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2008.03.14

ちゅうすけのひとり言(10)

父・長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳)が、先手・弓の8番手の組頭に抜擢された明和2年(1765)4月---。

同じ先手ではあるが、鉄砲(つつ)のほうの15番手の組頭に、82歳になる古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)という篤実で切れ者がいた。
『寛政重修諸家譜』から[個人譜]をつくって読んでいるうちに、驚くべき文言(もんげん)に目がとまった。

(享保)十五年(1930)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

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(新墾田分の返還を受けたことを記した古郡年庸の個人譜)

あらためて、『寛政譜』を開く。
小野朝臣の流れらしく、小野一門の中に、古郡家が1家だけある。

太田亮博士『姓氏家系辞書』(秋田書店 1974 12.15)には、
 武蔵【春日氏族、横山党】となっている。
一族のうち、古郡村に住んでいた者がいるにちがいない---と見当をつけて、グーグルの[旧高旧領]に、「古郡」といれてみる。

武蔵には1ヶ所---那賀郡(なかこおり)古郡(ふるこおり)   岩鼻郡

旧高旧領取調帳 関東篇』(近藤出版社 1969.9.1)の那賀郡をみる。
秋山、小平、円良田、猪俣、甘粕、古那(古郡の誤植か?)、駒衣などの村々が並んでいる。
古郡はない。

ふたたび、勘で、グーグルに、[古郡 埼玉県]。
出てきた。埼玉県 児玉郡 美里町 古郡。
まだ、合併・市化していないらしい。

郵便番号帳』で確認すると、甘粕も、駒衣も、古郡も、いまも存在している。
グーグルの地図だと、八高線「松久」駅の北東。
八高線の先に「寄居」駅が---。

_100記憶がある。
池波さんの旅のエッセイ集『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)の〔京亭〕だ。
こんなふうに書き出されていた。

三年ほど前に、甲賀の忍びの者を主人公にした新聞連載小説を書いたとき、前半の背景を武州(埼玉県)の鉢形(はちかた)城にしようとおもい、泊りがけで、城址を見にでかけた。
その小説の一節を、抜き書きにしてみよう。
 埼玉県の北西部にある寄居(よりい)町は、秩父(ちちぶ)市の北東に位置している。
 奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞(ながとろ)を流れてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある。
 駅前から南へ通ずる通りの両側は、美しい柳の並木だ。
 この通りを十五分も行くと、荒川に架(か)かる正喜橋のたもとへ出る---。

「はて、どの甲賀忍者ものだったっけ?」
書庫の文庫棚で、甲賀ものをめくりはじめる。
「いかん!」
寄居に寄り道をしている場合ではない。
小説の題名は、このブログを読んだ池波ファンが教示してくださるだろう。
いまは、古郡孫大夫に専念するときだ。

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(古郡家の〔『寛政譜』)

上段・緑○が年庸。その右の●がついているのが、徳川家康の麾下に入ってからの三代目当主・文右衛門年明である。家譜に記された、父・年明の記録を読んでみた。

元禄五年(1692)駿河国の支配所を転ぜらるるにより、祖父重政がとき賜ふところめの新墾田の十が一を収めらる。

要するに、初代の祖父・庄右衛門重政(しげまさ)が、駿河のどこかの代官をしていたときに、富士郡加嶋で新しく6500余石を開墾した功績で、その(5割の公収分にあたる)10分の1相当の現米320余を年々下賜されていたのを、取りやめられたわけである。
(富士郡加嶋もしらべねば---)

理由は明らかでない。重政の代官としての家禄は廩米50俵ほどであったらしいから、この320俵の下賜は大きかった。
家禄は100俵になってはいたが、その5O余年後に取り消されるのは、あまりにも痛手が大きい。察するに、文右衛門年明は、代官として不手際があったか、80歳という老齢が原因だったか。

継嗣・孫大夫年庸は、身を粉にして篤実に勤めながら、たびたび請願していた10分の1---320余石を36年後に首尾よく取り戻したのである。まずは、めでたい。

長谷川平蔵関連を仔細に調べていると、こういう幸運に出会う。
古郡家などという、幕臣の端っぽほどの人物は、ふつうは、だれも目もくれまい。だぶん、美里町教育委員会も見のがしているであろう人物である。

ところが、ライトをあててみると、徳川初期には、代官が新田を、たぶん自費で開墾すると、その10分の1にあたるものを、ある年数、給付する制度があったらしいこと。
また、その権利は、50年ほどで消滅することもあったらしいこと。
さらには、その復活のありえたこと。

また、徳川初期の代官の家禄が50俵程度の仁もいたらしいこと。
つまり、あとは、才覚で管理をまかされている村々からしぼりとれ---ということだったのかもしれない。

小説的には、古郡孫大夫年庸の悲願みたいなものも感じとれる。
いやあ、おもしろ---くないですか?

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コメント

池波さんが、寄居の鉢形城を登場させた連載小説が分かりました。
〔京屋〕について書いたのが『太陽』誌の1969年から71年にかけてと、『よい匂いのする一夜』の筒井ガンコ堂さんの巻末解説にあったので、年譜でその3年前をあたってみたら、『読売新聞』夕刊に『忍びの旗』が連載されていました。
連載はその後、新潮社から単行本、文庫と出ています。引用の文章は、巻の初めのほうの[その夜]の章に。

投稿: ちゅうすけ | 2008.03.15 07:09

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