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2007.04.15

寛政重修諸家譜(11)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)が、8年間も火盗改メとして辣腕をふるうことができた、そもそもは、41歳の若さ(?)で先手組の組頭に抜擢されたからともいいうる。

天明6年(1786)7月26日付で発令された。平蔵宣以年譜
このとき、平蔵をのぞく33名の先手組頭の年齢は、82歳の最長老をかしらに、平均62.5歳であった。

先手組頭は1500石格。家禄がこれに満たない者にはその差分の足高(たしだか)が給された。
1500石格は、番方(武官系)ではもっとも高額。
これより高い格の石高を求めるなら、役方(行政官)になるしかない。

ほとんど人間、収入が多いほうがいいと思うにきまっている。
いちど先手組頭となると、老いてもその席を放さない仁が、平蔵のころには多くなっていた。
平均在職年数が10年を大きくこえる者はザラだった。
先手組頭は、番方の爺ィの捨てどころ---ともいわれた。

田沼意次が若手(?)の長谷川平蔵を抜擢したのは、先手組頭若返り策の初手だったようにもおもえる。

それで、『鬼平犯科帳』では評価が高くない田沼意次を調べるために、田沼をとりまいていた幕臣たちの、『寛政譜』の高一覧性版をつくりはじめた。

田沼在職中の幕臣50余家を選び、その閨閥も調べるためである。

『寛政譜』からコピーし、切り離してA3判に貼りつける。
原典1ページがほぼ1段におさまる。高一覧性版は1ページに5段貼る。

家康時代から分家の末までだと、A3判で20枚近くになる家もある。

高一覧性A3判は、A4サイズに折って、右耳に家名の見出しをつけてファイルする。

360_54

老中職、若年寄職がとりあえず終わった。
いまは、勘定奉行配下に着手している。

いつ終わるか、予想もつかないが、これまで、やった人がいたという声を聞かないから、つづけるしかない。
あとから、これに補って、考察する人のためにも。
『寛政譜』は、田沼時代を知る宝庫の一つでもあるのだから。

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コメント

当時は定年や肩たたきはなかったのですね。
火盗改めはかなり激務のはずですが平均年齢が62.5才とは驚きです。

平蔵が火盗改めになり、「江戸での仕事は難しい」と池波さんは盗賊に語らせていますが、その通りですね。

講座で配布して下さる資料の重み身に沁みます。

投稿: 靖酔 | 2007.04.15 10:59

>靖酔さん

文意が足らず、申しわけなし。
平均年齢62.5歳は、火盗改メのそれではなく、火盗改メに任命されるための必須条件ともいえる先手組の組頭の平均年齢です。

そういえば、平蔵以前の火盗改メの平均年齢の試算をしていません。ぬかってました。
平蔵以前50人くらいを試算してみることにしょうか。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.15 11:29

一度手に入れた地位・特権にしがみつく悪弊。
これでは立ち行かないと必死に改革に取り組むのは、昔も今も変わらない。

森下での講義で、天明6年(1786)と寛政7年(1795)の先手組頭年齢一覧表を頂き、当時の幕閣の取り組みの一端を伺い知った事を思い出す。
確か8歳位若返えりが図られたが長くは続かなかったでしょうね。

投稿: 聡庵 | 2007.04.15 19:57

一度手に入れた地位・特権にしがみつく悪弊。
これでは立ち行かないと必死に改革に取り組むのは、昔も今も変わらない。

森下での講義で、天明6年(1786)と寛政7年(1795)の先手組頭年齢一覧表を頂き、当時の幕閣の取り組みの一端を伺い知った事を思い出す。
確か8歳位若返えりが図られたが長くは続かなかったでしょうね。

投稿: 聡庵 | 2007.04.15 19:58

私も靖酔さんと同じく、江戸時代は定年や肩たたきはなかったのかとの疑問を持ちました。

最近、「その男」、「人斬り半次郎 幕末編」、「西郷隆盛」と、池波さんの明治維新ものを立て続けに読んだのですが、勝海舟のような下級武士から実力者を登用したのは幕府も末期になってからのようですから、おそらく定年は無かったのではないでしょうか。

しかし、幕府に定年があったかという疑問は学校の勉強では出てこない疑問ですね。森下の講義ならではと思います。

投稿: 鬼平熱愛むらい | 2007.04.15 21:03

聡庵さんのコメント触発されて平成17年10月の講座で調べたお先手組の天明6年と寛政7年の平均年齢比較は
         天明6年      寛政7年
筒組1組~20組  平均年齢64.6才  58.2才
弓組1組~10組      64.1才  56.2才 
西丸筒組1組~4組    68.5才   56.2才  
先手組全体     64.9才 57.4才

以上の通りで若返りが実現されてました。

投稿: 靖酔 | 2007.04.16 10:40

>聡庵さん、靖酔さん
教室での成果を思い出していただき、恐縮です。
これまでの研究者で、先手組の若返りら指摘した人はまったくいなかったのです。

田沼意次の長谷川平蔵抜擢の意味をずっと考えていて、やっと、若返りに思いいたりました。
それには、天明6年の米騒動鎮圧部隊発令が契機でした。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.16 17:38

米騒動鎮圧の為出動命令を受けた組は
弓組の2、6、7組
筒組の2、6、9、16、17、19の組
西丸筒組4組でした。

弓組の2組のお頭は長谷川平蔵で42才で最年少で最古参は62才でした。

この時の講座で先生は筒組10組の頭の土方源太勝芳は43歳の若さにもかかわらず出動命令が出なかったのは病弱であったのか、幕府上層部にコネがあり、危険な業務を外れたのかと話されました。

おそらくコネがあって外れたのでしょうね。

乃木大将は日露戦争で二人の子息を戦死させてます。

投稿: 靖酔 | 2007.04.16 18:50

靖酔さん

乃木大将については、池波さんの「将軍」という短編で明治天皇大葬当日に夫妻で自決したというのを知りました。

池波作品は、いろいろな歴史を教えてくれます。

ちゅうすけさん

本題からズレてすみません。
池波さん関連ということで、お許しを。

投稿: 鬼平熱愛むらい | 2007.04.17 00:08

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