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2008年3月の記事

2008.03.31

〔初鹿野(はじかの)〕の音松

長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 20歳)が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)とともに、時の火盗改メ・本役で、長谷川一族の本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)の密偵もどきをつとめることになったのは、明和2年(1764)初夏である。

鬼平犯科帳』は、それから22年後、家督して平蔵を襲名した銕三郎は、最初は火盗改メ・助役(すけやく)、そして翌天明8年(1788)年初冬に本役(ほんやく 定役 じょうやくとも言う)についてからの物語である。

犯科帳』に登場してくる盗賊のうち、年齢的にみて、銕三郎の密偵もどき時代には、すでに一家をなしていた者をおもいだしてみた。
犯科帳』時代の年齢から23,4歳を差し引いてみる。さらに、江戸で活躍(?)したかどうかを推察する。
つまり、〔荒神こうじん)〕の助太郎篇の、2匹目の泥鰌(どじょう)すくいをやってみようというわけである。

たちまち、2人(正確には4人)をおもいついた。
舟形ふながた)〕の宗平と、そのお頭(かしら)だった〔初鹿野はじかの)〕の音松
蓑火( みのひ )〕の喜之助と、その配下だった〔大滝おおたき)〕の五郎蔵

それぞれにリンクを張っておいたから、クリックして、彼らの Who's Who の概要をお読みいただくと幸い。

先頭は、〔初鹿野〕の音松---この頭領については、池波さんはほとんど記述していないから、ヘッポコ書き手としては、手をつけやすい。
出身は、甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村。石高325.67余。
昭和10年(1935)の記録では、全戸228が本農業および自作農家で、半数が養蚕をやっていたというから、音松の生家もそんな中の貧農だったと推定する。次男か三男で、田畑は分けてもらえないから、江戸へ出稼ぎにきて、裏の道へ踏み込んだが、生来の明晰、器量によって盗賊一家のお頭(かしら)にのしあがった。

配下の〔舟形〕の宗平は、寛政元年(1789)に70歳を超えて、音松一味の盗人宿(ぬすっとやど)の一つ---目黒のそれを預かっていたというから、享保のはじめごろの出生とみて、音松は宗平よりも12,3歳若いとすると、享保30年前後の生まれで、明和2年には35歳の脂ののりはじめ。もちろん、この道の経験豊富な羽州出身の宗平が軍師格で指南していたのであろう。

銕三郎権七が〔初鹿野〕一味の探索にかかわるきっかけは、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助](2)にある。

鋭い読み手の方なら、あの日、銕三郎が、〔五鉄〕の息子・三次郎(さんじろう 15歳)にささやいたのを覚えておいでであろう。
(さぶ)どの。あとで手がすいたら、話があります」

銕三郎は、火盗改メの大伯父を助けて、密偵もどきをすることになったから、あやしい挙動の客がいたら、それとなく気をつけておいてほしい---と頼んておいたのである。

高杉銀平道場からの帰り道、銕三郎が〔五鉄〕をのぞくと、三次郎が裏の猫道へみちびき、〔ぐんしゃ〕という47,8の北の国のなまりのある男と、「〔初鹿野」と呼ばれている30代半ばの男ことを話した。
「〔初鹿野」には、甲州なまりがのこっているのが耳についた。店の板場にいる、甲州・石和(いさわ)出の男の話し方に似ている。

2人は、5日ほど前にしゃも鍋を注文し、いざ勘定という段に、「〔初鹿野」のが、小粒を3個、三次郎へ渡して、
「つりは取っときな」
といったのに、すかざず〔ぐんしゃ〕が、
「おっと、もったいねえ。きちんとつりをくれ」
といいなおし、渡したつりから文銭を数枚、あらためてくれたという。

翌日も食べにきて、2階が借りられるかと聞くから、案内すると、
「料理を---と言うまで、鍋は運ぶな。酒とつまみだけでいい」
小半刻(こはんとき 30分)ほどしてから、呼ばれたので鍋と火桶を持ってあがると、
広げていた図面をそそくさとしまったという。

銕三郎が言った。
どの。このお店では、そこまででよろしい。これ以上、ことをすすめると、〔五鉄〕とどのに迷惑がかかるかも知れない。あとは、一つだけ---店を出た2人がどっちの方角へ立ち去ったかだけみとどけておいてほしい」

長谷川さま。〔ぐんしゃ〕って、なんでしょう?」
「軍(いくさ)の軍(ぐん)に、者で、軍師のことでしょう」

〔五鉄〕の2階は3部屋あり、『鬼平犯科帳』で、東に面している奥の小部屋におまさが寄留していたことになっているが、このころは三次郎が起居しており、西側の2部屋は、来店客が希望すれば、使わせていた。

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(〔五鉄〕の2階見取り図 絵師:建築家・知久秀章)

【ちゅうすけ注】〔五鉄〕の1階の見取り図は、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)


 

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2008.03.30

於嘉根という名の女の子(その7)

もし、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時 のちの小説の鬼平)と、縁切りの尼寺へ入った阿記(あき 21歳=妊娠当時)のあいだに生まれた女児・於嘉根(おかね 宝暦14年 1764 1月に尼寺で誕生)が、長谷川家に引き取られるとおおもいになったとしたら、筆者の力が至らなかったことをお詫びしないといけない。

於嘉根の年齢からいって、長谷川家の養女ではありえないことは、2008年2月7日[ちゅうすけのひとり言]の(4)で気がついて、(たえ 銕三郎の実母)から生まれたかどうかは別として、実妹に間違いないことは明らかにしておいたつもりである。
どうぞ、上掲のリンクつきの印してげあるオレンジ色(4)をクリックして、史実をお確かめおきいただきたい。

『寛政重修諸家譜』にある銕三郎の妹は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳 をもうけた時は52,3歳)の隠し子・(その 文庫巻23[隠し子])なんかではない。もっとも、寛政7年(1795)前後に元下僕・久助(きゅうすけ 75歳)が鬼平(50歳)へ打ち明けた時のは30歳であったから、平蔵宣以の子という仮説もなりたたないわけではない。

そういうおもいが、筆者の頭の片隅にへばりついていて、ことあるごとに、実妹が平蔵宣以(のぶため)の子であるとすると、どういう経緯(ゆくたて)で妹として届けえたのであろうと空想にふけるわけである。

ここまで、銕三郎阿記の睦みあい、阿記の会話を記録していて、どう結末をつけるか---などと、空想した一つを、赤面しながら記してみると---。

春の某日---が訪問して旬日後。
芦ノ湖畔であそんでいた於嘉根が、何かにみとれて湖へ落ちる。阿記があわてて飛び込み、於嘉根をつかんで岸へ放りなげると、都合よく、男が受け取ってくれる。
しかし、そこは意外な深みで、水を吸い込んだ着物の重みで、阿記は溺死。
そのことを聞いたは、ふたたび芦ノ湯村へやってきて、於嘉根を貰いうける。
そのあと、は実家の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(千葉県山武市寺崎)へ引きこもり、半年後に於嘉根とともに南本所・二之橋通りの長谷川邸へ戻ってき、何食わぬ顔で幕府へ実子としてとどけた---といった筋書きを、まじめくさってかんがえるのである。

しかし、解決しなければ問題は別にある。
辰蔵の生年である。明和7年(1770)、銕三郎宣以が25歳の時の嫡子。
とすると、久栄(ひさえ 小説の妻女 大橋家のむすめ)との婚儀はその前年であったろう。銕三郎は24歳。
銕三郎が23歳の明和5年(1775)12月5日がお目見(めみえ)---これを済ましたことで、いつ、父・宣雄にもしものことがあっても、家督する権利を得たことになる。
久栄との婚儀の話は、この前後からおきていたろう。
阿記とのことがすっかり片づいていないと、婚儀にさしさわりがでる。

と、阿記を溺死が、現実味をおびてくる。

しかし、きょうからあと、銕三郎の婚儀成立までの3年間、色恋沙汰がないというのも、さびしい。書き手とすれば、銕三郎阿記を、もう一度、合褥(ごうじょく)させてやりたい。
銕三郎が23歳なら、阿記は26歳、芦ノ湯小町といわれた色香は、十分に残っていよう。
ただ、於嘉根が4歳だから、彼女の目を忍んでの同衾させるのは、工夫を要する。
秘画特有の、これみよがしの、しどけない大胆な姿技の引用もひかえることになろうか。

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(国芳『葉奈伊嘉多』([仮の逢う瀬]部分))

それとも、3年経って、髪も伸びてきているとすると、こっちの絵かなあ。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

なにをくだらないことに時間を浪費しているんだ---と自分が自分を叱る。

類推するなら、於嘉根が18歳ほどになった時の平蔵宣以との対面シーンではなかろうか。平蔵36歳の男ざかり。徒の頭(かしら 役高1000石)。分別十分。

於嘉根のイメージ。芦ノ湯村小町だった母親に似て、なかなかの美形。

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(英泉『玉の茎』)

それでは、あと16年、於嘉根のことには封印をしておこう。
銕三郎には、別のいい女との出会いを設定してやるか。

参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.03.29

於嘉根という名の女の子(その6)

「お髪(ぐし)は、どれほど、伸びましたか?」
(たえ 40歳 銕三郎の実母)が、於嘉根(おかね 2歳)を阿記(あき 23歳)に渡しながら、訊いた。
阿記は、頭に巻いていた水色の布ぎれを無造作に外した。
3寸(約10cm)ほど伸びた毛髪が直立しているようにあらわれた。
「尼寺では、山を去る半年前から頭を剃らなくてもよいきまりになっており、ちょうど9ヶ月で、これほどに---。髪が結えるようになるには、あと2年ばかりかかりましょう。その日が待ちどうしゅうございます。髪は、女の2番目のおしゃれどころでございますから---」

「お産は軽うこ゜ざいましたか?」
「いえ。初産(ういざん)でもあり、軽うはございませんでした。でも、銕(てつ)さまのお子を授かるのだと、懸命に力みました」
阿記が、頭へ布巻きながら、恥ずかしそうに答える。
「私が銕三郎を産みました時も、重いお産で、なんという親不孝な子だろうと---」
2人は、顔を見合わせて笑った。

「お産は、鎌倉の尼寺で?」
「はい。一度、得度(とくど)いたしますと、お産といえども、山を出ることは許されません」
「寺でお産みになる方も多いのですか?」
「少なくはございませんが、縁を切りたい男の人の子ではないのを、入山の前夜か2夜ほど前にもうけたというのは、私だけでございました」
「では、ずいぶんと責められましたか?」
「いいえ。山では、浮世のことは、一切、み仏にお預けして---ということでございましたから---」
銕三郎の不行きとどき、幾重にもお詫びいたします」
「とんでもございません。こんなかわいい子を授けてくださいました。感謝しております」
「そのようにお許しいただくと、肩の荷がおりたようで、ここまで訪ねてきた甲斐がありました。ところで---」

と、は、於嘉根の人別(戸籍)のことを訊く。
縁切り寺で生まれた子は、ふつうは、父(てて)なし子として、扇ヶ谷村支配の代官所江川太郎左衛門へ届けるのだが、阿記の場合は、箱根・畑村宿をとりしきっている、めうがや畑右衛門が手まわし、父・次右衛夫婦の子ということになった。
産褥(さんじょく)に臥せっている阿記の知らぬ間の、再婚のことをおもんぱかった処置という。

「ひどい話だと怒りましたが、於嘉根が手元にいさえすれば、そのことはどうでもいいとおもうようになりました」
阿記さんは、お若いのですから、この先、独り身というわけにもいかないでしょう?」
「この湯治宿は、いま、よその温泉場で見習いをしております兄が継ぎます。その兄が嫁をむかえた時には、私は、ここを出て行くつもりにしております。たつきのお金は、兄が仕送りしてくれるといってくれておりますから、仕立てものでもしながら、どこかで、於嘉根と暮らしていくことになりましょう」

阿記は、が、「うちへおいでなさい」と言ってくれるとは、つゆ考えてもいなかった。しかし、のつぎの言葉には、内心、むっとした。
阿記さま。於嘉根ちゃんは、わたしが産んだ子として、長谷川家でお引きとりしてもよろしいのですよ。阿記さまの再婚のために---」
「とんでもございません。さまのお子をつくろうと決めました時に、はっきり申しあげました。ご迷惑はおかけいたしませんと」

【参照】その夜のことは、2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし、その時はその時。再婚のお話がでた時は、また、別でございましょう?」
「お伺いいたします。いまのお話は、銕三郎さまのお気持ちでしょうか?」
「いえ。あれはまだお目見(めみえ)もすんでいない部屋住みの身ですから、なにも相談しておりません。私一人の考えたことです」
「わかりました。どうぞ、このお話は、なかったことにしていただきとうございます」

阿記は、銕三郎が、突然、遠い存在になったようで、軽いめまいをおぼえた。
で、
阿記さんのような嫁なら、私ともうまくやっていけそうな気もするのだが。於嘉根も父親の下で安らかに育つことであろう。ただ、阿記さんは、武家の嫁にしては美しすぎる)
おもっていたが、心を鬼にしていた。

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(歌麿 阿記のイメージ)

strong>於嘉根を、自分の子として幕府に届けけられるのは、この夏までがぎりぎり---とふんでいたのである。

【参照】2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.03.28

於嘉根という名の女の子(その5)

吾平(ごへえ)どん。先に〔めうが屋〕さんへ行って、まもなく、私が阿記(あき)どのを訪ねてきている、と申してきておくれでないか」
芦ノ湯村の手前の立場(たてば)で休んだ(たえ 40歳 銕三郎 てつさぶろう の実母)が、下僕の吾平(46歳)を先触れにゆかせ、供の女中・有羽(ゆう 31歳)から鏡を受け取り、髷(まげ)のほつれや白粉のはたはなおしをする。
それから、有羽の着付けのゆるみにも視線をくばった。
長谷川家のしつけのがしっかりしているところを、阿記(23歳)に見せるつもりなのである。

立場の老婆がだしたお茶をすすっていると、吾平のうしろから、かつて長谷川家で下僕をしていた藤六(とうろく 47歳)が駆けつけてきた。
「奥方さま。お久しぶりでございます。ようこそ、こんな雛へお越しくださいました」
「おお、藤六どん。そなたが阿記さまと於嘉根さまにお仕えしていてくれていることは、銕三郎から聞きました。いつまでも忠義のこころを忘れずにいてくれて、ありがたくおもっております」
「勝手をしました藤六をお許しくださったばかりか、おはげましのお言葉まで頂戴して、夢のようでございます。阿記さまがお待ちでございます。さ、どうぞ---」

〔めうが屋〕では、玄関で、於嘉根(かね 2歳)を抱いた阿記と亭主・次右衛門夫妻が待っていた。
阿記は、尼僧時代に剃髪した髪が伸びきらないらしく、淡い水色の布で頭をつつんでいた。
頭髪はまだ生えそろってないとはいえ、若い母親らしいゆとりのある阿記の美しさに、は、内心で、
銕三郎には、すぎたおなご---)
とおもった。
あいさつの交わしあいがすむと、有羽は、離れへ案内された。
脚絆などの旅装束を解いたは、有羽が差し出す、400石の幕臣の内室らしい裾を引く召し物に着替え、阿記を待った。

阿記が、お茶を捧げて、入ってきた。
の前に茶托(ちゃたく)をすすめ、
「このような山奥までのお運びで、さぞ、お疲れになられましたことでございましょうが、阿記は、このうえなく、うれしゅうございます。、湯で、ごゆっくりと、お疲れをおいやしくださいませ」
折り目正しい、口上に、またも妙は、内心、
銕三郎には、すぎたおなご---)

阿記さま。その節は銕三郎がすっかりお世話になりましたようで、お礼を申しあげます。これは、ほんの気持ちだけのものですが、お嬢さまの節句にでも着せてあげてくださいませ」
尾張町の呉服舗〔布袋(ほてい)屋〕であつらえた、女の幼児の着物である。

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(尾張町の呉服太物[布袋屋] 『江戸買物独案内』
川柳に「尾張町通りすぎると静かなり」 京弁の呼び込み)

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([尾張町角に恵比寿屋、布袋屋、亀屋があったので、川柳は、
「尾張町めでたきものでおっぷさぎ」)

「まあ、お祖母(ばあ)さまからの頂戴もの。於嘉根が大喜びでございます」
平塚の太物舗〔越中屋〕の若女将だった阿記は、有名店〔布袋屋〕の名は知っている。

「私が、於嘉根さまのお祖母でございますか?」
「お祖母さまのお許しもなく、お嘉根をつくりまして、申しわけございませんでした。幾重にもお詫びいたします。でも、阿記は、なんとしても、銕三郎さまのお子をもうけたかったのでございます。悔しいのは、男の子でなく、女の子だったことですが、いとおしさには変わりございません」
「可愛い孫むすめを、このお祖母(ばば)にも抱かせてくださいますか?」

いそいそと母屋へもどっていく阿記のうしろを、有羽が〔めうが屋」への土産物を携えてしたがう。 
しかし、阿記於嘉根を抱いてふたたび離れへやってきた時には、有羽の姿はなかった。さりげなく、席をはずしたのである。

「おお。於嘉根ちゃん。私が、銕三郎の母ですよ」
は、あやしながら、於嘉根の顔から、20年前に抱いていた赤子---銕三郎の面影を探している。
於嘉根への呼びかけに、阿記が目をうるませたようだ。
於嘉根は母親似で、もし、長谷川屋敷で育てば、〔本所小町〕は間違いないとおもったが、ちょっぴり落胆したことも事実であったと言いそえておく。

「で、阿記さま。嘉根という名づけは---?」
さまにお諮(はか)りもせずにつけまして、申し訳ございません。さまの金偏(かねへん)をいただきました」
(そういえば、阿記の前夫の名は幸太郎、屋号は〔越中屋〕---どこにも嘉根の名にかかわるところはない)
於嘉根の根は、さまと知り合い、結ばれたのが箱根権現さまのお引きあわせとおもい、箱根の「根」をいただました」
於嘉根ちゃん、あなたは箱根権現さまのおさずかりものだそうですよ。後光がさしていますよ」
は、拝むふりをして、阿記を笑わせた。
は、こんなに躰の奥からなごんだ気分になったのは何年ぶりであろうかと考え、赤ん坊の銕三郎を抱いていた以来だから、20年ぶりに近いと気づき、はっとした。
その時---なぜか、於嘉根が小さな手をのばしての顔にさわり、
「おばば」
と言って微笑んだのである。
それで、はすべてを了解し、ほとんどを許してしまっていた。
許せなかったのはただ一点---銕三郎が、阿記母子のことを、この時まで妙に話していなかったこと。

参考銕三郎阿記との出会いとなれそめ 
2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)

2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4)

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2008.03.27

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(10)

長谷川さま。須賀(すが 27歳)の奴が、面白いことをおもいだしやしたんで、お耳へ入れとこうと思いやして---」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳 元・箱根山道の雲助の頭格)が、訪ねてきて勝手口へまわされたことにも不服げな顔をしないで、話しかけた。
「お待ちなさい。拙の部屋で聞きましょう。内玄関へまわってください。拙が上がり口でお待ちしています」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)がさえぎった。

武家の屋敷の式台のある表玄関は、めったな者でないと通されない。
銕三郎のような家族でも、公式の出入りのほかは、脇の内玄関をつかう。

部屋へ落ちつくと、
須賀がいいますには、どでかい腹をして箱根の関所抜けをした助太郎じじいの情婦(スケ)---あ、すみません、下じもの言葉づかいで---」
「いつだって、どこでだって、かまいません。権七どの言葉でお話しくださればいいのです。前にも申しましたが、われわれが相手にしているのは、盗賊や博徒です。彼らのしっぽをつかむには、権七どののふだんの言葉でなくてはなりません」

〔五鉄〕から帰った夜の権七---。
店の表の行灯の灯を落としてから、客たちが使ったぐい呑みや皿などを洗い場の水桶にぶちこみ、須賀と向きあって寝酒を飲みながら、京なまりのある助太郎の情婦は、上方から三島辺へ流れてきた女ではないかと、銕三郎が推理したと言うと、
「幾つぐらいの妓(こ)?」
「大年増の、26,7前後とみたが--」
「京言葉も遣(つか)える26,7歳ねえ---あ、あの妓(こ)じゃ、ないかな」
「あの妓(こ)じゃ、通じねえぜ」

権七の情婦(いろ)になる前の須賀が座敷女中をしていた本陣・〔樋口伝左衛門方と向いあって、次の格をもつ本陣・〔世古郷四郎方に、2年ほど前、京そだちというふれこみで女中に雇われた賀茂(かも)という、自称22歳---けれども、どう見ても26,7の大年増としかおもえない、顔はそれなりに整っているのだが、手足に脂肪がついていない妓(こ)がいた。

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(東海道をはさんで、赤○=本陣〔樋口〕 青〇=本陣〔世古〕
三島市観光協会のパンフレットより)

_150同輩の女中たちがいうには、賀茂には本陣の女中にはそぐわない2つの癖があったと。
その一つは、酒好き。本陣は、大名一行の早発(だ)ち(七ッ=4時か七ッ半=5時)にあわせて、女中たちを、夜の四ッ半(9時)には仕事から解く。
賀茂は、それから女中部屋をよく脱けだして、呑み屋で独り酒をする。
酔っぱらった男たちが酒を手に言い寄るが、まったく無視するので、「あれは女男(おんなおとこ)」とのうわさされていた。つまり、女同士で睦みごとをする者というわけ。
じじつ、〔世古〕の女中で、立ち姿のいいのが、賀茂から誘われて、気色(きしょく)悪がられていたという。
「立ち姿がいいっていやあ、須賀もなかなかのものだが、目をつけられなかったのか?」
「趣味が合わなかったんでしょ」
「趣味か。おれなんざぁ、須賀にぞっこんだったが---」
「なに、言ってんの。力ずくでものにしたくせに---。いまは、お前さんの話じゃないでしょ。賀茂さんでしょ」

1年ほど前、賀茂が〔世古〕の女中部屋から、ふぃっと消えた。
その少し前から、男ぎらいでとおっていた呑み屋で、40代半ばかとおもわれる色のあさぐろい、躰がひきしまった、宗匠頭巾の男と、親しげに差しつ差されつしている賀茂が見られている。
こっぴどく肘鉄(ひじてつ)をくらった腹いせもあって、呑み客たちの口は容赦がない。
「女男なんだから、相手がばばあというのなら分かるが、じじいというのは合点がいかねえな」

「あたしたちが三島を離れる1ヶ月ほど前に、三島宿(しゅく)の北、神川(かんがわ)脇の賀茂社の御手洗(みたらし)場で、新造ふうにいいへべを着た賀茂さんが、げえげえ、罰(ばち)あたりな所作をやっているのを見たって聞いたんですよ。その時には、呑みすぎって思ったけど、お前さんの話だと、悪阻(つわり)だったのかもね」

「---というわけでやんして」
権七どの。大手柄です。須賀どのにもご褒美がでるように、本家の大伯父(長谷川太郎兵衛正直 まさなお 57歳 火盗改メ・お頭)に頼みましょう。しかし、これからがむずかしい。賀茂社の近くに、助太郎の盗人宿(ぬすっとやど)があるにちがいないでしょうが、うっかり踏みんで、せっかくの手がかりをつぶしてしまうより、その家を見張っておいて、次の手がかりをたぐるのが良策なのですが---」
仙次の奴にやらせやしょう」
「それでは、張り込みの仕方、尾行(つ)ける時のこころえなどを、今日のうちに書いておきますが、仙次どのは字が読めましたか?」
「仮名ぐらいは、手習所(てならいどころ)でおぼえているとおもいやすが---」
「こうしましょう。本陣・〔樋口伝左衛門方のお芙沙(ふさ 30歳 女主人)どのに読んでもらったり、入用(いりよう)の金も立て替えてもらうように、文をやりましょう」
「ほう。長谷川さまは、〔樋口〕に、ごっつく信用があるんでやすね」
「父上の信用です」
銕三郎は、内心の赤面を隠しながら言った。
しばらく忘れていた、14歳の夜の睦ごとが頭をかすめ、股間に血があつまりはじめた。

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(歌麿『若後家の睦』部分)

(いかぬ。阿記(あき 23歳 於嘉根の母)にすまない)

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(歌麿『歌まくら』 芦ノ湯小町といわれた阿記のイメージ)

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(歌麿『化粧美人』 阿記のイメージ)

権七どの。その盗人宿は、いまごろは、もう、空き家でしょうが、訪ねてくる者を尾行(つ)けることになりそうですから、長丁場になるとみておかねばならないでしょう。仙次どのの日当も、教えておいてください。太郎兵衛大伯父(火盗改メ・お頭)にねだりますから」

参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.03.26

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(9)

「ありえやす。小田原への入り女の吟味は手軽でやすが、三島宿(しゅく)の側へ抜ける、出女に対する人見女の吟味は、ちらとでも怪しいと感じたら、それこそ、結(ゆ)い上げている髷(まげ)をばらばにほどいて、1本ずつ調べるそうです」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、箱根路の荷運びという商売柄、関所の改めには、裏の裏まで通じている。

「その孕み婦(おんな)だが、道中手形には、腹にややが入っていると書かれていたとおもうが、何ヶ月目とまで書くのかな?」
女のことには純情な岸井左馬之助(20歳)らしい疑問である。
「そりぁ、書きやすでしょう。そうか、3月目と書かれているのに、10日もしないうちに、臨月近くにまでふくれていやしたんだと、人見女は、素裸にしてでも吟味しやすな。それを恐れた3人組は、関所の裏道を抜けようと計りおった---」

そういう詮議は2人にまかせて、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの火盗改メ)は別のことの推察にひたっていた。

盗人・〔荒神(こうじん)〕の助太郎(45,6歳)の情婦が、仮に妊婦だったとして、腹に小判を巻いて裏道を抜けた。
金は躰を冷やすというが、腹の中の子に悪いことは及ばなかったであろうか。わずか1日のことでも、海につかったばかりに、子が流れてしまったという話を聞いたような気がする。

つづいて、阿記(あき 23歳)と、自分の子にちがいない1歳3ヶ月の幼児を想像した。

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(歌麿 [針仕事]部分)

(尼寺では、腹のややに障るようなことはなかったであろうか?)
耳に、幼児の「きゃっきゃっ」という笑い声が聞こえたように思えた。

煮えあがったしゃも鍋から、しゃもの身を小鉢にとりながら、左馬之助が言う。
つぁん。何百両巻きつければ、臨月近いでか腹になるかな?」
左馬さんは、純情でけっこうだな」

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「馬鹿いうな。これでも、密偵になった---」
「しー」
「---おぬしたちの手伝いをしておるつもりだ。なにも、刀技(かたなわざ)だけがわしの得手ではない」
「わかったから、しばらく、放っておいてくれ。いま、考えごとをしているのだ」
「考えごととは、どんな?」

権七どの。あの者たちは、荷を権七どのに持たしたと---」
「へえ。山道はつらいから、といいやして、すっかり---」
「それだ」
「えっ?」
「わざとそうして、小判を運んではいないふうを装ったのです」

「なぜ?」
権七どのに証言させるために---」
「するってえと---?」
「そうです。投げ文をしたのも、あの者たちでしょう。権七どのを調べさせるために」
「なんとも、憎い奴らで。しかし、投げ文は、江戸口門の目安箱に---」
「金をつかませれば、やる旅人はいくらでもおりましょう」

権七どの。あの者たちと別れたところは?」
「関所を抜ければというので、三島宿の手前の、けもの道が箱根山道に近づく、馬坂社の境内で別れて、あっしは、お須賀の店へ泊まりやした」

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(懐中「東海道中道しるべ」 三島口 緑○=馬坂社あたり)

「時刻は?」
「孕み婦(おんな)の足が遅えもので、7ッ(午後4時)をまわっておりやした」
「2月の7ッだと、もう、日が落ちかかっていますね」
「へえ」
「その者たちは、三島宿(しゅく)の旅籠(はたご)には入っておりませぬ。身重女が一晩で並み腹になったのでは疑われます。三島宿のどこかに盗人宿(ぬすっとやど)を置いていたのでしょう」
「するってえと、駿州・志太郡(しだこおり)花倉郷というのは?」
「目くらまし、です」
「ぬけぬけと、ようもようも、この権七さんを嵌めやがったな」

「どんなに悪賢い者でも、手ぬかりの一つや二つはあるはずです。悪者との知恵くらべと言ったのは、このことです」
「わしには、手におえぬわ」
左馬之助がはやばやと降りた。
左馬は、純情と剣技がとりえなのです」

「手ぬかり---といいますと?」
責任を感じた権七が、何かの手がかりを思いだそうとして、訊いた。

銕三郎の言ったのは、小判を腹に巻いて、身重婦(みおも おんな)に見せかけるという思いつきは、ふつうには出てこない。
その情婦は、道中手形に書かれていたとおり、じっさいに孕んでいたのであろう。

ちゅうすけ付言】その婦(おんな)の腹のややは、のちに2代目荒神(こうじん)〕のお夏として文庫巻23長編[炎の色]に池波さんが登場させ、未完の長編[誘拐]おまさをかどわかさせた女賊であろう。

腹に子を宿した者が、長く歩いたり駕籠にゆられたりするものではない。
住まいは三島か、その近在。
そこで、ややが安定する、腹帯の時期の道中手形を書いた庄屋なり寺なりを、三島宿の代官所で調べさせれば、容易に女の素性が割れるはず。
京なまりがあったということは、生まれがそうで、なにかのことで下ってきて、三島あたりに住みついていて、助太郎の情婦になったとおもえる。
ねらい目の一番は、旅籠の女中か飯盛り女であろう。

「とりあえず、おもいつくのは、このあたり」
「さすがでやす、長谷川さま」
「いや。助太郎たちは捕まるまい。いまごろは、上方のどこかで、のうのと暮らしていよう」

参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.03.25

盟友・岸井左馬之助(その2)

(てつ)っあん。きょうは、稽古をさぼったな」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)を紹介し終わると、すぐに岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)がなじった。

「うん。旅立ちの母上を永代橋西詰まで見送ったあと、権七どのと、いま話した火盗改メの密偵のことで、番町まで行っていたのでな」
「お母上が旅立ちとは---上総(かずさ 千葉県)へのお里帰りなら、永代橋は方角ちがいだな。して、いず゛こへの旅だ?」
「方角ちがいだということが、左馬さんにしては、よく気がついたな」
「それぐらいのこととは、おれにだって推察がつくさ。で、いずこへ? いや、何日間の旅だ?」
「ははは。権七どの。お聞きのとおりです、左馬が気にしているのは、母上が留守だと、訪ねてきても、ご馳走にありつけないからなのですよ。左馬ときたら、家庭料理に飢えているのです」

「あたりまえだ。この寺で出してくれるのは精進料理ばかりだ。育ちざかりの若い者には、ちと、ものたりぬ。どうだ、精をつけるために、これから、ニッ目之橋詰の〔五鉄〕へ行って、しゃも鍋でも囲まないか?」
「いいな。あそこなら、付けがきく。権七どの。しゃも鍋をやったことがありますか?」
「いえ。鳥鍋なら---」
「たいして変わらないが、まあ、しゃものほうが肉がしまっていて、脂がのっておりますかな。ま、ものは試しです。職就(しょくつ)きの祝いといきましょう」

〔五鉄〕の暖簾をくぐると、出汁(だし)の煮える匂いが鼻をつく。
銕三郎は、亭主・伝兵衛(40歳)へ目で合図をして、入れ込みにあがった。

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(〔五鉄〕1階の見取り図 絵師:建築家・知久秀章)

まるで待っていたように、息子・三次郎(15歳)が、燗酒の入ったちろりとつき出しを左馬之助権七のあいだに、銕三郎の前にはお茶を置いた。
(さぶ)どの。覚えてくれたね。こちらは、〔風速〕の権七どのだ」
「箱根の雲助の権七といいます。こんごとも、よろしゅうに」
三次郎が尊敬のまなざしで権七をみつめる。
「雲助だなんて卑下なさっているが、あのあたりではお頭(かしら)で通っていたお方です」
長谷川さま。売りこみが過ぎまさぁ」

つき出しのしゃもの肝の醤油炒めを口にした権七が、歎声をあげた。
「こいつぁ、たまらなくうめえや。酒がすすみそうだ」
三次郎がうれしそうに、も一つ、酌をして引き下がる。
そのきわに、銕三郎がささやいた。
どの。あとで手がすいたら、話があります」

左馬之助権七へ解説したところによると、両国橋東詰には鶏市場があるため、元町から回向院の門前町へかけて、鳥鍋屋やしゃも鍋屋が多いのだと。中でも〔五鉄〕は、亭主の伝兵衛が出汁にする味噌の配合に工夫を凝らしているので、このあたりではもっとも美味と。
「ところで、権七どの。さきほどお聞きした、関所抜けの3人組のことですが、どういう経緯(ゆくたて)で、話しが持ちこまれたのですか?」
銕三郎が、声をひそめて訊く。
「へえ。仙次の奴が---」
仙次というのは、薬舗〔ういろう〕の猫道を調べてくださった若い衆ですね?」

ちゅうすけ注】仙次のことは、2008年1月30日[与誌を迎えに] (38) 

「あいつでやす。賭場でってのに声をかけられたんだそうで---。それで、話しをつないできて---」
仙次どのが箱根山路の荷運び人だということは、賭場ではみんな知っていたんですね」
「へえ」

興味津々とぃった感じで耳をそば立てていた左馬が、口をはさむ。
「賭場は、小田原城下かな?」
「おや。左馬さんは、小田原の城下町がわかるの?」
「10日ばかり滞在したことがあってな」

ゆっくりした口調で枝道にそれがちの左馬之助の話を手っとり早くまとめると、彼が高杉道場に入門した2年目---すなわち一昨年の宝暦13年(1963)夏、小田原から修行に来ていた稽古仲間の鳥飼喜十郎の父親が危篤ということで、道場を引きつぐために帰郷するにあたり、高杉先生の見舞金をことずかって、いっしょに旅をし、葬儀までつきあったのだという。

ちゅうすけ注】剣友・鳥飼喜十郎のことは、28年後の物語---『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い右衛門]に書かれている。
鳥飼道場は唐人町の近くの宝安寺の脇にあった。

「唐人町という町名が珍しかったので覚えておる」
権七が受けて、
「賭場は、宝安寺から1丁ほど東にあたる観音堂の庫裡だったそうです」
「その観音堂は、知らんな」
左馬さんは知らなくてもいい。それで、権七どのがその3人組を、裏道から関所抜けさせたことが、なぜ、小田原藩に洩れたのですか? まさか、仙次どのが?」
「いえ。投げ文があったそうで---」
「投げ文?」

そのとき、店の小女が火桶としゃも鍋をしつらえにきたので、話しは中断された。

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(「五鉄」のしゃも鍋の材料)

たがいに酌をしあう。
お茶を先に干した銕三郎も、ぐい呑みに受けた。2年前、芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れでは、唇をしめらす程度だったのにくらべると、これでも手があがったほうである。

「関所抜けの前の数日のあいだに、城下で盗人に入られたという店はありませんでしたか?」
「聞いてはおりやせん---」
「おかしいな」
「なにがです?」
「まさか---?」
「まさか---?」
「2年前の、薬舗〔ういろう〕で盗んだ金を運びだしたとも---」
「いえ。あの連中の荷は、あっしが担ぎましたが、何百両もの金が入っている重さではありやせんでした」
「駿府ご城代からの首尾を待つしかありませんが、どうも、身重の女というのが気になります」
左馬之助が察した。
「そうか。ややと見せかけて、小判で腹をふくらませたか!」
左馬。声が大きすぎる!」

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2008.03.24

盟友・岸井左馬之助

「お引き合わせいたしておきたい人がいます」
火盗改メの役宅にもなっている長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)の一番町新道の屋敷を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が言った。
火盗改メの密偵として認可されたばかりの〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち 33歳)は、急に格式ばった口調で、
「よろしゅうございますとも」

「権七どのに、その口調は似合いませぬ。これからは、無法者が相手です。これまでどおりの伝法口調でやってください」
「それを聞いて、おおきに安心でさあ。で、そのお人というのは?」
「ちょっと、歩きます。押上(おしあげ)村の春慶寺に止宿しているのです」
「押上のほうには、足をのばしたことはありぁしませんが、深川からどれほどです?」
「両国橋東詰から25丁といったところでしょうか。柳橋から舟をつかいましょう」
「冗談でしょう。あっしは、箱根の雲助でさあ。5里(20km)や6里(24km)は歩いたうちにはいりませんぜ。しかも江戸の東側は、ほとんど埋立地らしくって、平べったい」

銕三郎は、鉄砲洲湊町から南本所ニ之橋通りの今の屋敷へ越してから、学問のほうは五間堀ぞい・北森下町の学而塾、剣は南本所・出村町の高杉銀平道場(現・墨田区太平2丁目)へ転じた。

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(池波さんが愛用していた近江屋板・本所、猿江、亀戸村辺絵図。
赤○南出村町=高杉道場、緑○春慶寺、青〇法性寺妙見堂)

高杉道場にしたのは、父・宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手組頭)のすすめによる。
前の住まいの時には、南八丁堀の一刀流・横田多次郎道場だったので、同じ一刀流ということで、宣雄が面識のある小姓組番士・小野次郎右衛門忠喜(ただよし 31歳 800石)に訊いて、高杉銀平(ぎんぺい 52歳)の名が出た。
「無名に近い剣士ですが、それがしと試合ったとして、3本に2本は高杉うじにとられましょう。それよりなにより、人品が高潔なのがよろしいかと」
小野次郎右衛門忠喜は、それから11年後に、銕三郎(その時は家督していて平蔵宣以 のぶため)が先手・弓の2番手の組頭に栄進すると、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に先任していたという因縁もある。
小野派一刀流の家元であることはいうまでもない。

もっとも、小野次郎右衛門が「3本の2本は高杉うじにとられる」と言っていたと銕三郎が伝えると、高杉師は苦笑して、
「小野どのは、私に花をお持たせになっても、将軍家の前での剣技ご披露の晴れの行事が沙汰止みになるわけでもなし---」と取り合わなかった。

そういう経緯(ゆくたて)で、銕三郎が入門してみると、同年齢の左馬之助がいた。
左馬之助は、下総国印旛郡(いんばこおり)臼井村の郷士の息子で、高杉師が同郷の出生なので、17歳の時から春慶寺に止宿しながら、道場に通っていた。
岸井家は郷士であるとともに、臼井宿の庄屋でもあり、印旛沼から諸川に通じた積荷船問屋も兼ね、格式も高かった。
左馬が、金銭的に不自由なく日蓮宗の春慶寺(墨田区業平2の14)に寄宿し、剣の道に専念できたのは、裕福な実家からの送金が十分だったからである。

ちゅうすけ注】岸井左馬之助につていは (1) (2)

背丈は左馬のほうが3寸(9cm)ほど高かったが、剣の腕がどっこいどっこいにできたのと、同年ということもあって、「」「左馬」と呼び合うほど気があい、たちまち、盟友となった。
盟友というのは、遊び仲間という意味である。

とりわけ、道場の隣の桜屋敷・田坂家の孫むすめのふさ(18歳=当時)のことで、銕三郎はいつも左馬をひやかしていた。

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(『江戸名所図会』 押上・法恩寺 高杉道場の出村町=左端)
上の切絵図の青〇 塗り絵師=ちゅうすけ)

_220『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所桜屋敷]に書かれているように、なにかの用で「まるでむきたての茹玉子のようや---」ふさが道場を訪れててくると、左馬は緊張してこちこちになってしまうのである。

その点、銕三郎のほうは、14歳の時に、三島宿(みしましゅく)で若後家の芙沙(ふさ 25歳=当時 歌麿の絵は芙沙の入浴図)によって、はやばやと、初体験をすませた。
さらに2年前には、まだ人妻だった阿記(あき 21歳=当時)とまるで蜜月の旅のような旬日をすごした。
だから、女を見る目もすこしは肥えて、ものほしげなところは卒業し、ふさの若い躰にも、まだ目をさましていない女性(にょしょう)が潜んでいることを察していた。

ちゅうすけ注】桜屋敷の孫むすめのふさと、三島宿の本陣・〔樋口伝左衛門の隠し子の名が芙沙というのとは、まったくの偶然である。
いま、こうして並べて書いて、同じ名前の女はいくらもいるとはいい条、筆者・ちゅうすけ自身が呆然としている。
正直言って、いまのいままで気づかなかった。
そういえば、臼井は佐倉(さくら)藩領。道場の隣が〔桜(さくら)屋敷〕---これも偶然にしてはできすぎているような。
いや、こちらは単なる偶然であろう。
しかし、岸井左馬之助高杉銀平師がともに臼井の出というばかりか、おまさの父親・〔(たずがね)〕の忠助までもが佐倉在の生まれというからには、池波さんと佐倉には、何か、因縁がありそうだ。

春慶寺は、本所の切絵図には寺号が記されているいるが、『江戸名所図会』には説明がない。
親寺は、『名所図会』に挿絵まで描かれた柳島の星降(ほしくだりの)松で知られる法性寺(妙見堂)。

Photo
(柳島・法性寺妙見堂 左手が星降(ほしくだり)松
『江戸名所図会』 塗り絵師=ちゅうすけ)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[唖の十蔵]で〔小川や梅吉と〔小房〕の粂八の捕り物が行わるのは、上の近江屋板切絵図の青〇法性寺(妙見堂)門前。
小房(こぶさ)〕の粂八

その支配を受け、身の丈6寸(18cm)ほどの普賢(ふけん)菩薩像が江戸期から有名であった。境内も数1000坪前後あったらしい。

Photo_2
(春慶寺の秘仏=普賢菩薩像)

以上のようなくさぐさを、道中、銕三郎は、権七に語って聞かせた。
「2人は盟友ですから、拙がいない時の刀技(かたなわざ)は、左馬に頼めばよろしいのです」

銕三郎は、権七をうながして、どんどん山門をくぐり、裏の庫裡(こり)の離れへ声をかける。
左馬。いるか!」


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2008.03.23

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(8)

母・(たえ 40歳)は、あたふたと旅支度をととのえ、女中・有羽(ゆう 31歳)と下僕・吾平(ごへえ 46歳)をお供に、箱根・芦ノ湯村へ発った。
「拙がお供をせずとも、大丈夫ですか? 母上」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)の問いかけに、
「寺崎への往復の距離です、なんということはない。銕三郎がいては、阿記さんの本音が聞けませぬ」
まるで、夫・宣雄(のぶお 47歳 先手組頭)の及ばないことに解決の手がかりをつかむのが、楽しくてたまらないといった意気込みである。
父の陰に寄り添っているようにしていたこれまでの母の、別の顔を見たようで、銕三郎は、女というものの不思議さを、また発見したのであった。

ちゅうすけ注】上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村には、長谷川家の知行のうち220余石分があり、の実家は同村の村長(むらおさ)の戸村家

永代橋の西詰まで見送り、早すぎるとはおもったが、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)の女がやっている呑み屋〔須賀〕の戸をたたいた。

寝着姿の権七が、
「だれかと思えば、長谷川さま。いったい?」
母を川向うまで見送ったところだと聞いて、
「芦ノ湯村へ?」
「そうなのです。阿記(あき 23歳)どののこころの内を聞くのだ---と」
「お話しになっちまったんですかい?」
「子どものことを、放っておくわけにはまいりません」
「わざわざ、波風を立てることもないとおもいやすがねえ。まあ、ことが始まったんじゃ、しょうがない」

昨夜の片づけができていない客台に腰を落ちつける。
権七どの。昼間は躰が空いていますか?」
「いまのところは、昼間も夜も空いてまさあ」
「空いている躰を、大伯父のために、お借りできますか?」

銕三郎は、火盗改メの本役に任についている、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭)の名を出した。
「密偵?」
「怪しいと見た者の素性を調べたり、開かれている賭場をつきとめたり---です。手当ては、とりあえずは少ないでしょうが、手柄を立てれば、褒美もでるとおもいます」

長谷川さまのお言葉ですが、人を売るってのは、どうですかねえ」
「売る---とおもわないで、悪者との知恵くらべだと思えば---」
「なるほど---」
「父上は、先手の組頭に就かれました。この先、いずれは火盗改メを命じられましょう。その時のために、手口を集めておきたいのです」
「わかりました。お手伝いいたします。しかし、命がけの仕事になりますぜ」
「そのつもりです」

午後、2人は一番町新道の屋敷で、太郎兵衛正直に密偵のことを申し出た。
「報酬は少ないが、やってくれると助かる」
そう言った太郎兵衛に、
「お頭(かしら)さまにお願いがございます。、あっしが箱根でやりましたご定法破りを、この密偵仕事で帳消しにしていただきとうございます」

権七の定法破りとは、関所抜けだった。まとまった金で、女づれの2人の男たちを、箱根のけもの道を案内して三島へ抜けさせたのが露見したのだという。

「いや、長谷川の若さまもご存じの、関所の小頭・打田内記(ないき)さまや添役(そえやく)・伊谷彦右衛門さまのお顔をつぶしてしまいやした。これを帳消しにお願いいたしとうございます」
そのかわり、3人の名前と潜み場所を密告(さ)すと---。

「金主(きんしゅ)は助太郎といい、年配で細身の、そう、45,6と見ました。女はその情婦らしく、身重のようでやした。もう一人の男は、と呼ばれておりやした」
権七どの。26,7の男のほうは彦次と申しませんでしたか? それなら、女はその彦次の連れ合い---」
「いえ。いつも、とのみ---それから、女は年配の男の若い情婦に間違いございませなんだ。長谷川さま、おこころあたりでも---?」
「その一味ですよ。小田原の薬種屋〔ういろう〕で盗みを働いたのは---。呼び名は〔荒神〕の助太郎---。京都の荒神口で太物屋をやっていた男です」
「そういえば、女には京なまりがありやした」

【参考】〔荒神〕の助太郎のことは、2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)
2008年1月25日~[〔荒神〕の助太郎] (5) (6) (7) 

銕三郎は、2年前、本多采女紀品(のりただ)が火盗改メの時に、〔荒神屋〕の助太郎のことを告げ、京都所司代・阿部伊予守正右(まさすけ 39歳=当時 備後・福山藩主 10万石)に手配を頼んだが、京都東町奉行所が御所の東の荒神口の〔荒神屋〕へ踏み込んでみると、もぬけの空だった1件を、大伯父・太郎兵衛正直に告げた。

「して、その3人の者たちのひそみ場所というのは---あ、待て。与力の高遠(たかとう)弥太夫を呼ぶ」
太郎兵衛正直は、高遠与力(46歳 200石)が現われると、権七をうながした。
「駿州・志太郡(しだこおり)花倉郷と申しておりやした」

ちゅうすけのつぶやき】「駿州・志太郡(しだこおり)花倉郷は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い庄右衛門]で、心の臓をわずらった庄右衛門が若い妾のおと最初に隠れた下(しも)ノ郷の西隣の集落である。
ついでにいうと、長谷川家の祖先で、黒石川の下流・志太郡小川(こがわ)の豪族・法永長者長谷川正重 まさしげ)が伊勢新九郎(のちの北条早雲)を援けて、その縁者・北川殿の産んだ今川義忠の嫡子・竜王丸を匿ったのが花倉城と。

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(駿州・志太郡 赤○=小川 青丸=花倉)

太郎兵衛正直高遠与力に、駿府城代・花房近江守職朝(もととも 50歳 6220石)への依頼と、小田原藩・箱根関所の長役(おさやく)への、権七の赦免状を命じた。

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2008.03.22

於嘉根という名の女の子(その4)

「殿さま。なにか不調法でも---?」
(たえ 40歳)は、夫・宣雄(のぶお 47歳)の怒声を久しく耳にしていなかったので、急ぎ足で部屋へ入ってきた。

妻の顔を見て、平蔵宣雄は、いつもの冷静さを取りもどしたといえる。
「いや。大事ない。そうだ、もここへ座って、(てつ)がしでかした不始末をどう結末つけるか、いっしょに考えくれ」
「不始末とは?」
「赤子だ」

「父上。1歳と3ヶ月の子です」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、むきになって正した。

事態が呑みこめなくて首をかしげている母・に、銕三郎が2年前の阿記(あき 当時=21歳)との成り行きを説明する。

【参考】阿記とのなれそめ 2008年1月1日[与詩を迎えに] (12) (13) (14)

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(北斎『させもが露』)

「まあ。おめでたい話ではございませんか。でも、男のお子でしたら、もっとよろしかったのに---」
。じつのところ、の子なのか、前の夫の種なのか、まだ、決まってはいないのだ」
「いいえ。鉄三郎の子に決まっております」
「どうして、わかるのだ」
「殿さま。ご自分の時のことをお考えになってごらんなさいませ。殿さまと私とは、婚儀もあげていないのに、銕三郎をつくりました。私が、ややができました、銕三郎を孕みました、とお告げしました時、殿さまは、別の殿ごの種だとお思いになりましたか?」
には、ほかに男がいなかったではないか」

「それでは申しあげます。その阿記さんというお方が、銕三郎の子だとおっしゃったら、お信じになりますか?」
「それは---」
「女には、子どもがお腹に宿った瞬間の時のことが、ふしぎと感じとれるのでございます」

ちゅうすけ注】阿記銕三郎の子が着床したと想像できる夜 2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし---」
「いいえ。私が、阿記さんに会って、お話を聞いてまいります。阿記さんが、銕三郎がその子の父親だとおっしゃってから、あとの手だてを考えても、遅くはないのでございませんか。お子は、もう生まれてしまっているのですから」
「うーむ」

「しかし、母上。あとの手だて---と申しましても、阿記どのからは、何も申してきてはいないのです。箱根で荷運びをしていた者から聞いただけなのです」
「お黙りなさい、銕三郎ッ。あなたは、なぜ、阿記さんは、お子が宿ったこと、無事に生まれたこと、育っていることを、あなたに、まったく、知らせてこなかったか、考えたのですか? 長谷川の家名に傷をつけてはならない、といじらしくお考えになったからではないでしょうか? 私には、痛いほど、わかります。そなたがお腹の中に宿った時、どのように、殿さまへお伝えしようか、すまいかと、何日も何日も悩みました。殿さまは、その時は、2代つづいての冷や飯のご身分でしたから、お困りになるだろうと---」
「おいおい。そんな昔のことを持ち出さなくても---」

「いいえ、殿さま。あの時の私は、村長(むらおさ)のむすめといっても、お武家さまの正妻になれる身分ではございませんでした。それでも、平蔵宣雄という男の方が好きで好きでたまりませんでした。大きなつつんでくださるお方におもえたからです。この殿ごのお子を産みたいとおもいました」
の目からは、大粒の涙がこぼれはじためた。
銕三郎も、自分の出生の筋立てを、あらためて聞き、感じいっていた。

阿記さんとおっさしゃる方も、銕三郎のことが好きで好きでたまらなかったから、身をおまかせになったのでしょう。箱根へ行って、お会いしてまいります。そうしないではいられません」
「母上。拙もお供をいたします」
「いいえ。銕三郎がいては、筋立てがもつれるだけです。そなたは残っていなさい」

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2008.03.21

於嘉根という名の女の子(その3)

「父上。折り入ってのお願いがございます」
母・(たえ 40歳)が2人の膳を召使に下げさせて部屋を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳)がかしこまって、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)へ言った。

「じつは、子どもができました」
「ほう。どこに、じゃ?」
「箱根です」
「それだけでは、飲みこめぬ。もちっと、詳しく話してみよ」

銕三郎は、2年前の春、与詩(よし 宣雄の養女)を迎えに駿府へ旅したとき、旅程に芦ノ湯村を加えて、その地の湯治宿〔めうが屋〕のむすめで、実家へ帰っていた阿記(あき 21歳=当時)を抱いたこと。
【参考】阿記との出会いとなれそめ 2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)
 
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(英泉『古能手佳史話』)

阿記が鎌倉の縁きり寺・東慶寺へ入山まで付き添ったことを打ち明けた。
なんのためらいもなく、すらすらとありのままを話せる自分に、銕三郎は、
(それだけ、大人になったのだろうし、あれは、自然の成り行きだったからだ)
と、自分でも合点した。

「そのことは、辞めた藤六からは聞いておる。目の前においしいものがぶらさがれば、飛びついてでも食らうのが若さの特権というものだ」
「しかし、赤子ができたとなると、話は別でございます」
「いま、は、なんと申した? 嫁家先から実家へ帰る途中で知り合った---と言わなかったか?」
「申しました」
「さすれば、父親は、嫁家先の夫やも知れない」
「いえ。拙にはおもいあたるふしがございます」
「たわ言(ごと)を申すでない。母親は間違いなく産んだといえるが、父親はだれにもわからぬものと、古今からそういうことになっておる」

「しかし、阿記は、拙の子を産みたいと申しました」
「そのことを言っているのではない。父親はだれにもわからないと言っておるのじゃ。この場合、当の母親にもわからない」
阿記は、3年ものあいだ、幸兵衛(こうべえ)---あ、阿記の夫の名です、でした---幸兵衛とともに暮らしていましたが、子なしでした」
「3年目に子をなす夫婦もあれば、10年目にできる夫婦もある。2年と11ヶ月があいだ、孕まなかったからといって、銕三郎の子と断ずることはきぬ」
「そんな、無責任ないいのがれは、できませぬ」
銕三郎は、阿記との純粋に燃えた情熱が、汚されたような気がした。

「無責任になれ、と申しておるのではない。よく確かめろというておるじゃ」
「どのように確かめればよろしいのでございますか?」
「赤子は、10月10日目にかならず出てくるとはかぎらない。したがって、出生の日からは決めることはできない。が、しばらく待てば、親に似たところもでてこよう」
「1歳と3ヶ月ほど経っています」
「では、誰かに、顔、姿を確かめてもらおう。それには、その太物屋の幸兵衛とやらをも見分してもらう必要もあるな」

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

「で、もし、拙の子に間違いないとなりました時は---?」
「厄介なことになる」
「どのような?」
「武家の出でない婚姻外の女が産んだ子は、庶子としてとどけることになるが、お目見(みえ)もすんでいないの子としてとどけるのは、いささかむずかしい」
「拙は、一向にかまいませぬ」
「そうはいかない。その方は、この長谷川の家を継がねばならぬ身じゃ」
「拙が家を出て、養子をお迎えになれば---」
「馬鹿ッ! それこそ身勝手というものじゃ」

その鋭く大きな声を聞きつけたが、何事かと驚いた表情で、2人が睨みあっている部屋へ入ってきた。

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2008.03.20

於嘉根という名の女の子(その2)

「知らなかった!」
胸の奥の奥からしぼりだしたような声で、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)はくりかえし、うめいた。

つばめが軒先をかすめて半転し、飛び去る。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、 いたわるような眼差(まなざ)しで銕三郎の次の言葉を待っている。

むせるような匂いは、隣家との境界に育っている数本の桐の薄紫の花からのものだ。

ようやくに、銕三郎が言葉をつないだ。
阿記(あき)どのは、縁切りができたのですか?」
「そりゃもう、2年間、尼寺にお籠(こ)もりとおしなすったのですから、どこからも文句の出るもんじゃあござんせん。長谷川さまもご存じの、平塚宿一帯の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 37歳 )どんも、〔越中屋〕の幸兵衛(こうべい)に念を入れてくれたと言っとりました」

芦ノ湯小町といわれていた阿記は18歳で、平塚宿の太物(木綿衣料)の老舗〔越中屋〕の当主・幸兵衛(こうべえ 22歳=当時)に嫁いだが、姑の意地悪に耐えかねて実家へ逃げもどる箱根路で、銕三郎と出会い、夫とはケタ違いの大きな器量に、一と目で魅せられた。

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(当時の旅人が携行した『懐中東海道道しるべ』
赤〇は阿記の実家がある芦ノ湯村)

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(浜松以東と以西の2巻もの)

阿記に未練たっぷりだった幸兵衛は、〔馬入〕の勘兵衛をおどし役に雇って阿記の実家・〔めうが屋〕へ連れもどしにやってきたが、〔風速〕の権七が仲へ入り、勘兵衛は手を引くことになって、けっきょく、幸兵衛は泣き寝入りの形になった。

阿記は、鎌倉の縁切り寺・東慶寺へ入り、2年間、尼僧としての修行をつんだ。それで、元の夫・幸兵衛との縁は断ち切れる。

もちろん、銕三郎は、ふとした時々、こころも躰もゆるしあった阿記との旬日のあれこれを偲んだが、江戸と鎌倉---ましてや、東慶寺は男子禁制でもあり、文をやることもなくすごしてきたのである。
(勤行(ごんぎょう)明けのときにでも、文をとどけておいてやればよかった)
しかし、
(未練がましいし、阿記のこんごの人甲斐(ひとがい 風評)の邪魔となってはいけない)
自分をいましめていたことも事実である。
(しかし、おれの子が生まれていたとなると、話は別だ)
(できたのは、おれの子を産みたいといって燃えた、あの夜だろうか?)

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(英泉『夢多満佳話』)

ちゅうすけ注】銕三郎が想いだした燃えた[あの夜]とは、2008年2月1日[与詩を迎えに](38)

(それとも、東慶寺で剃髪してきてからでてきた、その異相におもわず興奮しながら交わった鎌倉の旅籠でだったのであろうおか?)

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(国芳『枕辺深閨梅』)

(それにしても、尼寺での子育ては苦労だったろう)

権七(ごんしち)どの。阿記どのの消息をも少しお聞かせいただきたいが、この家ではまずいとおもいます。どこか、安心して話せるところへ---」
「狭いところですが、須賀の店へ参りやしょう。夕刻までは、人はきません」

銕三郎は、松浦用人に(夕飯までには帰る)と断り、権七とつれだった門を出ようとした時、与詩(よし 8歳。宣雄夫妻の養女。銕三郎の義妹)がどこから帰ってきて、権七に、
「あら。箱根のおじさま」
与詩さま。しばらくのうちに、大きく、きれいにおなりで」
権七は、心得ている。
「きれいになった」といわれて喜ばない女はいない。与詩のような8歳の子でも。

「箱根のおじさま、あいかわらずのお口上手なこと」
与詩も成長いちじるしい。

 

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2008.03.19

於嘉根(おかね)という名の女の子

「若さま。〔風速(かざはや)〕とかおっしゃる方がお待ちになっておられます」
下僕の太作(たさく 60歳近い)が、学而(がくし)塾から帰ってきた鉄三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)に、告げた。
太作はめっきり老け込んで、腰もすこし曲がってきている。
屋敷の主・平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手の組頭)は、長年の働きを多として、仕事はしないで隠居していろと言っているのだが、本人にはその気がない。あいかわらず、小まめに薪を割ったり、門前の掃除をしてりしている。

「なに、〔風速〕と申したか?」
「はい。箱根路の〔風速〕と言っていただけばわかるとおっしゃって---手前の部屋でお待ち願っております」
「よし。躰の汗を流して着替えたら、おれの部屋へ案内してくれ」

箱根路と聞いて、咄嗟に、久しく忘れていた2年前の、芦ノ湯村湯治宿のむすめ・阿記(あき 当時21歳)の、事が終わったあと、薄紅色がさした白い肌をさらしたままで恍惚とまどろんでいた姿が、生々しく、よみがえった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』)

18歳の春、銕三郎は駿府(静岡市)へ、養女・与詩(よし 当時6歳)を迎えに行く箱根路で知り合い、鎌倉の縁切り寺の東慶寺までいっしょに旅をし、幾夜も躰を重ねた。

井戸端で水をかぶっているあいだも、股間のものの緊張はやまなかった。
(そういえば、この春、東慶寺で2年の奉仕を終えて、無事に離縁できたろうか?)
阿記の実家、芦ノ湯の湯治旅籠の〔めうが屋〕の離れの浴槽で背から抱いた阿記の張りのあった臀部の感触は、まるで、春の川の流れに身をまかせていてのできごとのように、思いだす。

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(英泉『玉の茎』[水中浮流])
ちゅうすけ注】2人が、上の絵のような愉しみ方をしたのは2008年1月18日[与詩を迎えに] (28)

単衣に着替えたところへ、太作が〔風速〕の権七(ごんしち 33歳)を案内してきた。
長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
「権七どのらしくもない。挨拶は抜きです。いつ、江戸へ?」
「もう、2ヶ月になりますか---」
「だから、その普段着なのですね。どうして、すぐに来てくれなかったのです?」
長谷川さま。それは無理というもの。鉄砲洲を訪ねてゆきましたら、阿波(あわ)さまの中屋敷の門番たちに追っ払われちめえました」
「それは、相すまぬことでした。昨年末にここへ越したのです」
「さようだそうで---。湊町の名主に教えられました」

「で、江戸へは---?」
「はい。箱根で、ちょいとまずいことを起こしまして---」
「で、江戸では、どこに住んでいますか? 須賀どのは?」
須賀の奴を、覚えていてくださいましたか。あいつにいってやれば、喜びましょう。いえ、須賀もいっしょ、というより、あれが、永代橋東詰でちっぽけな呑み屋を開きまして、居候をしてまして」
「なんだ、近くではないですか」

「それはそうと、長谷川さま。駿府へのお供をなさっていた、藤六(とうろく 47歳)どんが、芦ノ湯村の〔めうが屋〕の女中・都茂(とも 45歳)と仲むつまじく、〔めうが屋〕で働いているのはご存じで?」
藤六が1年前に暇をとったのは、そういうことだったのか。よほどに、躰と躰があったとみえる)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[狐火]で、〔相模(さがみ)〕の彦十が、おまさに、2代目狐火とは、「よほどに躰と躰があったんだね」と。あれです、藤六都茂の仲は。百に一つ---あるかなしなんですってね。

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(北斎『ついの雛形』)

「〔めうが屋〕といえば---」
「それでございますよ、長谷川さま。阿記さんが子づれで尼寺から帰ってきたのはご存じで?」
「なに? 子づれ---?」
「はい。1歳ちょっとの---」
「知らなかった!」


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2008.03.18

明和2年(1765)の銕三郎(その11)

長谷川どの。いい屋敷が手に入りましたな。さすが---と感じいっております」
本多采女紀品(のりただ 52歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭)が褒めた。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が恐縮する。
「いや、その節は、本多どのからもお知恵をいただきながら、小普請組支配の有馬采女則雄(のりお)さまへもお願いにあがらずじまいで---」

参考】有馬采女則雄のことの経緯は、2008年3月1日[南本所三ッ目へ] (8)

「なんの、なんの。おかかわりを持たれずにすんで、かえってよろしゅうござった」
田沼主殿頭意次 おきつぐ 47歳 遠州・相良藩主)さまのご用人・三浦どのの肝いりをいただきまして---」
「いよいよ、長谷川どのにも、火盗改メのご用命がくだりますな」
「とんでもございませぬ。本家はともかく、わが家は、そのような家系ではございませぬゆえ」
宣雄が生真面目な表情で否定するのを、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)が不服げに見守っている。

「いや、そうではござらぬよ、長谷川どの。いまの先手の組頭で、火盗改メに任じられた顔ぶれをごろうじろ」

弓・5番手
 笹本靱負佐忠省(ただみ)    54歳  2年  500俵
  火盗改拝命 宝暦13年(1763)2月16日  (52歳)
       免   同          5月14日      
       拝命 宝暦13年(1963)11月26日 (52歳)
       免   明和 元年(1764)4月6日
       拝命 明和元年 (1764)9月7日  (53歳)
       免   同  2年 (1765)5月24日

【参考】笹本靱負佐忠省については、[本多采女紀品] (,2) (3) (5) (6) (7)


弓・7番手 
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)56歳  2年  1450石
  火盗改メ拝命 宝暦13年(1763)10月13日 (54歳)
        免   明和 元年(1764)5月4日
        拝命 明和 2年(1764)4月1日   (56歳)

鉄砲・10番手
 酒井善左衛門忠高(ただたか)  54歳   5年 1000俵
   火盗改メ拝命 宝暦11年(1761)9月27日 (50歳)
        免   同  12年(1762)閏4月4日

鉄砲・16番手
 本多采女紀品(のりただ)      52歳   4年 2000石
   火盗改メ拝命 宝暦12年(1762)12月12日 (49歳)
        免   同 13年(1763) 5月14日

  *()内の年齢は、発令年のもの。

「ご覧のように、50歳代の先手・組頭にまわってくる役目とお覚悟めされい」
本多紀品の言葉に、銕三郎の目が一瞬、かがやいた。
しかし、平蔵宣雄はあくまで冷静に、
「50歳代の組頭の方々と申せば、弓では、どの、桜井どのもおられます」
「堀信明(のぶあきら)どのは、家禄が1500石で、役高がつかないことを理由に、避ける工作をしておられるらしい。桜井以勝(よりかつ)どのは、病身で、いつ辞表が出てもおかしくないありまさ---」

参考】弓組の組頭のリストは、2008年3月9日[ちゅうすけのひとり言] (8)

「鉄砲のほうにも、雨宮どの、諏訪どの、竹中どの、松前どの、浅井どの---などもいらっしゃいますれば---」

参考】鉄砲組の組頭のリストは、2008年3月10日[ちゅうすけのひとり言]  (9)

長谷川どの。若年寄でもない拙が、用命するわけではござらぬ。おこころしておかれよ---と申しているだけです」
本多どののように、与力10騎、同心50人という組なれば、火盗改メの職務もつつがなくこなせましょうが、なにしろ、わが組は、与力5騎、同心30人なので---」
「愚痴は、若年寄筋か、田沼さまへ申されよ」
これで、笑いとなった。

ちゅうすけ注】その後、鉄砲の21番手の浅井小右衛門元武(もとたけ)、23番手の曲渕隼人景忠(かげただ)も拝命し、本多紀品も2度目の用命を受けた。

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2008.03.17

ちゅうすけのひとり言(9)

[寛政重修諸家譜]というタイトルでカテゴリー(このブログのトップページ・左欄)を立てている。
カテゴリー番号が212と、ほとんど末尾に近いから、目にふれる機会もきわめて少ないだろうとおもう。

【参考】[寛政重修諸家譜] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

引用しているのは、(株)続群書類従完成会が1964年に刊行したものの、第4刷である。
寛政11年(1799)に素稿の呈出がしめきられ、若年寄・堀田摂津守正敦(まさあつ 45歳=1799 近江・堅田藩主 1万石)が総監督となって、足かけ14年の歳月を費やして文化9年(1812)に幕府に上納されたことは、つとに知られている。

復刻刊行によって、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵調べに、どれほどお蔭をこうむったか、とても表現できないほどである。

池波さんふうに書くと、2008年3月15日[明和2年(1765)の銕三郎(10)]に、

「ご本家。まだ、よろしいのではありませんか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)を引きとめた。
「それがの。奈未(なみ 正直のニ女)が松田(善右衛門勝美 かつよし 20歳)の許(もと)から帰ってきておっての---」
「それではお止めできせぬ。里(さと 正直の内室)さま、奈未どのへよろしゅう---」

この数行を書きえたのも、『寛政譜』長谷川太郎兵衛正直の項があったればこそ。
下の、正直の子どもたちの末尾(3段目左端)・ニ女を見ていただきたい。
『寛政譜』では、女性の名は欠落している。
辰蔵が呈上した「先祖書」にも、女性の名は記されていないから、幕府から「記すにおよばす」とでも指定されていたのであろうか。
それで、上に掲げた[明和2年(1765)の銕三郎]では、奈未(なみ 20歳)としておいてた。
嫁ぎ先は、松田善右衛門勝美(かつよし)。
ただし、「のち離婚す」とある。

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(正直とその子たち。正直の弟妹は省略)

じつは、[明和2年(1765)の銕三郎](10)は、この『寛政譜』だけを見て類推した。
で、アップしてから、あらためて『寛政譜』の松田善右衛門勝美を確認してみた。
確かに、奈未は嫁いている。それも後妻として。
善右衛門勝美は、奈未を離婚したあと、三人目の妻を迎えている。

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(松田相模守勝易(かつやす)とその長子・勝美)

最初の妻は、大奥の侍女・藤木氏が養女とある。

ところが、3段目の女子の項には、

実は上加茂の社家藤木甲斐保夫が女(幕臣へ嫁がせるために、大奥に召されている一族の藤木の養女となったのであろう)。
はじめ生駒登俊矩にやしなわれ、勝美が妻となり、勝美死してのち勝易が養女となりて、横瀬駿河守貞臣に嫁す。

これは一体、どういうことか。
勝美の最初の妻であるこの女性は、夫・勝美が死んだのちに再婚している。それは、女性の幸せのためにあっていい。
しかし、死んだ勝美が、後妻、さらには三人目の妻をむかえたことになる。

『寛政譜』のどこかがおかしい。

いまは、『寛政譜』にも筋がとおらない記述もあるということだけを指摘しておくにとどめ、太郎兵衛正直と松田相模守勝易との因縁も、離縁されて実家へ戻った奈未のことも、横瀬駿河守と再婚した女性のことも類推をひかえる。


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2008.03.16

明和2年(1765)の銕三郎(その10)

「ご本家。まだ、よろしいのではありませんか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)を引きとめた。
「それがの。奈未(なみ 正直のニ女)が松田(善右衛門勝美 かつよし 20歳)の許(もと)から帰ってきておっての---」
「それではお止めできせぬ。(さと 正直の内室)どの、奈未どのへよろしゅう---」

残った佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番)が、銕三郎(てつさぶろう)に訊いた。
「たしか、20歳(はたち)におなりでしたな?」
「はい」
長谷川さま。さきほど、ご本家のお言葉ではございませぬが、今日のようなおめでたい席で申すのもなんですが、それがしの例もございます、銕三郎どののお目見(みえ)を早くおすませになられたほうが---」
「それがでござる、佐野どの。こちらが気をもんでいるのに、銕(てつ)が、まだ、学問の下吟味がうけられぬと申しまして、逃げているのですよ」

「そのことは、手前からお話しいたします」
銕三郎は佐野与八郎とは心易い。
「このニ之橋通りへ屋敷替えいたしまして、鉄砲洲の黄鶴塾が遠くなったので、近くの学問塾を探しているのですが、これとおもえるところが、なかなか、見つからないのです」
「見つからないのではなくて、見つけないのでしょう」
与八郎も、銕三郎の本音(ほんね)を読んでいる。

銕三郎どの。父・与七郎政隆 まさたか)が42歳で身罷(みまか)りました元文4年(1739)には、それがしは8歳でした。父は享保元年(1716)のお目見以来ほとんど寝たり起きたりでした」

与八郎の打ち明け話を手際よくまとめると、次のようになる。
19歳でお目見をしたものの、病身のために正室が迎えられない。しかし、看病にきていたむすめが与八郎を孕んだ。

宣雄が言った。
「手前とおなじです。3年前に物故した亡父は、継嗣ではなく3男で、厄介者の身分でしたが、手前を孕ませました」

【参考】2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2007年4月12日[寛政重修諸家譜](8)

与八郎の祖父・政春(まさはる)は、それがために駿府城代を早めに辞して江戸へ帰り、万が一に備えていた。 万が一は現実となり、8歳の与八郎が残されたが、その3年後には、祖父も65歳で歿する。
与八郎は幸い、その1年前、10歳でお目見をすませていたので、跡目相続もとどこおりなく受けつけら;れた。
銕三郎どの。お目見を済ませておくことは、幕臣たる者には、親孝行の一つと申せますぞ」
与八郎を兄とも敬っている銕三郎に、この一と言は、こたえた。

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(佐野家3代 与八郎はこの日の使番まで)

「巨細(こさい)を見れば、どの家にも、それぞれの事情があるということだな」
本多采女紀品(のりただ 53歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭)がのんびりした声で言い、座が一転してなごんだ。

【参考】2007年6月4日[佐野与八郎政信]
2007年6月7日[佐野与八郎政信](2)

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2008.03.15

明和2年(1765)の銕三郎(その9)

「鉄砲(つつ)組には、古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)どののような、歴史学者や埼玉県の教育委員会を喜ばすような仁がいてよろしいな。残念ながら、弓組には---」
こんなことを、弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)が口に出すはずはない。
言ったのは、こうである。

本多采女紀品 のりただ)どの。鉄砲組は、20組中8人の組頭が70歳をこえておられると慨嘆なされたが、うっかり、弓組も、お一人漏らしておりましたよ」

4番手
 牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳  9年   800石

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(牟礼清左衛門葛貞の個人譜)

今川家ゆかりの集まりでも、いつも、部屋の隅で静かに、みなの話すことを聞いておられるだけなので、つい、忘れてしまうのです」
「そういえば、躑躅(つつじ)の間でも、たえて、お声を聞いたことがありませぬな」
本多紀品(53歳 鉄砲の16番手組頭 2000石)が応じる。
牟礼(むれい)さまは、今川出身でございましたか?」
佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番 1100石)も言葉をはさんだ。

家系譜には、今川に属していたときには駿河の蒲原(かんばら)の城代をずっと勤めていたとある。
義元・氏真(うじざね)が滅んだのちには、織田右府(うふ 信長)に仕え、その後、徳川家康の傘下に入った。
蒲原という地勢からいって、どうして、じかに家康に結びつかなかったのか、そのあたりの動きが不明である。

ちゅうすけ注】『延喜式』牟礼神(むれのかみ)が所出しており、摂津国島下郡、伊勢国多気郡の牟礼神社があるらしい。 『旧高旧領取調帳』の信濃国水内郡(みうちこおり)に牟礼(むれ)村(現・長野県上水内郡飯綱町牟礼)が記録されているが、今川系牟礼(むれい)家とは直接にはつながるまい。
むしろ、牟礼家は、同じく今川家に仕えていて、のちに徳川に属した岩瀬家とのえにしが深い。幕臣・岩瀬の分家の一つの主が、古郡家のむすめを娶っているのも、なにかの因縁を感じる。夫・氏長(うじなが)は失心して長男を斬殺し、自裁をしているのだが。
葛貞岩瀬の出ではなく、牟礼家から出て大久保加賀守忠方(ただまさ 小田原藩主 11万3000石)の家臣となっていた、牟礼九右衛門正賀(まさよし)の息で、25歳で幕臣・牟礼家の養子に入った。
先祖が、織田右府から徳川に付いたとき、大久保忠世の組へ入れられたのかもしれない。

「先祖が、今川滅亡ののち、織田右府さまを経てから葵(とくがわ)の陣営に転じたことも、清右衛門葛貞どのが肩身を狭くしておられるのでありましょうか?」
これは銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの平蔵宣以=小説の鬼平)の問いであった。
「いや。胃の腑に持病があって、いつもそのことを気に病んでおられると、ふと、うけたまわったことがある」
答えたあと、太郎兵衛正直は、
「やや。五ッ(午後8時をすぎてしまった。おもわずの長居、(たえ)どのに、いかい迷惑をおかけした」

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2008.03.14

ちゅうすけのひとり言(10)

父・長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳)が、先手・弓の8番手の組頭に抜擢された明和2年(1765)4月---。

同じ先手ではあるが、鉄砲(つつ)のほうの15番手の組頭に、82歳になる古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)という篤実で切れ者がいた。
『寛政重修諸家譜』から[個人譜]をつくって読んでいるうちに、驚くべき文言(もんげん)に目がとまった。

(享保)十五年(1930)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

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(新墾田分の返還を受けたことを記した古郡年庸の個人譜)

あらためて、『寛政譜』を開く。
小野朝臣の流れらしく、小野一門の中に、古郡家が1家だけある。

太田亮博士『姓氏家系辞書』(秋田書店 1974 12.15)には、
 武蔵【春日氏族、横山党】となっている。
一族のうち、古郡村に住んでいた者がいるにちがいない---と見当をつけて、グーグルの[旧高旧領]に、「古郡」といれてみる。

武蔵には1ヶ所---那賀郡(なかこおり)古郡(ふるこおり)   岩鼻郡

旧高旧領取調帳 関東篇』(近藤出版社 1969.9.1)の那賀郡をみる。
秋山、小平、円良田、猪俣、甘粕、古那(古郡の誤植か?)、駒衣などの村々が並んでいる。
古郡はない。

ふたたび、勘で、グーグルに、[古郡 埼玉県]。
出てきた。埼玉県 児玉郡 美里町 古郡。
まだ、合併・市化していないらしい。

郵便番号帳』で確認すると、甘粕も、駒衣も、古郡も、いまも存在している。
グーグルの地図だと、八高線「松久」駅の北東。
八高線の先に「寄居」駅が---。

_100記憶がある。
池波さんの旅のエッセイ集『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)の〔京亭〕だ。
こんなふうに書き出されていた。

三年ほど前に、甲賀の忍びの者を主人公にした新聞連載小説を書いたとき、前半の背景を武州(埼玉県)の鉢形(はちかた)城にしようとおもい、泊りがけで、城址を見にでかけた。
その小説の一節を、抜き書きにしてみよう。
 埼玉県の北西部にある寄居(よりい)町は、秩父(ちちぶ)市の北東に位置している。
 奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞(ながとろ)を流れてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある。
 駅前から南へ通ずる通りの両側は、美しい柳の並木だ。
 この通りを十五分も行くと、荒川に架(か)かる正喜橋のたもとへ出る---。

「はて、どの甲賀忍者ものだったっけ?」
書庫の文庫棚で、甲賀ものをめくりはじめる。
「いかん!」
寄居に寄り道をしている場合ではない。
小説の題名は、このブログを読んだ池波ファンが教示してくださるだろう。
いまは、古郡孫大夫に専念するときだ。

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(古郡家の〔『寛政譜』)

上段・緑○が年庸。その右の●がついているのが、徳川家康の麾下に入ってからの三代目当主・文右衛門年明である。家譜に記された、父・年明の記録を読んでみた。

元禄五年(1692)駿河国の支配所を転ぜらるるにより、祖父重政がとき賜ふところめの新墾田の十が一を収めらる。

要するに、初代の祖父・庄右衛門重政(しげまさ)が、駿河のどこかの代官をしていたときに、富士郡加嶋で新しく6500余石を開墾した功績で、その(5割の公収分にあたる)10分の1相当の現米320余を年々下賜されていたのを、取りやめられたわけである。
(富士郡加嶋もしらべねば---)

理由は明らかでない。重政の代官としての家禄は廩米50俵ほどであったらしいから、この320俵の下賜は大きかった。
家禄は100俵になってはいたが、その5O余年後に取り消されるのは、あまりにも痛手が大きい。察するに、文右衛門年明は、代官として不手際があったか、80歳という老齢が原因だったか。

継嗣・孫大夫年庸は、身を粉にして篤実に勤めながら、たびたび請願していた10分の1---320余石を36年後に首尾よく取り戻したのである。まずは、めでたい。

長谷川平蔵関連を仔細に調べていると、こういう幸運に出会う。
古郡家などという、幕臣の端っぽほどの人物は、ふつうは、だれも目もくれまい。だぶん、美里町教育委員会も見のがしているであろう人物である。

ところが、ライトをあててみると、徳川初期には、代官が新田を、たぶん自費で開墾すると、その10分の1にあたるものを、ある年数、給付する制度があったらしいこと。
また、その権利は、50年ほどで消滅することもあったらしいこと。
さらには、その復活のありえたこと。

また、徳川初期の代官の家禄が50俵程度の仁もいたらしいこと。
つまり、あとは、才覚で管理をまかされている村々からしぼりとれ---ということだったのかもしれない。

小説的には、古郡孫大夫年庸の悲願みたいなものも感じとれる。
いやあ、おもしろ---くないですか?

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2008.03.13

明和2年(1765)の銕三郎(その8)

「なにか、おもしろい話でもありましたかな」
そう言いながら席についたのは、本多采女紀品(のりただ 52歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭)だった。
佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番)とつれだっていた。
平蔵宣雄(のぶお 47歳)への祝辞をすますと、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の酌をうける。

「いや。お祝いの場にふさわしからぬ話題になりましてな。先手も、宣(せん 宣雄)どののような若手にどんどん入れ替えないと---。弓は、10組のうち、70歳をこえた組頭が3人もおいででな」
と長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)
「なに。鉄砲のほうはもっと老けております。大きな声でいえないが、20組のうち、8人の組頭が70歳をこえておられましてな。率からいうと弓の倍以上です。いざ、戦(いくさ)となったときがおもいやられますよ」
(弓も加えての通し番手。鉄砲組だけだと10を差し引く。年齢は明和2年(1765) 次の数字は先手組頭になってから明和2年までの在職年数)

11番手 
 寺嶋又四郎尚包(なおかね)  77歳   8年  300俵 

12番手
 織田権大夫正幸(まさゆき)  79歳   10年  500石

13番手
 井出助次郎正興(まさおき)  76歳     6年  300俵

16番手
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  70歳   12年  450石

19番手
 阿部十郎左衛門正氏(まさうじ) 87歳   11年  200俵

25番手
 古郡孫大夫年庸(としつね)   82歳   11年  320石

28番手
 市岡左兵衛正軌(まさのり)    72歳   10年  500石

30番手
 福王忠左衛門信近(のぶちか)  73歳  12年  200俵

佐野政親が口をはさんだ。
「仕事に精通しているからといって、親が長くお勤めをつづけますと、わが家のように、継嗣の父に先立たれ、孫のそれがしが家督するような変則がふえます」
与八郎は、11歳の時に、祖父から家督している。

11_360
(寺嶋又四郎尚包の個人譜)

12_360
(織田権大夫正幸の個人譜)

13_360
(井出助次郎正興の個人譜)

16_360
(鈴木市左衛門之房の個人譜)

19_360_2
(阿部十郎左衛門正氏の個人譜)

25_360_2
(古郡孫大夫年庸の個人譜)

28_360_2
(市岡左兵衛正軌の個人譜)

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(福王忠左衛門信近の個人譜)

ちゅうすけ注】8名の個人譜を読んでいて、「父に先立つ」も目についたが、それよりも、古郡孫大夫年庸のところで、「大発見!」と叫びたいような記述を見つけた。
「新墾田十が一現米三百二十石余の地を年庸にたまひ---」がそれである。詳しくは。明日。

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2008.03.12

明和2年(1765)の銕三郎(その7)

「ご本家の大伯父上さま」
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)に呼びかけた。
奥田山城さまと、瀬名さまは同い年の75歳でございます。奥田さまは従(じゅ)五位下(げ)と授爵もなされており、瀬名さまよりも上席のはずなのに、長老は瀬名さま、次老が奥田さまというのが、合点がまいりませぬ」

たしかに、リストを見ると、奥田山城守は弓の2番手の組頭だし、瀬名孫助は10番手でもある。
先手組の総揃えで1番手から並んだとしても、奥田山城のほうが上にきそうなものである。

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  75歳   2年  300俵

10番手
 瀬名孫助貞栄(さだよし)    75歳   3年  200俵

「奥田山城どのが先手の組頭になられたのは、2年前の宝暦13年(1763)7月21日、対する瀬名貞栄どのは3年前の宝暦12年(1762)12月15日に拝命されておられる。
組頭衆の順位は、拝命した年月の早い人順ということが不文律になっている。いや、お上もそういう秩序でよろしいとお考えである。したがって、半年早く役に就かれた瀬名さまが長老、奥田さまは次老---というわけじゃ」
そう言ってから、太郎兵衛正直はにやりと頬をゆるめ、一と言つけくわえた。
「ほかの役職での順位は、拝命順だが、先手組頭だけには、その上に、もう一つ、べつの順位が働く---」
「なんでございますか?」
「火盗改メは、最上位につく」
「すると、大伯父さまが最上位ということでございますか?」
「そうじゃ。わしは偉いのだぞ」
「へへえッ。お頭(かしら)さま」
銕三郎が大げさにに平伏したので、大笑いとなった。

ちゅうすけ は、瀬名奥田の長老、次老に加え、三老で1番手の組頭・松平源五郎乗道も含めての70歳代の組頭について、史料により、べつの感慨を持った。

1番手
 松平源五郎乗通(のりみち)  73歳  12年  300俵 


10_360
(瀬名孫助貞栄の「個人譜」)

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(奥田山城守忠祗の「個人譜」)

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(松平源五郎乗通の「個人譜」)

いずれも、家禄が廩米300俵(知行地300石に相当)、200俵(同200石に相当)と低いから、一度手にした役高の1500石は手放しがたかろうという想像である。

瀬名貞栄は、この翌年の明和3年2月29日に公式に喪を発するまで、職を辞していない。在職は足かけ5年。行年76歳。

奥田山城守は、このあと、安永2年(1773)正月まで通算で11年間を先手組頭、さらに別の職務をこなして寛政8年(1796)正月に93歳で歿するまで現役。

松平(滝脇)乗通は、明和7(1770)年まで足かけ17年間弓の1番手の組頭でありつづけた。そして職を辞したのが78歳。行年82歳。

先手の弓組の3人だけで判断してはいけないが、徳川の中期をすぎると、役職者の老齢化が問題とならなかったろうか。
もっとも、いまの高級官僚たちが、次の職、その次の職と渡っていくのも、徳川時代の習慣を受け継いでいるのであろうか。

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2008.03.11

明和2年(1765)の銕三郎(その6)

南本所・三之橋通りの長谷川邸の書院---平蔵宣雄(のぶお 47歳)が先手・弓の8番手の組頭を発令された夕刻である。
本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳)が祝辞を兼ねて、挨拶まわりの作法を伝授しにきている。
正直は、2年前から、弓の7番手の組頭を勤めていた。

「若年寄どのの上屋敷へは、明日にでもお礼に参上することだ。献上品はかつお節を3本ずつ。ととのえるのは、日本橋瀬戸物町の〔かねにんべん〕こと、伊勢屋伊兵衛方で、背筋2本に腹筋1本と指定して箱詰めにすること。
くれぐれも薩州産はさけ、土州ものか紀州ものと指定するのを忘れるでない」
太郎兵衛の注意はゆきとどいている。

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(屋標=かねにんべんの〔伊勢屋〕 間口は24間(44m)もあった)

銕三郎(てつさぶろう)が口をはさんだ。
「大伯父上さま。どうして薩州ものをさけるのでございますか?」
「おお、そのことよ。関ヶ原以来の暗黙のことでな」
「薩摩沖のかつおは早獲れで若すぎるのかと存じておりましたが、関ヶ原でしたか。しかし、うらんでいるのは、鹿児島一藩にとじこめられた薩州のほうでしょうに---」
「これ。めったなことを口にするでないッ!」
「はい」

(てつ)よ。若年寄のお歴々のお名をいうてみい」
銕三郎は、封地、石高まで諳(そら)んじた。
(明和2年での年齢は、ちゅうすけが補った)。

小出伊勢守英持(ふさよし 60歳) 丹波・園部藩2万6000石
松平宮内少輔忠恒(ただつね 49歳) 上野・篠塚藩1万200石
水野壱岐守忠見(ただちか 46歳) 安房・北条藩1万5000石
酒井石見守忠休(ただよし 65歳) 出羽・松山藩2万5000石
鳥居伊賀守忠意(ただおき 49歳) 下野・壬生藩3万石

は、ようできた。ところで、(せん 宣雄)どの。組頭の方々へのお披露目だが、小十人組のときは?」
「つい先ごろお亡くなりになった佐野大学為成(ためなり 当時の2番組の頭)どのが長老格で、そのお屋敷が北本所・南割下水にあったものですから、近いところということで、東両国の駒留橋脇の〔青柳(あおやぎ)〕にいたしました」
佐野どのは、去年、先手・鉄砲(つつ)のお頭になられたばかりなのにのう。月番だったので、西久保の天徳寺のご葬儀に参列したのだが、61歳だったとか。天命だから仕方がないが---。それはともかく、〔青柳〕とは張りこんだものよ」
「このたびは、いかがいたせばよろしいでしょう?」
「長老・瀬名孫助貞栄 さだよし)どのの屋敷は、四谷追分でな。そこに近いところというと、四ッ谷あたりになるが---」
「長老ということでは、古郡(ふるこおり 孫大夫年庸 としつね)どのが---」
「あいや、失礼した。弓は弓同士、鉄砲は鉄砲同士というのが、先手のしきたりなのじゃ」
「それは助かります。34名の宴会ともなれば、100両がとこ軽く吹っ飛ぶと、ひやひやしておりました。で、四ッ谷あたりでよろしいので?」
「いや。長老、次老のご老体お2人はご出席になるまい。あとで、ご挨拶の品をとどけておけばよろしい。三老・松平源五郎乗通 のりみち)どのは小石川七軒町だが、宴後に駕籠でお送りする手もある」
「市ヶ谷八幡社境内の〔万屋〕ではいかがでしょう?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻4[おみね徳次郎]の女盗・おみねが座敷女中をしていたのがこの〔万屋〕だし、巻6[狐火]では、鬼平おまさをここの座敷へ呼び出すから、ちゅうすけとしては、〔万屋〕にしてほしかったのだが---。

「〔万屋〕も悪くはないが、石段がきつい。どうであろう、飯田橋中坂下の〔美濃屋〕では? ここも小石川には遠くないし、お城からも田安門からも近い」
「お頭衆に失礼でなければ---」
「なにが失礼なものか。水戸家一橋家の御用達(ごようたし)の料亭じゃ」

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(九段坂の北隣の中坂下の〔美濃屋〕 『江戸買物独案内』)

「ところで、どのも、先刻ご承知のとおり、大権現(家康)さまの最初のご内室---築山さまは、瀬名家の出で、今川家とのえにしが濃いお家柄。このこと、もよくよく心得ておくように」
「はい」

ちゅうすけ注】長谷川家は、大和・初瀬(はせ)の出と記録されているが、いつのころにか、駿河・小川(こがわ)の豪族となって今川家に属した。
今川義忠が一揆のために塩貝坂で戦死したとき、法栄長者が幼い継嗣・竜王丸をかばったことが司馬遼太郎さん『箱根の坂』に書かれている。法栄長者の孫か曾孫が、三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)である。
法栄長者については、2007年6月7日[田中城しのぶ草](9)
2007年8月8日[銕三郎、脱皮](4)

SBS学苑パルシェ(静岡駅ビル7F)で、5年來つづけている[鬼平]クラスで、ともに学んでおり、駿河の長谷川遺跡---小川(こがわ)の信香院(長谷川紀伊守正長の墓碑がある)、小川城址、法永長者が開基し、夫妻の墓碑もある林臾院などについて教えてくださっている中林氏は、静岡市北東部の瀬名にお住まいなので、瀬名家には特別の興味を持ってきた。
中林氏によると、益津郡田中城(現・藤枝市)を守っていた長谷川紀伊守正長は、武田信玄方の数万の軍勢に攻められ、衆寡敵せずと観音山へこもり、のち一族は浜松へ走って徳川家康の麾下へ入った。そのとき、幼児だった弟を瀬名村へひそかに落とした。この家がいまでも中川を名乗る旧家と。姓を変えたのは、武田軍の追及をのがれるためだったが、小川の「川」と、田中城の「中」をとっての隠れ姓とも。

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2008.03.10

ちゅうすけのひとり言(9)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が天明2年(1765)4月11日に先手・弓のお頭(かしら)に発令されたときの、鉄砲(つつ)の20組の組頭を、弓組につづいて、氏名、天明2年現在の年齢、天明2年4月11日までの在任年数をリストにしてみる。

こういうリストこそ、ブログのタイトル---[『鬼平犯科帳』Who's Who]にふさわしいし、父・宣雄を理解するためには、必須の史料とおもうから、煩瑣をいとわず、2日間をあてた。
『鬼平犯科帳』にとどまらず、徳川幕府の官僚制度などを理解する資となるからである。
無味乾燥な名前の羅列---とおもう人には無価値だが、一人々々の人生ドラマを読み取ることができる人には、宝の山のはず。

11番手 
 寺嶋又四郎尚包(なおかね)  77歳   8年  300俵 

12番手
 織田権大夫正幸(まさゆき)  79歳   10年  500石

13番手
 井出助次郎正興(まさおき)  76歳     6年  300俵

14番手
 雨宮権左衛門正方(まさかた) 58歳   10年  100石

15番手
 永井内膳尚伊(なおただ)    68歳   5年   500石

16番手
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  70歳   12年  450石

17番手
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    59歳   3年  200石

18番手
 有馬一学純意(すみもと)     67歳   1年  1000石

19番手
 阿部十郎左衛門正氏(まさうじ) 87歳   11年  200俵

20番手
 酒井善左衛門忠高(ただたか)  54歳   5年 1000俵

21番手
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   56歳   0年  540石

22番手
 竹中彦八郎元昶(もとあきら)   58歳   2年 1000石
 
23番手
 曲渕隼人景忠(かげただ)     60歳   6年  400石

24番手
 奥村甲斐守正守(まさふさ)    60歳   9年  600石

25番手
 古郡孫大夫年庸(としつね)    82歳   11年  320石

26番手
 本多采女紀品(のりただ)      53歳   4年 2000石

27番手
 松前主馬一広(かずひろ)      43歳   13年  400俵

28番手
 市岡左兵衛正軌(まさのり)     72歳   10年  500石

29番手
 仙石監物政啓(まさひろ)      62歳    4年 2700石

30番手
 福王忠左衛門信近(のぶちか)   73歳    12年  200俵

最年長は、87歳。平均は65.7歳。 
弓組は56.8歳だったから、こちらは、平均で9歳老けている。
家禄の平均はどちらも計算していないが、一見、こちらが少禄とはおもえない。
先手組頭の老齢化は、栄進の先がつかえていて、幕府にとっても頭痛のタネだったのではなかろうか。

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2008.03.09

ちゅうすけのひとり言(8)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が弓の8番手の長に発令された明和2年(1765)4月11日現在の、先手組の組頭を調べるべく、『寛政譜』22冊と、『柳営補任』第3巻を手元におろした。
先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の終着駅近く---「番方のじじいの捨てどころ」とはやされていたというが、ほんとうにそうだったのか、リストをつくってみるためである。

というのも、平蔵宣雄がこの職についたのは、47歳であった。
いくら人生50年と言われた時代とはいえ、この齢(とし)で〔じじい〕呼ばわりはひどすぎるとおもった。

先手組は、弓が10番手まで10組。
鉄砲(つつ)が20番手まで20組。
西丸に鉄砲組が4組。
宣雄の時代は計34組あった。
戦力としてではなく、武芸の格からいって、弓組が鉄砲組の上に座す。

いや34組しかなかったというべきかも知れない。
ひとたび組頭の席へ座ると、役高1500石に未練があるのか、老齢になっても自分からは辞るとは、なかなか、言い出さなかったという。だから、席が空かない。「じじいの捨てどころ」と皮肉られた所以(ゆえん)であろう。

とりあえず、平蔵宣雄の発令日の、弓組10人の年齢とそれまでの在任年数、家禄を調べてみた。

1番手
 松平源五郎乗通(のりみち)  73歳  12年  300俵    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  75歳   2年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  56歳   5年  1500石

4番手
 牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳  9年   800石

5番手
 笹本靱負佐忠省(ただみ)    54歳  2年  500俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   58歳  1年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)53歳  2年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    47歳      400石

9番手
 桜井監物依勝(よりかつ)     55歳  3年 1300石

10番手
 瀬名孫助貞栄(さだよし)     75歳   3年  200俵
 
年齢は、最長老が75歳が2人。70代ということでみると4人と、けっこう老けている。
体力には個人差があるとはいえ、70代で先手の長として、最前線で戦えるかというと、いささか首をかしげたくなる。
まあ、宣雄のように40代が入ってきたから、平均では56.8歳。それでも人生50歳から見ると、宣雄以外は亡者の集まりといわれても仕方があるまい。


【ちゅうすけ注】笹本靱負佐忠省の個人譜は、2008年2月10日[本多采女紀品](2)
牟礼清左衛門葛貞は、先手組頭の前は、宣雄の従兄で六代目当主・権十郎(小説では修理)宣尹(のぶただ)の西丸小姓組与頭(くみがしら)だった。200年4月29日[牟礼清左衛門葛貞]

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2008.03.08

明和2年(1765)の銕三郎(その5)

徳川の正史ともいうべき『徳川実紀』の明和2(1765)年4月11日の項に、こう記されている。

小十人頭長谷川平蔵宣雄。西城徒頭浅井小右衛門元武は先手頭となり。書物奉行深見新兵衛は西城裏門番の頭となり、小納戸中野監物清方は小十人頭となる。

長谷川宣雄(のぶお 47歳)は、弓の8番手。
浅井元武(もとたけ 56歳 540石余)は、鉄砲(つつ)の21番手---というより、西丸の4組の中の1番手といったほうがあたっている。西丸の4組の先手はすべて鉄砲組である。

平蔵宣雄が数日前に、先手頭への昇進の予告を受けたのは、8番手の前任の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)が旬日前に小普請奉行へ栄転していたからである。

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(先手弓の14番手組頭 本多讃岐守と長谷川宣雄)

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年2月12日[本多采女紀品](4)を参照。

長谷川家では、その夜、赤飯で祝った。それだけの価値はあった。
小十人頭の役高は1000石、先手の組頭のそれは1500石。家禄の400石を越える増収だからである。

ちゅうすけ注】家禄1石は、年収1両にあたると見ておけばいい。役高1500石は、それがまるまる貰えるわけではなく、宣雄の場合は、1500石からか家禄400石を差し引いた差額の1100石の足高(たしだか)を支給される。知行の1石は廩米1俵に相当するから足高は、玄米で1100俵がくだされるとみておいてよかろうか。
1俵も1両とみなす。
1両は、2008年3月8日現在の諸物価の状態で、10万円とみなすのが素直である。

つまり、宣雄は、小十人頭(役高1000石)から先手組頭(同1500石)へ栄進して、年収が500両ふえたのと同じである。
しかも、先手組頭は、俗に「番方のじじいの捨てどころ」といわれるように、下手をしても、ほとんど一生の役職である。

長谷川家が用意したのは、赤飯だけではなかった。酒肴も整えた。
祝い客を応接するためである。

真っ先にあらわれたのは、宣雄がきのうまで任じられていた小十人・5番手の組衆20人を代表して祝いの鰹節3本を持参した、与頭(くみがしら)・幸田善太郎精義(まさよし 46歳。廩米150俵)であった。幸田は、式台から上へは上がらないで、早々に引きあげた。

ちゅうすけ注】幸田善太郎については、2007年12月6日[多加の嫁入り](4) 同12月7日 (5)

居間まで案内されて、「めでたい、めでたい」といいながら、腰をおちつけたのは、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)であった。
正直とすれば、明日からの上(うえ)つかたがたへのお礼参りの人選と作法を教えるつもりなのである。
大きな声で銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)を呼びつけた。
よ。この分家から初めての先手組頭の誕生だ。の時代まで、この幸運を引き継がねばならぬ。ここへいて先手のお頭に任じられたときの作法を、覚えておくように---」

そういう、本家だって、七代目当主・太郎兵衛の一昨年夏の弓・7番手組頭が、初めての先手組頭昇進であったのだが---。

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2008.03.07

明和2年(1765)の銕三郎(その4)

「下谷(したや)新黒門町、庄平店(だな) 無職・勝次
高井同心が読みあげる。
白洲に引きすえられている勝次が、「へえ」と頭をさげる。
火盗改メ・役宅の白洲は、幅1間半(2m70cm)、奥行き2間半(4m50cm)と小さい。5人も並ぶとはみ出そうなほど。

「同じく新黒門町 新助店 講釈師・貞鵬(ていほう)こと貞五郎
「へい」

あと、3人の附紙賭博の犯人の名が確認された。

当番与力・徳田力兵衛(りきべえ 43歳)が訊問にとりかかる。
勝次。その方、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とぱく)を思いつき、糸問屋30店から屋標(店紋)の掲出料を強要したに相違ないな」

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(糸問屋屋標 左・さかえや 右・朝鮮屋『江戸買物独案内』1824刊)

勝次(かつじ 30歳)は不敵ともいえる目つきで徳田与力を見返し、
「お役人さまへ申しあげます。ただいま、掲出料を強要と申されましたが、強要などをしたおぽえはございません。
『江戸でいま評判の糸屋---』の仲間入りができるということで、先方からすすんで掲出を申しこんでまいりました。お武家さまはご存じないでしょうが、われら下(しも)つかたでは、これを商取引と申しております」
いささか、腹をたてた徳田与力が、声をやや荒立て気味に、
「これ、勝次。掲出料をあつめたことを咎めてはおらぬ。余計な講釈をするな。以後は、問いかけたことのみに返答いたせ」
「それは、お役人さまの強弁と申すものでございましょう。先刻、あなたさまは、『掲出料を強要したに相違ないな』とお問いかけになりましたから、そうはしていないとお返事しただけでございます」
「その言い分が、余計だと言っておるのだ。さらに言い立てるのであれば、拷問部屋で再吟味いたすぞ」
「へい、恐れいりましてございます」
勝次は一向に恐れ入ったふうではない。場馴れしているのである。

座敷の中央から白洲を見下ろしていた火盗改メ・組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余が、おもむろに訊いた。
「勝次とやら。30もの屋標の版木を彫らせるのはたいへんであったろう。彫師(ほりし)はどこのなんと申す職人かの?」
「は---?」
「いや。附紙の版木を彫った彫師の名をきいておる」
「お頭(かしら)さまにお伺いたします。彫師も罪になるのでございますか?」
「なに、そうは申しておらぬ。あれだけの屋標を寸分間違いなく彫るのは、さぞかし、苦労であったろうとおもい、名を訊いてみただけじゃ」
「浅草田町2丁目の裏店(うらだな)の宇吉(うきち)でございます」
「彫り賃は、いくら払ったかの?」
「3分(1両=10万円換算の4分の3=約7万5000円)でした」
「何日かかったかの?」
「なぜに、そのような---」
「さきほど、そのほうが、武家は下つかたに通じておらぬと申したゆえ、下つかたのくさぐさを学んでおるのじゃ」
「さすがは、お頭さまでございます」

「それで、ものはついでじゃが、その彫師・宇吉は、附紙を何枚もとめたかの?」
「買うはずはありません」
「ほう、なぜじゃ?」
「本あたりなどを引きあてることなど、水に映った月をすくうよりもむつかしいことを知っておりますゆえ、です」
「本あたりがでない---ことをか?」
「あッ!」
徳田与力。この者の罪状に、詐欺(かたり)が加わわらないか、再吟味いたせ」

居間へ戻って裃(かみしも)を脱いでいる太郎兵衛正直へ、銕三郎(てつさぶろう 20歳)が感に堪えた面もちで言った。
「大伯父上さま。誘い水の技(わざ)、学ばせていただきました。かたじけのうございました」
「彫師で引っかからなかったら、刷師、売り弘め人と、罠(わな)を仕かけてみるのつもりであったのじゃが---」

  

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2008.03.06

明和2年(1765)の銕三郎(その3)

太郎兵衛大伯父上さま。わざわざのお誘い、ありがとうございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、奥の書院で、判決申しわたしのために裃(かみしも)をつけている、伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 53歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)へ挨拶した。

「おう。、来たか。きょうは、しっかりと見届けるように、な」
「はい。しかし、大伯父さま。火盗改メというから、盗賊と火付けの監察が任務と思っておりました。きょうの裁きは、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)とか---」
「そうだが、それがなにか?」
「博徒の監察も、火盗改メの役目ですか?」

「むしろ、泥棒を捕まえるより、賭博者、それに場所を貸した者を裁くほうが多いな」
「賭博は、町方(町奉行所)の所轄(しょかつ)と思っておりました」
「いや、早い時期---そうだな、天和(てんな 1681~83)・貞享(1684~87)のころから賭博の取り締まりは火盗改メの仕事となった。お上では、賭博は泥棒の始まり---と観じているようでな」

歴代の火盗改メの長官(かしら)にも、賭博の取り締まりには疑問をもっていた人もいて、夜の巡行のとき、ある家の2階でお金が動いている音がしているのを聞きつけて、その家へ入り、「銭勘定も大切だが、その音で近隣が迷惑する。銭勘定は昼間になるように---」と注意しただけですました仁もいたらしい。

「しかしな、銕。見よ、奴たちの悪賢さを---」
そう言って、太郎兵衛正直は、一枚の紙---屋標附紙を銕三郎に示した。

それには、「江戸でいま評判の糸屋選び」と題して、屋標(商標)と町名、それに屋号が30ほど刷られていた。

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(糸屋屋標附紙に載っている屋標(マーク)の一部)

「役者紋附賭博は、役者の紋に棒線をつけるだけだ。ところが、この屋標附紙は、お披露目(ひろめ 広告)を兼ねておる。『江戸でいま評判の糸屋』に入るために、それぞれの糸屋は、いくらのお披露目料を出しているとおもうかね?」
「1店舗、2朱(8分の1両=約10万円として、1万2500円)あたりですか?」
「なかなか---」
「1分(ぶ =2万5000円)?」
「いやいや---その4倍」
「えっ! 1両も---」
「30の屋標がならんでいる」
「さ---30両ッ(=300万円)!」
「これ。はしたない声をだすでない。だから、この一味は悪賢いといっているのじゃ」

江戸も中期、安永(17672~80)ともなると、商業が一段と栄えていた。本町(ほんちょう)や大伝馬町、京橋あたりの表店(おもてだな)ともなれば、体面のためにも、1両のお披露目料を惜しんではいられない。
賭け屋は、そこに目をつけた。

「糸屋のこれを見逃すと、つぎは太物屋(ふとものや 木綿地の着物店)、売薬屋、菓子屋---とやられる」
「それで、屋標附紙賭博の賞金はいかほどなのでございますか?」
「本あたり10両(約100万円)。花あたりといって一つでもひっかかっていたら附紙代の購入代金の10文を返す」
「籤(くじ)の附紙は何枚刷っているのですか?」
「糸屋の場合は、1000枚だと」
「1枚10文で、売り上げ1万文=2両2分。なのに、本あたり10両とは豪儀だ」
「ほかの籤とは比べものにならない本あたりの賞金だから、人気もいちだんと湧いたのだよ。お披露目料あつめの意味が分かったか、?」

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2008.03.05

明和2年(1765)の銕三郎(その2)

「お白洲でお裁きがありますから、お立会いくだされ、と殿からの伝言でございます」
長谷川の本家---一番町新道の屋敷を火盗改メ・本役の役宅としてしている、大伯父・太郎兵衛正直(まさなお)のところの下僕が、使いに来て、そう言った。

「ほう。なんという名の盗賊一味かな?」
銕三郎(てつさぶろう)。
「申しわけございません。そのことは伺っておりませぬ。ただ、申しつかったのは、お越しくださいとのことだけでして---」
「承知いたしました、と火盗改メ・ご本役どのへお伝えを---」

指定された時刻の小半刻(30分)も前に到着すると、同心部屋へあてられている中玄関横に、顔見知りの高井半蔵が居合わせたので、
「なんという名の盗賊一味ですかな?」
同じ問いかけをしてみた。
「盗賊?」
「いや、火付けでしたか?」
「そんな大物ではございません。屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)の犯人ですよ」
「何です? 屋なんとやら賭博というのは---」
「屋標附紙賭博」
「そう、その屋標附紙賭博というのは?」
銕三郎どのは、先ごろ禁令が出された、役者紋附紙賭博はご存じでご存じでしょう?」
「存じませぬ」

歌舞伎役者の紋どころを20ばかり印刷した紙の両端に、爪楊枝の半分くらいの長さの小片を1本ずつ貼りつけておいたものを、4文とか5文で売り出し、買った者は、小片をこれと推量した役者紋の上に貼りなおして会所(売り場)へ届けておく。
受け取った書役(しょやく)は、その紙に所・氏名を書きこんで、開票の日まで保管する。
正解は、勧進元(胴元)が秘匿しており、開票日に、会所に公示、正解者には1貫文(1000文=約1万2500円)---ただし、正解者が複数のばあいは、1貫文をその人数で割って渡すという賭博である。
これだと、字の書けない者、読めない者でも賭けられるから、盛んに行われた。
たびたび、禁止令もでた。

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(役者紋の一例 畏友・大枝史郎さん『家紋の文化史』講談社より)

屋標附紙賭博は、その役者紋附紙賭博をもじった、新手(あらて)の附紙だという。
高井さま。もうすこし詳しくお教え願いませぬか?」
「白洲にお立会いになれば、たちまち、お分かりになりますよ。それまでのお楽しみということに---」

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2008.03.04

明和2年(1765)の銕三郎(てつさぶろう)

明和2年(1765)、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)は20歳であった。

昨年(1764)末、長谷川家は、南本所・三之橋通りの1236坪の敷地に、引っ越した---といっても、新築ではない。
その前に住んでいた、鉄砲洲・湊町の家を解体・運搬・組み立てたのである。
だから、敷地がほとんど3倍になったといっても、とりあえずの間取りは前の家と同じであった。
裏庭が広くなった分、実母・(たえ 38歳)と養女・与詩(8歳)が喜んだだけであった。

は、太作(たさく 65歳)などの下僕を指揮して、畑作に精を出しはじめた。
もともと、長谷川家の知行地、上総(かずさ)国千葉県)武射郡(むしゃこうり)寺崎村の育ちだけに、空地をみると畑作にしたがる気味があった。
与詩は、遊び場が広くなった分、いろんな遊びを考えだしては、日がな、遊んでいる。
そろそろ、手習い所へ通わそうと宣雄(のぶお 47歳)が言っても、一日のばしにしている。
あまりきつく言うと、お寝しょが再発するおそれがあるので、いまのところは放任されている。

『鬼平犯科帳』では、このころ、銕三郎は、継母・波津(はつ)とのおりあいが悪く、入江町の家を出て、放蕩のかぎりをつくしていたことになっている。
しかし、史実では、波津銕三郎が5歳の時に歿している。化けてでも出てこないかぎり、継子(ままこ)いじめのしよがない。
まあ、小説と史実の違いは、読み手がいってみてもはじまらない。
小説のままのほううがいいとおもう人は、そう思って、こっちを作りごとと観じながらおつきあいいただきたい。

銕三郎は、放蕩のやりようがなかった。
というのは、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭 1450石余)が、4月1日に火盗改メ・本役を命じられたのである。

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(『柳営補任』先手・弓の7番手組頭の一部)

正直の火盗改メは再任だが、前回の宝暦13年(1763)10月3日から足かけ7ヶ月間勤めたのは、助役であった。
このたびは、本役である。

太郎兵衛正直は、本家の威厳で、分家の宣雄とその継嗣・銕三郎を、一番町新道の火盗改メの役宅でもある屋敷へ呼びつけた。

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(長谷川本家・太郎兵衛正直の一番町新道の屋敷)

「どうであろうか、(のぶ 身内での宣雄の愛称)どの。(てつ)めを貸してはくれまいか?」
じつは、先年に助役を命じられた時にも、太郎兵衛は同じことを宣雄に打診し、断られている。
学問と武芸が未熟なので---というのが、断りの理由だった。

しかし、今回の太郎兵衛は、本役拝命である。少なくとも1年は勤めなければならない。
「武芸の鍛錬にさしさわりのない程度であれば、ほかならぬ本家のことですから---」
宣雄が承知したのである。
銕三郎は、内心、してやったり---と舌をだしていた。
じつは、銕三郎のほうから、大伯父の正直へ、父に内緒で申し出ていたのである。

しかし、正直宣雄も、翌日、城中で、先手・弓の8番手組頭の内示があるとは、予想もしていなかった。

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2008.03.03

南本所・三ッ目へ(10)

ちゅうすけのひとり言ふうに(その2)】「父上から教わったことは、それこそ、数えきれぬわ。『子曰く、これを知るものはこれを好む者に如(しか)ず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず』などは、おれの生き方にさえ、なっている」
長谷川平蔵宣以(のぶため 44歳 先手・弓の2番手組頭 400石)が、妻・久栄(ひさえ 小説の名 37歳)に、しんみりと、洩らした。

宮崎市定さん『論語』(岩波現代文庫 2000.5.16)の名訳から引くと、

子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ち込んで楽しむことの深さに及ばない・

父・宣雄(のぶお 当時46歳 小十人組頭)が、鉄砲洲・湊町から南本所・三之橋通りの1238坪へ引っ越した時の処置の一つを語ってのことである。

「父上は、倹約ということを、こころから楽しんでおられたのだ」
笑いながら、阿波・徳島藩(25万7000石)・蜂須賀家に、南八丁堀の同藩・中屋敷つづきに、湊町の47九坪余の拝領地を引き渡す交渉で、
阿波さま方がお望みなのは、敷地でございましょう。建物はかえって邪魔ものと存じますゆえ、当方で取り払います」
といい、棟梁に言いつけて解体し、三之橋通りへ運んで組み立ててしまった。
そのために、新築するよりも、転居が3ヶ月も早まったし、建築費用も材料費分、半減した。

いや、移転・組み立ての時に、棟梁に仰せられた父上の言葉が、いまだに耳にのこっている、と言い、宣雄の声色で、
「南本所とは言い状、深川と申したほうが正しいような所である、いつ、水が出て、冠水するやもしれぬ。家は船ではない。浮かびあがらぬよう、工夫をほどこしておいて貰いたい」
「まあ、お躰つきばかりか、お声まで、七代さま(宣雄)に似てきましたこと」
久栄は、つまらぬことに感心していた。

この挿話を記したのは、ほかでもない。
寛政2年(1790)、平蔵が老中から、無宿人のための人足寄場の創設を命じられ、大川河口の石川島にそれを建てたとき、四谷・鮫ヶ渕橋の某旗本が罪を得て廃絶になり、その家屋が競売に付されたのを、指し値に1分(1両の4分の1)上乗せして落札・解体、石川島へ運び、あっというまに組み立て、収容小屋に転用したのは、父・宣雄のひそみにならった---と言いたいがためである。

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(人足寄場が創建された石川島と深川南部 近江屋板)

さらに言うと、徳島藩の用人・五島某とのやりとりに、将軍・家治(いえはる)お側(そば)の田沼意次(おきつぐ 当時46歳 相良藩主)の手配で、用人・三浦庄司(しょうじ)が書いてくれた紹介状が大きくものいっている。

五島用人は、宣雄の言い分を、苦笑しながら、呑んだ。


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2008.03.02

南本所・三ッ目へ(9)

_100ちゅうすけのひとり言ふうに】長谷川家が、南本所・三之橋通り、現在の菊川町へ移ったことには、松平阿波家蜂須賀家)と、小普請組の桑嶋家がからんでいることを、最初の示唆されたのは、滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日新聞社 1975 のち朝日選書 中公文庫)である(『鬼平犯科帳』)の『オール讀物』連載から7年後に刊行)。

『東京市史稿 市街篇第27』を引いて、

長谷川家の屋敷が、築地湊町から本所のニッ目に移ったのは、明和元年(1764)のことで、平蔵は十九歳の秋まで築地に住んでいたのである。

これは、池波さんの『鬼平犯科帳』での入江町誕生説、目白台での死亡説を暗に意識しての文章であろう。あからさまな訂正は、あえて避けておられるやに、見うけられる。温情とも作法とも受けとれる。

滝川先生が確かめられた『東京市史稿』は、こうなっている---

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要約すると、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 無役 廩米200俵)が拝領していた南本所・三之橋通りの土地1238坪を、長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭 400石)へ譲り、長谷川宣雄は鉄砲洲湊町の479坪余の拝領屋敷を、松平阿波守重喜(しげよし 27歳 徳島藩主 25万7000石)の南八丁堀町の中屋敷へわたし、徳島藩は目黒白金の広大な下屋敷のうちから500坪の土地を桑嶋元太郎へ分与する---と、三角交換をしたということ。

ちゅうすけ付言】桑嶋元太郎の個人譜は、2008年2月25日[南本所・三ッ目へ](3)
三方相対土地替えの走り使いとして、〔丸子(まりこ)彦兵衛という、幕臣拝領地を専門にあつかう、いまでいう不動産屋も、地券(ちけん)屋として設定した。当初は「地目(ちめ)屋」ともおもったが、公儀の土地の相対を斡旋するには、もうすこし重みのある呼び名のほうがふさわしいとおもい、地券屋とした。地券とは、土地の権利書のこと。
〔丸子屋〕彦兵衛については、2008年2月23日[南本所・三ッ目へ](1)

また、桑嶋元太郎の説得役として、かの家の組頭・山口民部直郷 (なおさと 63歳 小普請支配 3000石)を捜しだした。
もっとも、慎重な宣雄のこと、桑島元太郎に上から圧力をかけては、成る話も成らないともかぎらないと読んで、手持ちの隠し玉としておくつもりであった。

ちゅうすけ付言】小普請支配・山口民部直郷の個人譜は、2008年3月1日[南本所・三ッ目へ](8)

滝川先生から貴重な教示を受けておいて、異を唱えるのはおこがましいが、宣雄が、1200余坪の屋敷地を望んだ動機を、先生は、

明和元年、宣雄が本所に千二百余坪の宅地を獲てからは、その宅地から上る地代が長谷川家の大きな財源となった。(中略)その一部を町人に賃貸して、地代を収めることが目的であり、彼は時勢の変化をよく見きわめていたか、それに応じた財政策を立てた理財家であったといわねばならない。

しかし、これには、そっと、異論をはさみたい。
先生も察しておられるが、三方相対交換とはいえ、1200余坪の土地を入手するには、よほどの増し金をはらったであろう。数百両であったろう。
その金利と、地代のあがりとどっちが大きかったろう?

ちゅうすけは、別の動機として、これまで推理してきたように、火盗改メを予想しての拷問部屋とみた。

それから、先生は、意識なさってかどう、桑嶋家が、目黒白銀に住むのではなかったらしい事実を黙殺しておられる。

『江戸幕府旗本人名事典』(柏書房 1989.6.30)の元太郎の孫・富三郎持晴(もちはる)の項である。

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屋敷が、本所林町5丁目と目黒白銀となっている。
(当分本所御蔵奉行石渡彦太夫宅同居(実家)とあるのは、桑島家へ養子へ入ったから)。

桑嶋家は、同じ天明元年に、手に入れた目黒白銀500坪の半分の250坪を、菊川町の河田孫太郎親良(ちかひさ 大番 廩米200俵)が所有していた林町の250坪の地と取り替え、そこへ住み替えている。
目黒白銀のような登城にはきわめて不便な遠隔の地との交換を許したのは、もともと、そこに住む気がなかったからともおもえる。
事実、幕末期の、松平阿波守の目黒白銀の下屋敷の一辺に名を連ねている数軒の幕臣の家々に、桑嶋河田の名はない。寛政以後、いつのころにか、売却したのであろう。
同時期の林町にも、桑嶋家と河田家の名はない。

枝葉の瑣末にすぎないが、今後の探索課題の一つではある。

ちゅうすけ付記】河田孫太郎親良は、銕太郎親茂(ちかしげ)の養子。年代的には、敷地の相対交換は親茂の時と思われる。


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2008.03.01

南本所・三ッ目へ(8)

中根さまが、父上にくれぐれもお礼を述べておいてくれ、とのことでございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)が言った中根とは、書物奉行筆頭の伝左衛門正親(まさちか 75歳 廩米300俵)のことである。
銕之助(てつのすけ)という名の長子を早くに亡くしたために、年齢からいえば孫のような銕三郎に、「銕」の字つながりで特別な感情を抱いている。

ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親については、2008年2月24日[南本所、三ッ目へ](2)

過日、伝左衛門のほうから、銕三郎を話し相手をによこしてくれ、と頼んだのである。
銕三郎には、年配者を安心させる何かがあるらしい。
年配者の対して、目から鼻へ抜けるというすばしこっさを示さない、生来の気質かもしれない。

伝左衛門宣雄に、南本所・三ッ目の1200余坪が、桑島元太郎持古(もちもと 49歳 無役 廩米200俵)の祖が拝領した地だが、いまはそこに住んではいないのではないか、と教えた。

「これを、父上にさしあげてくれ、渡されました」
銕三郎が懐から紙片を取り出した。

山口民部直郷(なおさと)どの

とあった。
ちゅうすけが柳営補任(ぶにん)』で確かめたところ、小普請(こぶしん)第20組の支配であった。

_350
(山口民部直郷とその前後の同組支配)

「桑島元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)どののお支配役と申されておりました」
「よく、お気をおまわしくださる中根どのよ」

そういうことだと、ちゅうすけも気をまわさざるをえない。
『寛政譜』から、山口民部直郷の個人譜をつくってみた。

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丹波国赤井郷の旧家・赤井の流れで、3000石の大身。この時、58歳。

「大身よのう。伝手(つで)を見つけるのが、なかなかに、むずかしい」

その夜、宣雄は遅くまで、思案をめぐらせていたが、銕三郎にいいつけるしか考えがうかばなかった。
麻布・桜田町の縁者・永倉家は同朋頭の家柄だから、宝暦(ほうりゃく)期(1751~63)の武鑑類を保存しているにちがいない---大名家はおろか、営内に勤士している旗本たちに精通していないと勤まらない職だからである。

参照永倉家については、2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
永倉家は、 『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]p59 新装版p62)

翌日、宣雄は常になく、うっかりしていて、銕三郎へ言いつけるのを忘れて出仕した。昨夜の 寝不足がたたったのであろうか。50歳に近くになると、そうしたことも翌日の躰にこたえてくる。

城中の厠(かわや)手洗(ちょうず)場で、先手組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)と行きあわせた。
参照】2008年2月[本多采女紀品(のりただ)](6)

雑談のついでに、山口民部直郷への伝手のことを口に出してみると、
「ご同役の小普請支配・有馬采女則雄(のりお 60歳 3000石)どのなら、知己だが---」
「どういう知己ですかな」
「他愛もないことでな。〔采女会(うねめのえ)〕というのがあるのよ。同名の集まりでな。そこでの顔見知り」
「いざ、という時には、よろしく、頼みます」
「それより、長谷川どの。先夜の田沼侯がお手配くだされた、ご用人・三浦どのを頼られたほうが早いかも---」
「それも、そうですな」


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