寛政重修諸家譜(12)
長谷川平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』を眺めていると、いくつかの疑問が生じてくる。
その1は、最初の行の「母は某氏」である。
これについては、2006年7月24日[実母の影響 ]に書いた以上のことは、いまのところ進展してはいない。
かいつまんでいうと、知行地の一つ---上総国武射郡寺崎村(千葉県山武市寺崎 222石余)の庄屋のむすめ説があるが、確認がとれない。
小説では、武州巣鴨村の富裕な農家・三沢家の次女・園が奉公にあがっていて銕三郎をもうけたが、夫の宣雄が長谷川家の当主の養女と結婚して家督したので、幼児を抱いて実家へ帰り、病死。
菩提寺・戒行寺の霊位簿でみるかぎり、実母は長谷川家に同居し、平蔵宣以が病死する4日前まで生存、戒名は宣雄の正妻同様のあつかいを受けている。
その2は、将軍・家治(いえはる)へのお目見(おめみえ)の年齢が23歳というのは、遅くはないか---という論者がいること。
池波さんも、放蕩説をとっている。
長谷川平蔵が勘当(かんどう)を許され、屋敷へもどって、十代将軍・家治に拝謁(はいえつ)したのは、明和五年(1768)十二月五日のことで、ときに平蔵は二十三歳であった。([11-密告] p190 新装p198)
『徳川実紀』によると、この日にお目見したのは30名で、姓名が明記されている17名の平均年齢は20.9歳。
平蔵の23歳は、決して早いとはいえないが、28歳の最年長者もいることを考えると遅すぎとはいえない。
遅れぎみだった理由を、放蕩とするのは、根拠がない。
平蔵と同時代の記録『よしの冊子(ぞうし)』は、視点が低いので信憑度はそれほど高くはないが、寛政2年(1790)12月の項に、「長谷川平蔵は、かつては手のつけられない大どらものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の者の扱いが行きとどいて上手のよし」とある。
「どら」とは、「どら息子」というときの「どら」である。「金使いかあらい」とか「女遊びがすぎる」息子のことを指すが、多くのばあい、大げさに言っている。
いや、別に銕三郎(平蔵の幼名)を擁護しているわけではない。
2007年4月8日の『寛政譜(4)』で報告したように、銕三郎が遊びたいざかりの18,9歳のとき、本家の伯父が火盗改メだった。
その配下のような顔をして情報をとるために盛り場に出入りしたのではないかと推測しているだけである。 (この項、つづく)
【つぶやき】亡父・宣雄にふさわしい戒名とは、
従五位下、備中守であった宣雄のそれは、
泰雲院殿夏山日晴大居士
実母は、
興徳院殿妙雲日省大姉
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コメント
若き頃平蔵が本所で無頼漢と交わり、放埓な生活に明け暮れていた事は「鬼平」でおなじみ。
でも情報を得る手段だったのではと言うのも一理ありますね。
地元の顔にならなければ内容のある情報など手に入らないでしょうから。
続編楽しみにしてます。
投稿: 靖酔 | 2007.04.18 00:41