〔初鹿野(はじかの)〕の音松
長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 20歳)が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)とともに、時の火盗改メ・本役で、長谷川一族の本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)の密偵もどきをつとめることになったのは、明和2年(1764)初夏である。
『鬼平犯科帳』は、それから22年後、家督して平蔵を襲名した銕三郎は、最初は火盗改メ・助役(すけやく)、そして翌天明8年(1788)年初冬に本役(ほんやく 定役 じょうやくとも言う)についてからの物語である。
『犯科帳』に登場してくる盗賊のうち、年齢的にみて、銕三郎の密偵もどき時代には、すでに一家をなしていた者をおもいだしてみた。
『犯科帳』時代の年齢から23,4歳を差し引いてみる。さらに、江戸で活躍(?)したかどうかを推察する。
つまり、〔荒神(こうじん)〕の助太郎篇の、2匹目の泥鰌(どじょう)すくいをやってみようというわけである。
たちまち、2人(正確には4人)をおもいついた。
〔舟形(ふながた)〕の宗平と、そのお頭(かしら)だった〔初鹿野(はじかの)〕の音松。
〔蓑火( みのひ )〕の喜之助と、その配下だった〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵。
それぞれにリンクを張っておいたから、クリックして、彼らの Who's Who の概要をお読みいただくと幸い。
先頭は、〔初鹿野〕の音松---この頭領については、池波さんはほとんど記述していないから、ヘッポコ書き手としては、手をつけやすい。
出身は、甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村。石高325.67余。
昭和10年(1935)の記録では、全戸228が本農業および自作農家で、半数が養蚕をやっていたというから、音松の生家もそんな中の貧農だったと推定する。次男か三男で、田畑は分けてもらえないから、江戸へ出稼ぎにきて、裏の道へ踏み込んだが、生来の明晰、器量によって盗賊一家のお頭(かしら)にのしあがった。
配下の〔舟形〕の宗平は、寛政元年(1789)に70歳を超えて、音松一味の盗人宿(ぬすっとやど)の一つ---目黒のそれを預かっていたというから、享保のはじめごろの出生とみて、音松は宗平よりも12,3歳若いとすると、享保30年前後の生まれで、明和2年には35歳の脂ののりはじめ。もちろん、この道の経験豊富な羽州出身の宗平が軍師格で指南していたのであろう。
銕三郎と権七が〔初鹿野〕一味の探索にかかわるきっかけは、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助](2)にある。
鋭い読み手の方なら、あの日、銕三郎が、〔五鉄〕の息子・三次郎(さんじろう 15歳)にささやいたのを覚えておいでであろう。
「三(さぶ)どの。あとで手がすいたら、話があります」
銕三郎は、火盗改メの大伯父を助けて、密偵もどきをすることになったから、あやしい挙動の客がいたら、それとなく気をつけておいてほしい---と頼んておいたのである。
高杉銀平道場からの帰り道、銕三郎が〔五鉄〕をのぞくと、三次郎が裏の猫道へみちびき、〔ぐんしゃ〕という47,8の北の国のなまりのある男と、「〔初鹿野〕の」と呼ばれている30代半ばの男ことを話した。
「〔初鹿野〕の」には、甲州なまりがのこっているのが耳についた。店の板場にいる、甲州・石和(いさわ)出の男の話し方に似ている。
2人は、5日ほど前にしゃも鍋を注文し、いざ勘定という段に、「〔初鹿野〕の」のが、小粒を3個、三次郎へ渡して、
「つりは取っときな」
といったのに、すかざず〔ぐんしゃ〕が、
「おっと、もったいねえ。きちんとつりをくれ」
といいなおし、渡したつりから文銭を数枚、あらためてくれたという。
翌日も食べにきて、2階が借りられるかと聞くから、案内すると、
「料理を---と言うまで、鍋は運ぶな。酒とつまみだけでいい」
小半刻(こはんとき 30分)ほどしてから、呼ばれたので鍋と火桶を持ってあがると、
広げていた図面をそそくさとしまったという。
銕三郎が言った。
「三どの。このお店では、そこまででよろしい。これ以上、ことをすすめると、〔五鉄〕と三どのに迷惑がかかるかも知れない。あとは、一つだけ---店を出た2人がどっちの方角へ立ち去ったかだけみとどけておいてほしい」
「長谷川さま。〔ぐんしゃ〕って、なんでしょう?」
「軍(いくさ)の軍(ぐん)に、者で、軍師のことでしょう」
〔五鉄〕の2階は3部屋あり、『鬼平犯科帳』で、東に面している奥の小部屋におまさが寄留していたことになっているが、このころは三次郎が起居しており、西側の2部屋は、来店客が希望すれば、使わせていた。
(〔五鉄〕の2階見取り図 絵師:建築家・知久秀章)
【ちゅうすけ注】〔五鉄〕の1階の見取り図は、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)
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