(のぶお)は、能吏でもあり、長谷川家中興の祖ともいえる人物であった。

「中興の祖」---などと、おどろおどろしい、といわれるかもしれない。が、事実そうなのだから誉めるしかない。

長谷川一門の『寛政譜』A3貼りこみを再掲する(一門といっても、第1ページのみ)。

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1,2段目本家。3段目は本家からの分家。
4,5段目が、始祖・正長の第2子・宣次が立てた、はじめ伊兵衛、のちに平蔵と通称を変えた分家
赤○は、4代目・宣就(のぶなり)の第3子・宣有(のぶあり)と子・宣雄銕三郎祖父と実父)。
緑○は、5代目・宣安(のぶやす)と継嗣で6代目を家督した宣尹(のぶただ)。

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5代目(緑○)・宣安を読んでみる。

忠左衛門 (家督して)伊兵衛 母は真治が女

真治とは、同朋(どうぼう 俗称・茶坊主)方の永倉珍阿弥(ちんあみ)真治。今川の家臣で遠江国豊田郡小山に住してのち、徳川家康に同朋として仕え、2代目・真治のとき廩米300俵。
長谷川家も今川の家臣だったから、その縁で、真治の3女宣就の妻となり、宣安と次男・正重を産んだ(正重はのち永倉家へ養子に入る)。

余談だが、[1-2 本所桜屋敷]で、銕三郎の放蕩に愛想をつかした宣雄夫人・波津

「妾腹の子などより、親類の子を後つぎに!!」
猛然として運動をはじめた。
別の叔父の子・永倉亀三郎を養子に迎えようというのである。

池波さんが、別の叔父の子として、永倉の名を出したのは史実にのっとっている。
しかし、永倉へ養子に入った正重がつくった1男2女の、男の子は、[本所桜屋敷]の事件の36年前、銕三郎が7歳の時に早逝しており、永倉家には、長谷川へやるような男子はいなかった。

閑話休題(それはそれとして---)。

5代目(緑○)・宣安が、享保16年(1731)正月21日に卒したときの享年が記されていない。
宣安と正重は同じ腹から生まれた可能性はきわめて高い。
宣有が同腹かどうかは不明。宣安が妻を、いつのときか、離縁しているからである。

宣有の兄である次男・正重は、養家先の永倉家で、寛保3(1743)年6月5日、65歳で卒している。[寛政譜(8)]参照。ということは、延宝7年(1679)の誕生。

同腹の生まれなら、長男・宣安は2年ほど早く生まれたか。と、享年55。

継嗣・宣尹(のぶただ)は正徳5年(1715)、宣安が39歳での初めての子。
母は家女
宣安が妻帯した記録は、どこにもない。
宣安が書院番士として出仕したのは49歳。家督7年後。遅すぎないか。
原因は、父の4代・宣就にありそうだが、これは別の機会に探索する。

宣安にも原因があったと推察している。妻帯もかなわないほどの病弱である。
弟・宣有も、養子に出られないほどの病い持ちであったが、宣安にまさかのことがあったときの代打要員として家におかれていたのではなかろうか。

そして、家女から遅く生まれた修理宣尹。これも病弱な男子。
5年遅れて、病い持ちの代打要員の宣有が、備中・松山藩の浪人の三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた。ふたたび[寛政譜(8)] 
代打要員がさらなる代打要員をつくったのである。家系は万全の備え完了。

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コメント

代打要員の代打要員とは面白いですね。

野球ではよくある事です。

右投手に左打者を代打にすると相手は左投手をぶつけてくる、そこで今度は右打者の代打を出す戦術。

西鉄、大洋の監督をつとめた三原監督がよく使っていま
したが、今は当たり前になりました。

投稿: 靖酔 | 2007.04.20 08:38

>靖酔さん
>代打要員の代打要員
とお読みになりましたか。
では、文章の書き方がわるかったようですね。
代打要員が、さらに代打要員を生んだ---という意味だったのです。
つまり、2代つづきの代打要員。
野球でいうと、8番、9番とつつけて代打。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.21 07:13

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