銕三郎、脱皮(4)
「ほう。信香院へも、熊野神社へも詣でてきたとな」
長谷川讃岐守正誠(まさざね)は、感に堪えたような声をあげた。
牛込(うしごめ)納戸町の4070石の屋敷である。
報告しているのは、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)。駿州・田中藩城下へ行ったついでに、瀬戸川下の小川(こがわ)まで足をのばしたことを告げた。
長谷川家は、藤原秀郷(ひでさと)の末裔が大和国の初瀬(はせ)へ移り住み、長谷川を称したことになっているが、歴史に名をだすのは、駿河国の小川の豪族・法栄長者としてである。
最近、小川城の遺跡が発掘され、今川家の支配下にあったことが証明された。
『小川町史』によると、小川城が大永6年(1521)、水野、吉川、多々羅、山内らの謀反によって落城、熊野へ落ちた長谷川元長(もとなが)が、今川義元(よしもと)のもとへ立ちもどった時に、熊野権現から3社を勧請・祭祀したことになっている。
また、信香院は、法永長者の孫とも曾孫ともいわれている紀伊守(きのかみ)正長が、弟・藤五郎とともに遠州・浜松郊外の三方ヶ原で戦死したその遺体を葬ったと。
(信香院の山門)。
「したが、大叔父さま。その墓は、150年のあいだに見るかげもなく朽ちておりました。銕三郎、悲憤の念にくれましたこと、申すまでもございません」
銕三郎としては、餞別を1両ももらっている手前、慷慨して見せざるをえない。
「長谷川家の者として、悲しいのお。どうであろ、三郎助。わが家で墓石を新しく建立しては---」
正誠が、養子の正脩(まさむろ)に問いかけた。正誠はすでに致仕していて64歳。じつは正誠も分家(500石)からの養子で、正脩は実弟である。正脩は49歳。まだ、お上に召されていない。
「当家が手配するのはいと易(やす)きことなれど、ご本家の小膳正直(まさなお)どのの面子(めんつ)もありましょうほどに---」
けっきょく、正誠も正脩も動かず、信香院に紀伊守<strong>正長の墓を新しく建立したのは、正脩の嫡子・栄三郎正満(まさみつ)の時であった。さらに後日談をいうと、銕三郎(平蔵宣以)の次男・正以(まさため)が正満の養子に入って4070石の長谷川家を継いだ。
「それにしても、銕三郎は、こたびの旅で、見違えるほどの若者ぶりになったものよのう」
軽い咳をおさえながらいう正誠の背を、正脩夫人がさする。
「大叔父さま。持参いたしました〔ういろう〕は、咳にも即効がございまようです。早速に温湯(ぬるまゆ)でお召しください」
すすめながら銕三郎は、三島でのあの夜、噴射して果ててかぶさった背中を、お芙沙がやさしく爪を立てながら愛撫してくれた感触を思いだしていた。
と、とつぜん、股間にきざしてきたので、あわてて辞意を告げる。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙] (2)
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