寛政重修諸家譜(14)
辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]のうち、平蔵宣以の項にこだわっている(国立公文書館に保管されているものを、長谷川本家の末・長谷川雅敏さんがコピーしたもの)。
引きかえって、頭書の部分。
長谷川備中守宣雄総領
一、八代目 生 武蔵 長谷川平蔵宣以
母 家女 始 銕三郎
右平蔵宣以義
明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ
御見得仕候 父備中守宣雄 京都町奉行
相勤候節
安永ニ癸己年六月廿一日京都於御役宅
卒 同年九月八日父願置候通 跡目菊之間
銕三郎は、武蔵で生まれた、とある。
武蔵は広い。江戸の長谷川邸---赤坂築地中之町(港区赤坂 6-11)もそうなら、巣鴨本村も武蔵である。
知行地の一つであった寺崎村は上総国だから、そこの庄屋のむすめ説をとるばあいは、赤坂へ引き取られて出産したと推定する。
母親は〔家女〕とあるから、父親の本妻ではないことはたしか。もちろん、この時期、父・宣雄は、従兄で六代目・宣尹の厄介になっていたから、本妻を娶ることばほとんどできない。
〔家女〕ということは、奉公にあがっていたむすめといっていい。
ただし、この項、 『寛政譜』では、〔某氏〕と記入されている。
池波さんが読んだのは、 『寛政譜』の〔某氏〕のほうである。
それを、巣鴨本村の大農家の三沢家から奉公にあがっていた〔むすめ〕---すなわち〔家女〕と見抜いたのは、たまたまとはいえ、するどい。
「明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ御見得仕候」というのは、まだ家督相続していないうちに御目見したということ。
宣雄の没年については、2007年4月14日の[諸家譜(10)]で言及しているので、6月22日と21日の異同については、ここでは触れない。
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コメント
一連の長谷川平蔵家の「先祖書」について、このような私的資料の保管がとても疑問でしたが、国立公文書館にあるのですね。
又長谷川平蔵の末裔の方ともコンタクトが取れていらっしゃるのでは史実が事実として、一層身近な長谷川平蔵像になり、江戸時代の政界事情の理解につながります。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.18 07:43
>みやこのお豊さん
長谷川平蔵家の末裔ではなく、長谷川本家の末裔です。
長谷川雅敏さんも、平蔵家の末裔をさがしていらっしゃいますが、いまのところ、手がかりなし。
捕縄研究家の名和弓雄さんが、小倉市だか北九州市だがで、平蔵の末裔から、火盗改メの十手を買ったということを公けにされ、その複製品を買わないか---18万円だったようにおもう---という話がお弟子さんからきましたが、そういう趣味はないので、お断りしました。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.18 08:20
寛政譜コピ-で母親欄の記述を改めて見ると、微妙な違いがあるのですね。
例をあげると、
母は 某氏、~氏の女、~が女、~が養女、~某が女。
身分を尊ぶ時代だから、記述したくない面もあったと思うが、何となく理解できるようになっているのに感心。
投稿: 聡庵 | 2007.04.18 12:05
>聡庵さん
[---氏の女]と姓が記されていたら、[---氏]は武士です。浪人であっても、武士階級です。
ただし、「某氏」は、武士以外の家の女です。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.18 13:07
十手は町奉行、火盗改めなどで形が違っていました。
十手につける房の色もそれぞれ決まっていました。
明治大学博物館刑事部門には江戸期の捕り物道具などが
展示されており鬼平ファンには参考になります。
火盗改の十手も展示されてましたが2004年に新装され展示が多少変わっているかも知れません。
http://www.meiji.ac.jp/museum/
投稿: 靖酔 | 2007.04.18 14:26