明和2年(1765)の銕三郎(てつさぶろう)
明和2年(1765)、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)は20歳であった。
昨年(1764)末、長谷川家は、南本所・三之橋通りの1236坪の敷地に、引っ越した---といっても、新築ではない。
その前に住んでいた、鉄砲洲・湊町の家を解体・運搬・組み立てたのである。
だから、敷地がほとんど3倍になったといっても、とりあえずの間取りは前の家と同じであった。
裏庭が広くなった分、実母・妙(たえ 38歳)と養女・与詩(8歳)が喜んだだけであった。
妙は、太作(たさく 65歳)などの下僕を指揮して、畑作に精を出しはじめた。
もともと、長谷川家の知行地、上総(かずさ)国千葉県)武射郡(むしゃこうり)寺崎村の育ちだけに、空地をみると畑作にしたがる気味があった。
与詩は、遊び場が広くなった分、いろんな遊びを考えだしては、日がな、遊んでいる。
そろそろ、手習い所へ通わそうと宣雄(のぶお 47歳)が言っても、一日のばしにしている。
あまりきつく言うと、お寝しょが再発するおそれがあるので、いまのところは放任されている。
『鬼平犯科帳』では、このころ、銕三郎は、継母・波津(はつ)とのおりあいが悪く、入江町の家を出て、放蕩のかぎりをつくしていたことになっている。
しかし、史実では、波津は銕三郎が5歳の時に歿している。化けてでも出てこないかぎり、継子(ままこ)いじめのしよがない。
まあ、小説と史実の違いは、読み手がいってみてもはじまらない。
小説のままのほううがいいとおもう人は、そう思って、こっちを作りごとと観じながらおつきあいいただきたい。
銕三郎は、放蕩のやりようがなかった。
というのは、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭 1450石余)が、4月1日に火盗改メ・本役を命じられたのである。
(『柳営補任』先手・弓の7番手組頭の一部)
正直の火盗改メは再任だが、前回の宝暦13年(1763)10月3日から足かけ7ヶ月間勤めたのは、助役であった。
このたびは、本役である。
太郎兵衛正直は、本家の威厳で、分家の宣雄とその継嗣・銕三郎を、一番町新道の火盗改メの役宅でもある屋敷へ呼びつけた。
(長谷川本家・太郎兵衛正直の一番町新道の屋敷)
「どうであろうか、宣(のぶ 身内での宣雄の愛称)どの。銕(てつ)めを貸してはくれまいか?」
じつは、先年に助役を命じられた時にも、太郎兵衛は同じことを宣雄に打診し、断られている。
学問と武芸が未熟なので---というのが、断りの理由だった。
しかし、今回の太郎兵衛は、本役拝命である。少なくとも1年は勤めなければならない。
「武芸の鍛錬にさしさわりのない程度であれば、ほかならぬ本家のことですから---」
宣雄が承知したのである。
銕三郎は、内心、してやったり---と舌をだしていた。
じつは、銕三郎のほうから、大伯父の正直へ、父に内緒で申し出ていたのである。
しかし、正直も宣雄も、翌日、城中で、先手・弓の8番手組頭の内示があるとは、予想もしていなかった。
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