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2007.04.29

牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)

出は讃岐国だが、先祖が駿河国今川義元・氏真に仕えて、蒲原に住したというから、今川家臣の系統。
ということでは、今川家臣で徳川へ就いた長谷川家と、まんざら、縁がないわけでもなさそうである。

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いま以上に血縁、地縁などの人間関係が重きをなした時代である。もし、徳川幕臣の中に元・今川とでもいう懇親グループがあったら、長谷川本家の太郎兵正直衛(まさなお)と顔見知りだったということも想像できて面白い。

さて、延享5年1月10日に病死するまでの権十郎宣尹(のぶただ)が属していたのは、松平長門守定蔵(さだもち)が番頭だった西丸の小姓組で、組下を実質的に取り仕切っていたのは、寛保2年(1742)から(与)を勤めていた牟礼清左衛門葛貞(800俵)だった。

牟礼清左衛門葛貞(48歳)の許へ、長谷川太郎兵衛正直(39歳)が平蔵宣雄(30歳)を同道で、権十郎宣尹の病気免職願いを提出してきた。
前年、太郎兵衛正直は、大御所(吉宗)つきの小姓組組頭になったばかりで、じつは前夜、単身で牛込築土下五軒町にある牟礼家を訪れて、病免願の上呈を打診していた。
太郎兵衛正直の長谷川本家の拝領屋敷は、外堀を隔てて牛込に近い一番町新道にあった。
石高は長谷川本家は1450石で、牟礼家の800俵よりも家格は上位にあったが、組頭の先輩としての礼をふんだのである。

宣雄を見た清左衛門が、上機嫌で言った。
「ご息災のおもむきで、なによりのこと」
権十郎宣尹のたびたびの病欠に困り果てていたことを匂わせた。
太郎兵衛正直が代弁した。
「組頭には、ご心配のかけどおしでございました。これは、ご覧のとおりに躰だけは頑健に育っております」
宣雄の父が病床にあることは伏せて、言葉をつぐ。
「これの家督のお願いもよしなにお取り計らいを」

宝暦5年(1755)
 牟礼清左衛門葛貞は先手弓の第4番組頭に(66歳)。
宝暦13年(1763)
 長谷川太郎兵衛正直は先手弓の第7組番組頭に(54歳)。
明和2年(1765)
 長谷川平蔵宣雄は先手弓の第8番組頭に(47歳)。

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