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2008.03.09

ちゅうすけのひとり言(8)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が弓の8番手の長に発令された明和2年(1765)4月11日現在の、先手組の組頭を調べるべく、『寛政譜』22冊と、『柳営補任』第3巻を手元におろした。
先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の終着駅近く---「番方のじじいの捨てどころ」とはやされていたというが、ほんとうにそうだったのか、リストをつくってみるためである。

というのも、平蔵宣雄がこの職についたのは、47歳であった。
いくら人生50年と言われた時代とはいえ、この齢(とし)で〔じじい〕呼ばわりはひどすぎるとおもった。

先手組は、弓が10番手まで10組。
鉄砲(つつ)が20番手まで20組。
西丸に鉄砲組が4組。
宣雄の時代は計34組あった。
戦力としてではなく、武芸の格からいって、弓組が鉄砲組の上に座す。

いや34組しかなかったというべきかも知れない。
ひとたび組頭の席へ座ると、役高1500石に未練があるのか、老齢になっても自分からは辞るとは、なかなか、言い出さなかったという。だから、席が空かない。「じじいの捨てどころ」と皮肉られた所以(ゆえん)であろう。

とりあえず、平蔵宣雄の発令日の、弓組10人の年齢とそれまでの在任年数、家禄を調べてみた。

1番手
 松平源五郎乗通(のりみち)  73歳  12年  300俵    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  75歳   2年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  56歳   5年  1500石

4番手
 牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳  9年   800石

5番手
 笹本靱負佐忠省(ただみ)    54歳  2年  500俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   58歳  1年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)53歳  2年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    47歳      400石

9番手
 桜井監物依勝(よりかつ)     55歳  3年 1300石

10番手
 瀬名孫助貞栄(さだよし)     75歳   3年  200俵
 
年齢は、最長老が75歳が2人。70代ということでみると4人と、けっこう老けている。
体力には個人差があるとはいえ、70代で先手の長として、最前線で戦えるかというと、いささか首をかしげたくなる。
まあ、宣雄のように40代が入ってきたから、平均では56.8歳。それでも人生50歳から見ると、宣雄以外は亡者の集まりといわれても仕方があるまい。


【ちゅうすけ注】笹本靱負佐忠省の個人譜は、2008年2月10日[本多采女紀品](2)
牟礼清左衛門葛貞は、先手組頭の前は、宣雄の従兄で六代目当主・権十郎(小説では修理)宣尹(のぶただ)の西丸小姓組与頭(くみがしら)だった。200年4月29日[牟礼清左衛門葛貞]

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コメント

昭和初午会のメンバーの端っこにふら下がっている。昭和5年生まれの会で、竹村健一氏、渡辺昇ー先生、日下公人氏、三宅久之氏など。
高級官僚出身の、鎌倉節氏(宮内庁元長官)、佐々淳行氏(警察庁から元防衛庁出向。危機管理の専門家)、岡崎久彦氏(元外務省)の話を聞いていると、省が異なっても、互いに官僚の名と来歴をじつに詳しく知っていて口にするので、驚いている。
徳川幕府の幕臣たちも、上に行くほど、互いに知り合い、記憶しあっていただろうなと想像している次第。
官僚は人事ニュースに敏感なんだなあと。いや、官僚にかぎらないか。男のサガかな。

投稿: ちゅうすけ | 2008.03.09 17:27

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