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2004.12.25

〔雨乞(あまご)い〕庄右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収録[雨乞い庄右衛門]の主役。
〔夜兎〕角右衛門に仕込まれた本格派。心臓に疾患がある。

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年齢・容姿:58歳。6尺に近い大男。
生国:甲斐(かい)国山梨郡(やまなしこおり)横根村(現・山梨県南巨摩郡身延町横根中)

探索の発端:江戸・芝の浜松町の蝋燭問屋〔宮本屋〕方を襲って870余両を盗み、愛妾のお照と東海道・藤枝宿の北「下ノ郷村」の〔盗人宿〕に潜んだが、発病。
(参照: 女賊お照の項)

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藤枝市下之郷。町の中央部を南流する花倉川が葉梨川に合流する。金比羅社への山道から俯瞰

かつて父親と行ったことのある安部峠の駿河側・温泉場「梅ヶ島」へ、配下の〔勧行(かんぎょう)〕の定七に馬を曵かせて湯治におもむいた。
(参照: 〔勘行〕に定七の項)

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雨にけむる現代の梅ケ島温泉

病状は一進一退だったが、3年目のこんどは、自分でも快癒とおもうほどに回復したので、妾のお照の待つ江戸で一仕事すべく、東海道をくだっているとき、平塚宿で配下に殺されかかったのを岸井左馬之助に助けられた。


結末:六郷の渡し舟が岸を離れてすぐ、心臓発作で苦しみ、左馬之助の手の中で絶命した。
そのいまわのきわに、お照の住いを告げたが、若い伊太郎とできたお照は、参謀格の〔鷺田(さぎた)〕半兵衛に粛清されてしまっていた。
(参照: 〔鷺田〕半兵衛の項)

つぶやき:〔雨乞〕の名のついた山はあちこちにあるが、庄右衛門は甲斐の生まれだから、「通り名」は山梨県内にある雨乞岳(北巨摩郡白州町)からとったのであろう。
梅ヶ島の湯泉にむかしからの一軒だけの湯治宿だったという〔梅薫楼〕に一泊した。いまは民宿などが10数軒ある。
宿の主人によると、梅ヶ島の湯は、武田軍の傷病兵の湯治場のひとつであったという。
池波さんは、30歳をすぎたのころ、武田軍と徳川軍の戦記を調べていて、ここの湯と安部峠に興味をもち、静岡からバスで4時間かけて温泉場へ到着、翌日峠越えして身延へ下りたとエッセイにある。
そのときの記憶がよみがえっての、[雨乞い庄右衛門]の創作につながったのであろう。

山梨県南巨摩郡身延町 商工観光担当 垣島さん・望月さんかの「横根中」についてのリポート

「横根」という地域は、江戸時代(1800年ごろ)には横根村、中村という形であったようですが、横根中村と呼ばれていたようです。現在は「横根」という地域はありません。「横根中」です。「横根」と略して呼ぶ人はいるかもしれませんが。身延町へ合併された経緯は、明治8年(1875)1月19日に、小田船原・門野・大城・相又・清子・横根中・光子沢が合併して豊岡村に。
昭和30年(1955)2月11日に、身延町・下山村・豊岡村・大河内村が合併して身延町となりました。横根中は身延町の南部に位置しています。
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身延山ロープウェイ(身延登山鉄道株式会社のリーフレットより)

温泉湯治の甲斐あった庄右衛門は、病いの小康をえるや、盗みの血やみがたく、江戸へ向う。
小田原で泊まった旅籠が宮ノ前の〔伊豆屋又八〕とある。
小田原で、旧東海道筋の宮ノ前を探索した。町名は消えていたが、松原神社がのこっていた。宮ノ前の町名のゆえんと思えた。

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リポートへのレス

[雨乞い庄右衛門]に、梅ヶ島(静岡市)温泉で療養している庄右衛門の生地は「梅ヶ島から安部峠をこえて甲斐の国へ入り、富士川へ下ったところの横根村」とありましたが、現代の地図には「横根中」しか載っていないので、不審におもっていたのです。
お蔭さまで、よくわかりました。
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梅ヶ島からけわしい安部峠をこえたところが身延町ですね。
ついでですが、〔雨乞〕庄右衛門の呼び名の〔雨乞〕は山梨県北巨摩郡白州(はくしゅう)町の管内の雨乞岳から、池波さんが借用したのでしょうね。

おまけ:
梅ヶ島でずっとつづいている湯治宿〔梅薫楼〕のもう一つの名物・薄衣弁天像。

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薄衣のすその奥に、もう一つの弁天さんが見えると、男女浴客がうれしがって浄財を寄進。
なんでも、江の島にあった弁天像とか。

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コメント

鬼平犯科帳160余編の中で、盗賊、盗人の名前のタイトルが30編あります。
雨乞い庄右衛門もそのうちのひとつです。
私はなぜかこの雨乞い庄右衛門に対して、人間味を感じ憐憫の情が湧きます。
文庫7巻P.33に左馬之助が
「雨乞いの庄右衛門という盗賊をひろってな」
すると傍にひかえていた伊三次が
「以前は大したお人だったので。いえもう、それこそ、長谷川様のおっしゃる真の盗賊・・・」
このセリフに庄右衛門のすべてが凝縮されているように思うからです。
裏切り者の定七と市之助の手にかからず、最後左馬之助に看取られ、すべてを語り旅たったのも真の盗賊の証拠です。
また左馬之助が平蔵から和泉守国貞二尺三寸五分の銘刀をせしめ、傍にいる久栄に
「こなたの殿さま。泣き出しそうな顔してござる」
という結末で暗い話が逆転して落ちがつきホッとします。
盗みのない鬼平犯科帳で好きな一編です。

投稿: 靖酔 | 2004.12.29 09:33

>靖酔さん

〔雨乞い〕庄右衛門への、慈愛に富んだ、さすがに鬼平ファンとして年季と筋金が入った靖酔さんならではのコメント、拝読。

はるかに考えていますことは、この[盗人探索日録]、いずれの日にか1本にまとめて刊行されるときには、寄せられたコメントも選抜して付させていただこうと考えております。

その節は、よろしくお願いします。

投稿: ちゅうすけ | 2004.12.29 11:39

〔雨乞い}庄右衛門の右腕といわれていた〔鷺田〕の半兵衛が、浮気をしたというだけのことでお頭の妾であるお照さんを殺害したのは、仲間の掟に触れたというより、お頭の病気回復がおぼつかないと見て、一味を自分のものにしよう、それにはお照さんが邪魔--と思ったのでしょうよ。

30女のお照さんとすれば、3年ものあいだ男の肌に触れていなかったんだもの、くさくさしますよねえ。そのあげくの、若い伊太郎をいたぶってみただけのことなのに。それで刺殺されたんでは、ましゃくにあわないとおもうんだけど。

でも、まあ、池波センセは、珍しく、お照さんの生い立ちや〔雨乞い〕のお頭とのなれそめを書いておられないから、単なる点景の一人のつもりで、簡単に殺してしまわれたのかもしれませんねえ。

女をもっと大事に書いていただきたいなあ。

投稿: 裏店のおこん | 2004.12.30 09:32

>おこんさん

お照の描写がほとんどない、という指摘は鋭い。

たしかに、年齢も---おこんさんは30女と推定なさっているけれど---生まれも育ちも書かれていませんね。

でも、雨の夜の、むんむんするような温気は感じとれます。さすがに、池波さんの筆力です。

お照は、裏長屋育ちで、両国橋西詰あたりの水茶屋で茶汲みをしていて、元気だった〔雨乞い〕庄右衛門に出会ったのでしょうよ。20代の前半だというのに、知っている男の数は自分でも数え切れないほどだったが、6尺近い庄右衛門の巨躯と金ばなれのよさに参ったのかも。

あるいは、盗人の掟を知っていたところをみると、親もその道の者だったのかも。でも、「通り名」をもっていませんからねえ---。


投稿: ちゅうすけ | 2004.12.30 13:13

池波さんの未刊エッセイ第1集として刊行された『おおげさがきらい』(講談社 2003.02.15)の[抵抗(レジスタンス)]に、安倍峠を越したときのことが記載されています。
昭和30年(1955)か31年のことです。

峠の南側(安倍川河口側)の麓の梅ケ島まで、静岡駅前からバスで4時間かかったとあるが、最近は道路が整備され、1時間50分ほどで達します。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.17 14:45

〔雨乞い〕庄右衛門が、江戸でのお盗めを終え、お照ともども、身を潜めた藤枝宿の北の「下ノ郷」を訪ねてみました。

JR藤枝駅前から静鉄バス。五十海、五十海北経由、西方行、「中田」下車で約25分。2005年1月の料金400円。

バス亭から1ブロック北、たまだま店先にでていらっしゃった雑貨店のご主人に、下の郷の俯瞰写真がとりたいと告げると、向い(東側)の小山にある金毘羅社の参道を教えられた。

地区の東西の幅は500メートほどか。中を貫流しているのは葉梨川でしょうか。
いまは、新建材の家が多いが、〔雨乞い〕庄右衛門が身を潜めたころは、人家も少なく、畑ばかりの村ではなかったろうか。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.17 15:15

心の臓が悪い者が多かった江戸時代

雨乞いの庄右衛門が心臓病疾患の持ち主であったとのこと、 栄養状態が悪く、身体の管理が十分でなかった

江戸時代、は心臓疾患が多かったようですね。 無理を重ねたり、食事が偏っていると心臓の動きが悪くなります。

当時の50才は現在の70才に比較されるでしょう、心臓疾患はあ自覚症状があっても管理しにくいものです。

「雨乞い庄右衛門」についてのみは原作よりもビデオの田村高廣の演技と筋書きが好きです。

投稿: edoaruki | 2005.12.02 17:20

>edoaruki さん

テレビの田村高廣さんの〔雨乞い〕庄右衛門役は、心臓疾患者の哀愁がなんとなくにじみでていて、すばらしかったですね。

まあ、肉体的なことをいってはいけませんが、6尺の大男の凄みみたいなものも、もうすこし出してよかったかも。
監督の演出もありましょうが。

撮影現場をみたかぎりでは、吉右衛門さんとか、田村さんクラスになると、ほとんど、おまかせスタイルですが。

投稿: ちゅうすけ | 2005.12.03 11:18

信玄が開いた道…梅ヶ島=陸合村

池波さん初の長編『夜の戦士』(角川文庫)は、昭和37年(1962)01月16日から「宮崎日日新聞」ほか5紙に 373回にわたって連載。その上巻p299でこんな文章に出会いました。

山道は、梅ヶ島を経て甲州の陸合村(りくあいむら)に通じている。この山道を切りひらいたのは武田信玄である。今川家との間に同盟をむすび、駿河の港に数隻の持船をおいて、中国地方との交易もおこなっている武田信玄だから、この陸合路とよばれる道のほかに駿河へ出るための四つの道をもっている。

2002年11月25日の掲示板で、梅ヶ島の湯での〔雨乞い〕庄右衛門の湯治にふれ、その後、池波さんが安部峠を越した経緯も明らかにしました。
「駿河へ出るための」ほかの四つの道……の一つが、富士川に沿ってくだる道でしょうかね。

投稿: ちゅうすけ | 2006.08.17 08:55

気軽に乱交参加♪撮影会も!
http://rankou.smplay.net/rk/rk0103/

投稿: 嘉絵 | 2007.05.04 06:27

ご近所さんと出会いを楽しんでネ!

投稿: 幼子 | 2007.05.09 17:46

こんばんは.初めて寄らせていただいております.
東京は東村山に住みますゴーシュと申します.

かなり以前より,こちらのサイトは拝読させて頂いておりましたが,
今回TV版の「雨乞い庄右衛門」のことを拙いながら書きまして
貴サイトへのリンクを付けさせて頂きましたので,遅ればせながら
ご報告させて頂きます.
また,小生は池波作品の中でも「鬼平犯科帳」はまだまだ
読めていないのですが,貴サイトの瞠目する情報量に
今一度手に取った作品がいくつもあります.
これからも楽しく読ませて頂こうと思いますので
何卒よろしくお願い申し上げます.

投稿: ゴーシュ | 2008.01.20 19:25

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