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2007.06.06

佐野与八郎政信(2)

宝暦8年(1758)暮れ。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は再び、一門中の大身・讃岐守正誠(まさざね)を、御納戸町の敷地が3000余坪もある屋敷に訪ねていた。
伺いを立てたところ、「毎日が休日で退屈している隠居の身じゃ。話相手がきてくれると助かる」との返事を小者が持ちかえったのである。

佐野与八郎政信(まさのぶ)どのがことなあ。かすかに覚えているが、佐野どのがどうかしたか?」
田中藩の元藩主・本多因幡守正珍(まさよし)侯から、曾孫の与八郎政親(まさちか)の指南役を頼まれた経緯を打ちあけると、正誠は、
「うーむ」
うなったきり、しばらく、宣雄の顔を凝視していたが、部屋から立った。

樹々の多い庭で、気の早い鶯が、まだよくまわらぬ舌で、キキョ・ケキョと鳴いた。

戻ってき正誠老の手には、数冊の古い日録が乗っていた。

「50年前の宝永5年(1708)じゃから、それがしは、御目見(おめみえ)もまだの部屋住みの身であった。そうさな、前髪を落としたかどうかという年齢であった。祖父・正明(まさあきら)が致仕した年だから、覚えている。いや、違った---祖父の致仕は、宝永元年(1704)じゃった。まず、そのときのことから話そう」

宝永元年8月2日、5人の幕臣が〔奉職無状〕---職務を遂行していない、との理由で小普請へ落とされた。

普請奉行 奥田八郎右衛門忠信(ただのぶ) 
       60歳 3300石
先手組頭 中島孫兵衛盛忠(もりただ)
       49歳 500石
同      宮崎甚右衛門重広(しげひろ)
       年齢不詳 300石
同      津田三左衛門正氏(まさうじ)
       51歳 1200石
目付    多門伝八郎重共(しげとも)
       46歳 700石

このうち、罷免の内容がはっきりしているのは多門伝八郎重共で、目付に発令されたが就任を拒否したのである。幕臣の非理を探索するのに耐えられないと告げた。
先手組頭の3人は、推測するに、出仕もかなわないほどの病床にありながら、足(たし)高に未練があって辞表を提出しなかったために、同僚の組頭が上訴したと推測された。
普請奉行の奥田忠信は不適任であったのであろう。収賄だと、小普請落ちではすまない。 

〔奉職無状〕が、それから4年後の宝永5年6月23日に、またも発せられた。

普請奉行 甲斐庄喜右衛門正永(まさなが)
       48歳 4000石
大目付   安藤筑後守重玄(しげはる)
       60歳 1400石
小姓番頭 阿部壱岐守正員(まさかず)
       44歳 2000石
先手頭   大岡次右衛門忠久(ただひさ)
       66歳 700石
同      佐野与八郎正信(まさのぶ)
       64歳 1100石
山田奉行 長谷川周防守勝知(かつとも)
       62歳 3100余石

佐野どのの理由はなんだったと、先々代どのはおっしゃっていましたか?」
「いや。聞いてはいないが、やはり、辞職願いの出しそびれでは---。その後、佐野どのの致仕前に柳営でちらっとお姿を見かけたが、病身には見えない、武者らしい大柄の仁であったな」

宣雄は、佐野正信の年齢を先日会った与八郎正親に重ねてみたが、〔奉職無状〕の原因は推測できなかった。

翌宝暦9年(1759)の新年の行事がすっかり終わったころ、佐野与八郎政親が、築地鉄砲洲の長谷川家を訪ねてきた。そのころ佐野家の屋敷は二番町にあった。

数奇屋河岸の菓子舗〔林氏塩瀬〕の練菓子を差し出した。ここは、明国から渡来した菓子杜氏(とうじ)が、京菓子とは異なる逸品をつくっていた。

銕三郎は、男の兄弟に恵まれておりませぬ。兄者として、きびしくご指導いただきたい」
「わたくしも一人子同様なのです。弟がおりましたが、早くに逝きました。銕三郎どのを実の弟と思わせていただきます」
そういわれても銕三郎は、突然に現れた、年齢差の大きい兄を、どうあつかったものか、困惑して、かしこまっているのみだった。

四方山ばなしのついでのような形で、宣雄がさりげなく問うた。
「曾祖父・政信どのが、先手組頭を免じられたのは?」
与八郎はこだわっていなかった。
「祖父・政春から聞いておりますのは、犬公方(いぬくぼう・綱吉)さまに関係する不祥事だったそうです。先手組頭同役の大岡次右衛門忠久どのが、先手でよかった、中野の犬小屋の組頭へまわされた某はくさりきっている---といわれたのに、曾祖父が、なるほど、と合いづちをうったのを、告げ口されたらしいのです。奇妙な世には奇妙な仁が現われますようで---」
と笑った。
「犬公方さまがお逝きになる半年前とは、よりによってご不運な---」
宣雄が受ける。

【つぶやき】〔みやこのお豊〕さんから、2007年6月5日[佐野与八郎政親]の項に、駿河城番をやったという、与八郎政親の祖父・政春『寛政譜』も読みたい---とのコメントをいただいた。

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(享保11年の武鑑l)

長谷川家にかかわりができた与八郎政親に家督をゆずったのは祖父・政春だから、この際、掲示しておくのも何かの参考とおもったので、掲げた。

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ついでといってはなんだが、家督することも出仕することもなく42歳で逝った、政親の父・政隆(まさたか)の『寛政譜』もあわせて掲げておこう。
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コメント

佐野与八郎家の家系を理解いたしました。

佐野正親と長谷川家とのこれからの関わりが待ち遠しいです。

投稿: みやこのお豊 | 2007.06.06 07:39

『徳川実紀』宝永の5年間を読んでいて、〔奉職無状〕という言葉に出会ったのは、なんとも幸運でした。
〔職務怠慢〕とでもいうのでしょうか。

『寛政譜』では、〔稱(称)はず〕と書いています。「かなわず」とでも読むのでしょうね。

その地位、職階、立場を全うする能力に欠けているとか、『御定書(おさだめがき)』(職務表)にかなっていない、ふさわしくない仕事ぶり---なんでしょう。
しかし、そういうことって、先手組頭ぐらいから下位の人物は、目付あたりが噂をひろってくるのでしょうか。
いや、噂収集は、目付の下の小人目付かな。

投稿: ちゅうきゅう | 2007.06.07 08:31

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