寛政重修諸家譜(13)
辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」に記入されていて、『寛政譜』には採用されていない数行がある。
編輯方で不要とみなしたのか、それとも、ほかの理由があったのか、判断に迷う。
活字化すると、
安永八己亥年(1779)ニ月廿四日
孝恭院様(家基)薧御ニ付同年四月十五日
被為召
只今之通可相勤之旨 於菊之間松防州
伝
天明元辛丑年(1781)閏五月十八日
公方様え被為附候旨 松右京太夫伝候段
水谷伊勢守於宅 達之間勤人組節
『徳川実紀』の安永八年二月廿日を読んでみる。
大納言新井宿(大田区山王あたり)のほとりに鷹狩したまひ、東海寺にいこはせらる。にわかに御不豫の御けしきにていそぎ還らせ給ふ。
東海寺・牛頭天王社(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)
この鷹狩に、書院番士の長谷川平蔵も扈従していたのであろうか。
家基は18歳、平蔵は34歳。
4日後の24日、家基は不帰の人となった。死因は咳気---悪性の風邪であった。
2ヶ月後、1日違いの4月16日の『実紀』に、継嗣はいなくなったが、西丸勤務をつづけるようにとの命を、書院番組頭・水谷(みずのや)伊勢守勝久ほかの面々が受けたことが記されている。
平蔵たちは、菊之間で、伊勢守勝久からつたえられたのであろう。
長谷川家は、これを文書で残していたから「先祖書」に写したものとおもえる。
天明元年5月18日の『実紀』。
(一橋)民部卿治済(はるさだ)卿。嫡子 豊千代君(10歳)をともなひて出仕あり。
(将軍・家治)御座所に召して拝謁せらる。
ときにこたび 豊千代君を養はせ給ひ、御代つぎに定めらるるよし仰せくだされ、豊千代君に長光の御刀、来国光の御差そえさづけ給ひ、御手づから熨斗鮑まいらせらる。
書院番頭の水谷伊勢守以下、長谷川平蔵も、新しい西丸の主に仕えることになった。
案ずるに、このような公事は、平(ひら)番士の平蔵には関係ないと判断されて、『寛政譜』から除外されたのであろうか。
【つぶやき】[先祖書]にある[松右京太夫]は、高崎藩主(8万3000石)の老中(1758~81)・松平(大河内)右京太夫輝高(てるたか)。
松平信綱の5男がたてた大名家。
享保10年(1726)生まれ。天明元年(1781)9月1日、病床に伏し、26日卒。享年57歳。葬地は野火止の平林寺。
平林寺内の、松平(大河内)一門の墓域
老中に在職中、職権をもって絹物品質改め会所新設のたくらみに乗り、一揆を起こされて廃案したことがある。高崎城へ寄せた一揆勢は1万人近かったとも。
もう一人の、[松防州]は、やはりの老中・松平(松井)周防守康福(やすよし 石見国浜田藩 4万石)。田沼意次の盟友ともいえ、次女が田沼意知の内室。
享保4年(1719)生まれ。老中の在任は宝暦12年(1762)から天明8年(1788)まで26年間。享年71歳。墓地は西久保の天徳寺。
もう1件。
水谷(みずのや)伊勢守屋敷とある。
嘉永2年(1849)の近江屋板でみたら、三田寺町に水谷水生邸があった。
寺に囲まれた、水谷家の屋敷。
史料によると、3500石の水谷家の屋敷は三田寺町にあるだけだから、ここだろう。
町名どおり、周囲は寺だらけ。したがって、3500石にふさわしく、1500坪前後の宅地だろうに、妙に小さく見える。寺院が土地を広くとっていすぎるのだ。
水谷伊勢守勝久は、長谷川平蔵の番頭だから、そこは気配りのたしかな平蔵のこと、幾度もこの水谷邸を訪れたことだろう。急な坂道が多いから、文句の一つも吐いたか。
いや、勝久が番頭だったのは平蔵が41歳まで。
坂道をぼやいたのは、60歳を越えて毎日登城・帰宅の往復していた勝久のほうだったかも。
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コメント
新座市野火止の平林寺といえば、紅葉の名所の一つだが、松平伊豆守信綱の墓所でもありましたね。
岩槻にあったのが、野火止へ移されたと書かれていました。
高崎藩主の松平右京太夫輝高も、信綱の末なので、平林寺を葬地としたのでしょう。もっとも、藩主や夫人、嫡子は江戸住まいだから、その人たちの墓所は、江戸か江戸近辺の寺ということになります。
江戸研究には、大名の墓所も加えないと片手落ち---とは。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.17 08:28
鷹狩に行った継嗣・家基が昼をとった東海寺は、塔中の玄照院が寺号を引きついでいるとか。
家光に引きたてられた沢庵和尚が創建。和尚の墓域もあるが、ぼくたち鬼平研究者にとっては、平蔵のライヴァルだった松平左金吾定寅の墓のほうが関係が深い。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.17 08:34
次期将軍に固まっていた家基の急死と後継に関連する時期の記述だけに、暗殺を含め微妙な問題にからむと捉えられたのかも知れませんね。
意次と定信の確執もあり、編輯方が後から何が判明するか等々も考え、どちらに転んでもいいようにと保身上削除したのでは。
投稿: 聡庵 | 2007.04.17 10:21
老中・松平周防守康福の墓があるという天徳寺には、鬼平熱愛倶楽部は参詣しましたね。
もっとも、松平家の墓域は確認しなかったけれど。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.17 11:22
徳川実紀と寛政重修諸家譜との表記をこのように具体的に指摘下さると史料の持つ面白さが実感されます。
話は変わりますが、平林寺、天徳寺と講座で訪ねることが出来ましたが、東海寺は拝観できなかったと思いますが。
投稿: 靖酔 | 2007.04.17 20:40
この豊千代君があの家斉ですですよね。
投稿: 秋山太兵衛 | 2007.04.17 21:47
講座で平林寺に行ったのは、3年前くらいの秋だったでしょうか。武蔵野の面影を残し、紅葉がきれいだったのを覚えています。
東京近郊にも、まだまだ見所がありますね。
投稿: 鬼平熱愛むらい | 2007.04.17 23:04
広い境内を紅葉を踏みしめながら散策した平林寺でした。天徳寺は江戸時代には広大な領地で今の地下鉄神谷町の辺りまで寺領だったそうですね。
現在は夢殿を模した本堂が新築され境内には文化財の
「弥陀種子板碑』がひっそりと立っていたのをおもいだします。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.17 23:42
もう3年にもなるのですね。私が鬼平熱愛クラブに席を置かせて頂くようになったはじめの頃でした。
とても、紅葉が綺麗でした。松平家の墓所、憶えています。季節が変わったら訪ねたいと思って現在に至りました。
近いうち訪ねたい思っています
投稿: 所沢のおつる | 2007.04.18 19:17
平林寺は、『剣客商売』の秋山小兵衛が若い頃、波切八郎と決闘を申し合わせた場所というので、ウォーキング・コースとしました。
もちろん、紅葉の季節を選んで。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.19 17:49