南本所・三ッ目へ(8)
「中根さまが、父上にくれぐれもお礼を述べておいてくれ、とのことでございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)が言った中根とは、書物奉行筆頭の伝左衛門正親(まさちか 75歳 廩米300俵)のことである。
銕之助(てつのすけ)という名の長子を早くに亡くしたために、年齢からいえば孫のような銕三郎に、「銕」の字つながりで特別な感情を抱いている。
【ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親については、2008年2月24日[南本所、三ッ目へ](2)
過日、伝左衛門のほうから、銕三郎を話し相手をによこしてくれ、と頼んだのである。
銕三郎には、年配者を安心させる何かがあるらしい。
年配者の対して、目から鼻へ抜けるというすばしこっさを示さない、生来の気質かもしれない。
伝左衛門は宣雄に、南本所・三ッ目の1200余坪が、桑島元太郎持古(もちもと 49歳 無役 廩米200俵)の祖が拝領した地だが、いまはそこに住んではいないのではないか、と教えた。
「これを、父上にさしあげてくれ、渡されました」
銕三郎が懐から紙片を取り出した。
山口民部直郷(なおさと)どの
とあった。
ちゅうすけが『柳営補任(ぶにん)』で確かめたところ、小普請(こぶしん)第20組の支配であった。
(山口民部直郷とその前後の同組支配)
「桑島元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)どののお支配役と申されておりました」
「よく、お気をおまわしくださる中根どのよ」
そういうことだと、ちゅうすけも気をまわさざるをえない。
『寛政譜』から、山口民部直郷の個人譜をつくってみた。
丹波国赤井郷の旧家・赤井の流れで、3000石の大身。この時、58歳。
「大身よのう。伝手(つで)を見つけるのが、なかなかに、むずかしい」
その夜、宣雄は遅くまで、思案をめぐらせていたが、銕三郎にいいつけるしか考えがうかばなかった。
麻布・桜田町の縁者・永倉家は同朋頭の家柄だから、宝暦(ほうりゃく)期(1751~63)の武鑑類を保存しているにちがいない---大名家はおろか、営内に勤士している旗本たちに精通していないと勤まらない職だからである。
【参照】永倉家については、2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
(永倉家は、 『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]p59 新装版p62)
翌日、宣雄は常になく、うっかりしていて、銕三郎へ言いつけるのを忘れて出仕した。昨夜の 寝不足がたたったのであろうか。50歳に近くになると、そうしたことも翌日の躰にこたえてくる。
城中の厠(かわや)手洗(ちょうず)場で、先手組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)と行きあわせた。
【参照】2008年2月[本多采女紀品(のりただ)](6)
雑談のついでに、山口民部直郷への伝手のことを口に出してみると、
「ご同役の小普請支配・有馬采女則雄(のりお 60歳 3000石)どのなら、知己だが---」
「どういう知己ですかな」
「他愛もないことでな。〔采女会(うねめのえ)〕というのがあるのよ。同名の集まりでな。そこでの顔見知り」
「いざ、という時には、よろしく、頼みます」
「それより、長谷川どの。先夜の田沼侯がお手配くだされた、ご用人・三浦どのを頼られたほうが早いかも---」
「それも、そうですな」
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