明和2年(1765)の銕三郎(その9)
「鉄砲(つつ)組には、古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)どののような、歴史学者や埼玉県の教育委員会を喜ばすような仁がいてよろしいな。残念ながら、弓組には---」
こんなことを、弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)が口に出すはずはない。
言ったのは、こうである。
「本多(采女紀品 のりただ)どの。鉄砲組は、20組中8人の組頭が70歳をこえておられると慨嘆なされたが、うっかり、弓組も、お一人漏らしておりましたよ」
4番手
牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳 9年 800石
(牟礼清左衛門葛貞の個人譜)
「今川家ゆかりの集まりでも、いつも、部屋の隅で静かに、みなの話すことを聞いておられるだけなので、つい、忘れてしまうのです」
「そういえば、躑躅(つつじ)の間でも、たえて、お声を聞いたことがありませぬな」
本多紀品(53歳 鉄砲の16番手組頭 2000石)が応じる。
「牟礼(むれい)さまは、今川出身でございましたか?」
佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番 1100石)も言葉をはさんだ。
家系譜には、今川に属していたときには駿河の蒲原(かんばら)の城代をずっと勤めていたとある。
義元・氏真(うじざね)が滅んだのちには、織田右府(うふ 信長)に仕え、その後、徳川家康の傘下に入った。
蒲原という地勢からいって、どうして、じかに家康に結びつかなかったのか、そのあたりの動きが不明である。
【ちゅうすけ注】『延喜式』に牟礼神(むれのかみ)が所出しており、摂津国島下郡、伊勢国多気郡の牟礼神社があるらしい。 『旧高旧領取調帳』の信濃国水内郡(みうちこおり)に牟礼(むれ)村(現・長野県上水内郡飯綱町牟礼)が記録されているが、今川系の牟礼(むれい)家とは直接にはつながるまい。
むしろ、牟礼家は、同じく今川家に仕えていて、のちに徳川に属した岩瀬家とのえにしが深い。幕臣・岩瀬の分家の一つの主が、古郡家のむすめを娶っているのも、なにかの因縁を感じる。夫・氏長(うじなが)は失心して長男を斬殺し、自裁をしているのだが。
葛貞は岩瀬の出ではなく、牟礼家から出て大久保加賀守忠方(ただまさ 小田原藩主 11万3000石)の家臣となっていた、牟礼九右衛門正賀(まさよし)の息で、25歳で幕臣・牟礼家の養子に入った。
先祖が、織田右府から徳川に付いたとき、大久保忠世の組へ入れられたのかもしれない。
「先祖が、今川滅亡ののち、織田右府さまを経てから葵(とくがわ)の陣営に転じたことも、清右衛門葛貞どのが肩身を狭くしておられるのでありましょうか?」
これは銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの平蔵宣以=小説の鬼平)の問いであった。
「いや。胃の腑に持病があって、いつもそのことを気に病んでおられると、ふと、うけたまわったことがある」
答えたあと、太郎兵衛正直は、
「やや。五ッ(午後8時をすぎてしまった。おもわずの長居、妙(たえ)どのに、いかい迷惑をおかけした」
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