明和2年(1765)の銕三郎(その6)
南本所・三之橋通りの長谷川邸の書院---平蔵宣雄(のぶお 47歳)が先手・弓の8番手の組頭を発令された夕刻である。
本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳)が祝辞を兼ねて、挨拶まわりの作法を伝授しにきている。
正直は、2年前から、弓の7番手の組頭を勤めていた。
「若年寄どのの上屋敷へは、明日にでもお礼に参上することだ。献上品はかつお節を3本ずつ。ととのえるのは、日本橋瀬戸物町の〔かねにんべん〕こと、伊勢屋伊兵衛方で、背筋2本に腹筋1本と指定して箱詰めにすること。
くれぐれも薩州産はさけ、土州ものか紀州ものと指定するのを忘れるでない」
太郎兵衛の注意はゆきとどいている。
(屋標=かねにんべんの〔伊勢屋〕 間口は24間(44m)もあった)
銕三郎(てつさぶろう)が口をはさんだ。
「大伯父上さま。どうして薩州ものをさけるのでございますか?」
「おお、そのことよ。関ヶ原以来の暗黙のことでな」
「薩摩沖のかつおは早獲れで若すぎるのかと存じておりましたが、関ヶ原でしたか。しかし、うらんでいるのは、鹿児島一藩にとじこめられた薩州のほうでしょうに---」
「これ。めったなことを口にするでないッ!」
「はい」
「銕(てつ)よ。若年寄のお歴々のお名をいうてみい」
銕三郎は、封地、石高まで諳(そら)んじた。
(明和2年での年齢は、ちゅうすけが補った)。
小出伊勢守英持(ふさよし 60歳) 丹波・園部藩2万6000石
松平宮内少輔忠恒(ただつね 49歳) 上野・篠塚藩1万200石
水野壱岐守忠見(ただちか 46歳) 安房・北条藩1万5000石
酒井石見守忠休(ただよし 65歳) 出羽・松山藩2万5000石
鳥居伊賀守忠意(ただおき 49歳) 下野・壬生藩3万石
「銕は、ようできた。ところで、宣(せん 宣雄)どの。組頭の方々へのお披露目だが、小十人組のときは?」
「つい先ごろお亡くなりになった佐野大学為成(ためなり 当時の2番組の頭)どのが長老格で、そのお屋敷が北本所・南割下水にあったものですから、近いところということで、東両国の駒留橋脇の〔青柳(あおやぎ)〕にいたしました」
「佐野どのは、去年、先手・鉄砲(つつ)のお頭になられたばかりなのにのう。月番だったので、西久保の天徳寺のご葬儀に参列したのだが、61歳だったとか。天命だから仕方がないが---。それはともかく、〔青柳〕とは張りこんだものよ」
「このたびは、いかがいたせばよろしいでしょう?」
「長老・瀬名(孫助貞栄 さだよし)どのの屋敷は、四谷追分でな。そこに近いところというと、四ッ谷あたりになるが---」
「長老ということでは、古郡(ふるこおり 孫大夫年庸 としつね)どのが---」
「あいや、失礼した。弓は弓同士、鉄砲は鉄砲同士というのが、先手のしきたりなのじゃ」
「それは助かります。34名の宴会ともなれば、100両がとこ軽く吹っ飛ぶと、ひやひやしておりました。で、四ッ谷あたりでよろしいので?」
「いや。長老、次老のご老体お2人はご出席になるまい。あとで、ご挨拶の品をとどけておけばよろしい。三老・松平(源五郎乗通 のりみち)どのは小石川七軒町だが、宴後に駕籠でお送りする手もある」
「市ヶ谷八幡社境内の〔万屋〕ではいかがでしょう?」
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻4[おみね徳次郎]の女盗・おみねが座敷女中をしていたのがこの〔万屋〕だし、巻6[狐火]では、鬼平がおまさをここの座敷へ呼び出すから、ちゅうすけとしては、〔万屋〕にしてほしかったのだが---。
「〔万屋〕も悪くはないが、石段がきつい。どうであろう、飯田橋中坂下の〔美濃屋〕では? ここも小石川には遠くないし、お城からも田安門からも近い」
「お頭衆に失礼でなければ---」
「なにが失礼なものか。水戸家、一橋家の御用達(ごようたし)の料亭じゃ」
(九段坂の北隣の中坂下の〔美濃屋〕 『江戸買物独案内』)
「ところで、宣どのも、先刻ご承知のとおり、大権現(家康)さまの最初のご内室---築山さまは、瀬名家の出で、今川家とのえにしが濃いお家柄。このこと、銕もよくよく心得ておくように」
「はい」
【ちゅうすけ注】長谷川家は、大和・初瀬(はせ)の出と記録されているが、いつのころにか、駿河・小川(こがわ)の豪族となって今川家に属した。
今川義忠が一揆のために塩貝坂で戦死したとき、法栄長者が幼い継嗣・竜王丸をかばったことが司馬遼太郎さん『箱根の坂』に書かれている。法栄長者の孫か曾孫が、三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)である。
法栄長者については、2007年6月7日[田中城しのぶ草](9)
2007年8月8日[銕三郎、脱皮](4)
SBS学苑パルシェ(静岡駅ビル7F)で、5年來つづけている[鬼平]クラスで、ともに学んでおり、駿河の長谷川遺跡---小川(こがわ)の信香院(長谷川紀伊守正長の墓碑がある)、小川城址、法永長者が開基し、夫妻の墓碑もある林臾院などについて教えてくださっている中林氏は、静岡市北東部の瀬名にお住まいなので、瀬名家には特別の興味を持ってきた。
中林氏によると、益津郡田中城(現・藤枝市)を守っていた長谷川紀伊守正長は、武田信玄方の数万の軍勢に攻められ、衆寡敵せずと観音山へこもり、のち一族は浜松へ走って徳川家康の麾下へ入った。そのとき、幼児だった弟を瀬名村へひそかに落とした。この家がいまでも中川を名乗る旧家と。姓を変えたのは、武田軍の追及をのがれるためだったが、小川の「川」と、田中城の「中」をとっての隠れ姓とも。
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