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2007.04.21

寛政重修諸家譜(17)

長谷川伊兵衛直系の最後の仁となった、6代目・権十郎宣尹(のぶただ)には、若干の疑点がある。

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その1.なぜ、歴代当主の名である伊兵衛を継がなかったか。
『寛政譜』に記されているのは、権太郎、修理、権十郎

その2.享保10年(1725)9月1日、11歳で将軍・吉宗に御目見しているが、なぜ、急いだか。

とりあえず、9代目・辰蔵宣義(のぶのり)が幕府へ上呈した[先祖書]を写してみる。

                  宣安総領
一、六代目  生 武蔵  長谷川権十郎宣尹
   右権十郎義
   享保十六年辛亥年(1731)四月六日 父伊兵衛宣安跡
   式賜 小普請入 永見新右衛門支配
   元文二丁巳年(1737)十月廿日 竹中因幡守支配之節
   西丸御書院番 水野河内守組え御番入被命

これには、幕臣の家督にとって必須事項である御目見の年月日が脱落しているのに、『寛政譜』にあるのは、気づいた編輯者が辰蔵宣義へ問い合わせて補ったのであろう。
もちろん [先祖書]辰蔵自身が筆をとって書いたとはおもえない。用人か代書人の手によっていよう。

[寛政譜(15)]に、権十郎宣尹の生年を、父・宣安が39歳の正徳5年(1715)とした。遅い継嗣の誕生である。
宣尹御目見のときは宣安は50歳。
推測だが、このときすでに、宣安の躰は長谷川家の家病にむしばまれつつあったのではなかろうか。

宣安の死は、それから5年とちょっとあとで、17歳になっていた宣尹への跡目裁可は、3ヶ月後。

[先祖書]にあって『寛政譜』では省かれている小普請入りだが、支配の永見新右衛門為位(ためたか)は、清康・広忠以来の家柄で、3050石。51歳で、上司としてはおおようで、すでに病気がちだった宣尹には申し分のないご仁。

永見為位は4年後に甲府勤番支配に転じ、後任の支配は竹中因幡守定矩(さだのり)と[先祖書]にあるが、『柳営補任』『寛政譜』周防守定矩。竹中一門に因幡守はみあたらない。斉藤道三以来の家柄。2230石。
小普請支配は享保20年(1735)、47歳。

権十郎宣尹西丸御書院番入りしたのは、23歳。46歳で番頭となっていた水野河内守忠富(ただよし)は、水野一門でも家柄は古いほう。5700石。
宣尹が休みやすみに勤めていた寛保3年(1743)閏4月15日には大番の頭へ転じた。

辰蔵宣義の上呈[先祖書]へ戻る。

延享二乙丑年九月 板倉筑後守組之節
病気ニ付願之通 閏十二月小普請入
竹中周防守支配ニ入 後快ニ付
延享四丁卯年 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命

家名・家禄を守るために、頑張っている姿が痛々しい。悲劇の人---といっておこう。
代打要員の平蔵宣雄御目見できない存在だったこともあったろう。
再奉職した延享4年(1747)といえば、4歳違いの従弟・平蔵宣雄が、のちの鬼平、鉄三郎を得た翌年で、宣尹は33歳。
翌年の正月10日には、小姓組番士のまま、歿。その数ヶ月前から病床に伏せていたろう。

屋敷は、祖・宣次(のりつぐ)以来の、赤坂築地中之町(港区赤坂6-11)

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(「ハセ川イ兵」とあるのがそう。547坪)

けっきょく、御目見をしていない宣雄は、養女の婿という形で跡目相続が許された。

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コメント

そういうことで「養女の婿」ということになるのですか、はじめて解りました。有難うございました。初歩的で恥ずかしいですが、「御目見」の受ける側の資格とか、幕府側の実施時期とかいろいろ勉強する必要があるわけですね。

投稿: パルシェの枯木 | 2007.04.21 21:39

>パルシェの枯木さん

『徳川実紀』の寛延元年(1748---この年、延享5年んが7月に改元)を調べてみました。

御目見は、将軍がらみなので、そんなに多くはありませんでした。
3月28日 9人
4月15日 2人
10月15日 4人

家督のほうは、
4月2日 14人(父の致仕)
4月3日 16人(父の死) 宣雄はこのとき
5月3日 10人(同上)
6月9日  8人(同上)
6月19日  1人
7月5日 10人(同上)
8月4日 12人(同上)
8月14日 14人(同上)
9月3日 12人(同上)
10月2日  9人(同上)
11月2日  4人(同上)
11月28日 39人(同上)
12月23日 11人(同上)

初見と家督の勘定があいません。
家督のほうは、若年寄の採決なので、毎月なんでしょうか。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.22 13:59

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