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2008.03.08

明和2年(1765)の銕三郎(その5)

徳川の正史ともいうべき『徳川実紀』の明和2(1765)年4月11日の項に、こう記されている。

小十人頭長谷川平蔵宣雄。西城徒頭浅井小右衛門元武は先手頭となり。書物奉行深見新兵衛は西城裏門番の頭となり、小納戸中野監物清方は小十人頭となる。

長谷川宣雄(のぶお 47歳)は、弓の8番手。
浅井元武(もとたけ 56歳 540石余)は、鉄砲(つつ)の21番手---というより、西丸の4組の中の1番手といったほうがあたっている。西丸の4組の先手はすべて鉄砲組である。

平蔵宣雄が数日前に、先手頭への昇進の予告を受けたのは、8番手の前任の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)が旬日前に小普請奉行へ栄転していたからである。

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(先手弓の14番手組頭 本多讃岐守と長谷川宣雄)

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年2月12日[本多采女紀品](4)を参照。

長谷川家では、その夜、赤飯で祝った。それだけの価値はあった。
小十人頭の役高は1000石、先手の組頭のそれは1500石。家禄の400石を越える増収だからである。

ちゅうすけ注】家禄1石は、年収1両にあたると見ておけばいい。役高1500石は、それがまるまる貰えるわけではなく、宣雄の場合は、1500石からか家禄400石を差し引いた差額の1100石の足高(たしだか)を支給される。知行の1石は廩米1俵に相当するから足高は、玄米で1100俵がくだされるとみておいてよかろうか。
1俵も1両とみなす。
1両は、2008年3月8日現在の諸物価の状態で、10万円とみなすのが素直である。

つまり、宣雄は、小十人頭(役高1000石)から先手組頭(同1500石)へ栄進して、年収が500両ふえたのと同じである。
しかも、先手組頭は、俗に「番方のじじいの捨てどころ」といわれるように、下手をしても、ほとんど一生の役職である。

長谷川家が用意したのは、赤飯だけではなかった。酒肴も整えた。
祝い客を応接するためである。

真っ先にあらわれたのは、宣雄がきのうまで任じられていた小十人・5番手の組衆20人を代表して祝いの鰹節3本を持参した、与頭(くみがしら)・幸田善太郎精義(まさよし 46歳。廩米150俵)であった。幸田は、式台から上へは上がらないで、早々に引きあげた。

ちゅうすけ注】幸田善太郎については、2007年12月6日[多加の嫁入り](4) 同12月7日 (5)

居間まで案内されて、「めでたい、めでたい」といいながら、腰をおちつけたのは、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)であった。
正直とすれば、明日からの上(うえ)つかたがたへのお礼参りの人選と作法を教えるつもりなのである。
大きな声で銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)を呼びつけた。
よ。この分家から初めての先手組頭の誕生だ。の時代まで、この幸運を引き継がねばならぬ。ここへいて先手のお頭に任じられたときの作法を、覚えておくように---」

そういう、本家だって、七代目当主・太郎兵衛の一昨年夏の弓・7番手組頭が、初めての先手組頭昇進であったのだが---。

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