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2008年7月の記事

2008.07.31

明和4年(1767)の銕三郎(14) 

「母上は、於嘉根(おかね 3歳)が可哀そうとお思いにならないのですか?」

箱根・芦ノ湯村から帰った銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、母・(たえ 42歳)に迫った。
於嘉根の母親・阿記(あき 享年25歳)がみまかった。
於嘉根の父親は、銕三郎である。
4年前に、縁切りの東慶寺へ入る決心をして婚家を出た阿記と、偶然に知り合い、そういうことになった。

【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (27) (28) (29) (31) (36) (37) (38) (39) (40) (41)


「それは、阿記どのがお亡くなりなったのですから、可哀そうは、可哀そうです」
「そのようなことを、言っているのではありませぬ」
「それでは訊きますが、かわいそうな場面にでも立ちあったのですか?」
「じかに、立ちあってはおりませぬ。しかし、於嘉根には伯父にあたる、阿記の兄・次太郎(じたろう 28歳)が、まもなく家業を継ぎます。その次太郎の嫁・お露(つゆ 20歳)どのは、臨月近いのです。その子が産まれますと、於嘉根の立場はぐんと弱くなりましょう」
「去年、わたくしが於嘉根さんを、わたくしの子としてお上にとどけ、長谷川のむすめとして育ててもいいと申しあげたとき、阿記どのはお断りになったのですよ」

【参照】2008年3月19日~[お嘉根という女の子] (1) (2) (3) (4)
2008年4月11日~[妙の見た阿記] (1) (2) (3) (4) (5)

阿記が生きていればともかく、あのときといまでは、事情がちがいます」
銕三郎の心配を、今宵、殿に申しあげてみます。それでよろしいですね?」
「はい」

銕三郎は、湯治宿〔めうがや〕の女中頭を長年勤めてきた都茂(とも 47歳)が、次太郎の次右衛門襲名とともに、〔めうがや〕を辞めてほかへ移るつもりだと言ったこと、次太郎の采配と推察したのだが、阿記の葬儀のあいだ、於嘉根を本家・茗荷屋畑右衛門(はたえもん 60歳がらみ)へあずけて、銕三郎のことを無視したことから、彼の悪意を察したのである。

夕食のときには、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)は、何も言わなかった。
膳が下げられると、茶をすすりながら、
銕三郎於嘉根のことだがな、去年までなら、齢を偽ることもできた。しかし、3歳にもなっていては、ごまかしようがない」
武家でないところからの養女は認められないから、そのあたりを偽装したとして、発覚すると、まず、役は召しあげられ、よくて謹慎、悪くすると、閉門・小普請入りになる。

庶民の手本であるべき武士(官僚)は、偽りごとを言ったりしてはならない、という法度の根本なのである。

とくに宣雄の場合は、両番(小姓組と書院番士)の家柄ではあっても、先代までは役料のつく地位にはのぼっていないだけに、その出世ぶりは嫉妬され、役を待っている幕臣たちが鵜の目鷹の目で落ち度がさがしている。

「わが家が置かれている実情は、そういうことだから、武家への養女はあきらめよ」
「ということは、町方へ、ということでございましょうか?」

「奥の考えでは、実家の妹に子ができないのがいる---そこの養女になら、話のもっていきようがありそうだとのことだ」

宣雄の内妻、銕三郎にとっては産みの母---の実家は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の庄屋・戸村五左衛門方である。

「寺崎村でございますか?」
「それも、先方の意向をたしかめた上でのことになる」
「〔めうがや〕が、素直に、於嘉根を渡してくれましょうか?」
「そちは、どう、おもう?」
「いまのご当主の次右衛門どのはともかく、阿記の兄・次太郎がどういう難題をもちだしますことやら---」

「そのことなら、術(て)はないこともない」
「------」
田沼さまのお力にすがる」
田沼さま?」
「芦ノ湯村は、小田原藩のご領内だ」
「あ。田沼(主殿頭意次 おきつぐ 48歳 側用人 相良藩主)さまのご用人・三浦さまから、大久保(小田原藩主)さまのご用人へ---」
「湯治宿〔めうがや〕の本家は、畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門と申さなんだか?」
「さようでございます」
「上のほうの地位を得ている者ほど、その地位を失うことを恐れるがために、権威に弱いものじゃ。言葉が悪かった---なじみたがる、とでも、言いなおしておこう」

参照】2008年1月26日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (6)


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2008.07.30

ちゅうすけのひとり言(21)

長谷川銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)の子・於嘉根(おかね 3歳)を産んだ阿記(あき)が、病死(享年25)した。

_12010年ほど前(68歳のとき)に、ぼくが考えている死について、『週刊朝日』のリレー・エッセイに小文を寄せたことがあり、のち、朝日選書の1冊に収録された。
人、死に出会う』(2000.1.25)---帯に「生きることの達人67人が家族の、友の、自分の〔死〕をみつめ、語る」とある。

阿紀の死に対する、銕三郎の感慨を書く前にと、書架からとりだして読み返した。
おつきあいいただきたい。とくに、末尾。

名なしのほとけでかまわない

「われわれも、まさかと思いましたが、組織からがん細胞が見つかりました」
告げられたのは、14年前、54歳の秋だった。
――喉頭がん。
(口の悪さをたしなめるために、天から灸をすえられたのだな)
いささか自嘲的に考えられるようになったのは、術後5年が過ぎてから。

がん医療関係者は、治療5年後の生存者の割合を5年生存率と呼んで治癒成功のいちおうの目安としている。
現在のそれを国立がんセンター中央病院は、男性で55パーセント、女性65パーセントを達成。
ぼくが施術を受けたのは大塚の癌研病院だったが、数字は似たりよったりだろうから、2人のうちの幸運組の1人のほうへ入ったといえよう。

「より効果的な放射線治療を受けてもらうために、千葉のほうへ通院していただくかもしれません」
とつけ加えられてもいたので、ひやひやものの5年間だった。

その間に実兄が結腸がんで逝った。
戦時中に大陸で40代で殉職していた父のことは不明だが、兄と自分の発病で、がん体質の家系とも推測がつき、気分としては死を隣にかかえていた。

「術後10年以上なのだから、完癒といっていいでしょうね」
かつての病歴を知っている友人たちの慰めは、それはそれで自己暗示のもととなり、ありがたい。

が、5年生存者が第2のがんにかかる率は、そうでない人より高いことも知っている。
そっちのグループへいつ入らないともかぎらない。
そのときは再会を喜んだがんのほうで、見逃がしてはくれないだろう。

じつは家人も10年前にがんを摘出している。
夫婦きりのわが家で、がんや安楽死、延命装置無用や葬式の話はタブーでもなんでもない。
食卓での気軽な話題の一つですらある。
「この年齢になると、提供を受けつけてくれる臓器は角膜だけらしいね」

「2人が逝ってしまうと墓を守る者がいなくなるのだから、いまのうちに散骨して墓地をお寺さんへお返ししておいてもいいかな」
「そうすると、わたしたち、戒名もいらないわけね」
「名なしのほとけでかまわない。葬式なんかで友人知人の時間を奪うこともしない」
「戒名料分、いまのうちにおいしいものを食べておく、ってのはどう?」

終末の日までのことを、最近、しきりに考えるようになった。
けっこうプラグマチストなのか、死の床での痛みと苦痛は医学が除去してくれるだろうと楽観しているし、肉体は有限・魂魄は無窮とも思っていない。死ですべてはおしまいと諦観。

考えることは身辺の始末がほとんど。
これからますます視力が衰えようから、まず、本や資料の整理。
貴重といえるほどの蔵書はないが、大学図書館へ寄贈するにしても維持費つきでないと受け手が困るだろう。
1000冊につき100万円かな。いや、こう低金利では500万円でも維持費がでまい。
5000冊で2500万円? そんな余裕はない。
けっきょく二束三文で売るしかなさそうだ。

1万冊を10回に分けて2年間で処分するとして、その区分けの決断に何か月かかることだろうか。

1000万円を超える入力料をかけて10数年ごしにパソコンへためこんできている、海外ミステリ1660篇・24万件の世界でも珍なる事象データベースは?

ほんと、おかしなDBなのだ。留守番電話の項では、私立探偵で最初にこれを導入したのはビル・プロンジーニによる名無しのオプの1980年で、それはパナソニックが対米輸出をした年だとか、シングルモルトのマカランを好む警視・刑事は3人、将軍、元傭兵、弁護士、探偵各1……なんてことも即座にわかる。

閑話話休題。
これこそMO1枚、場所をとるわけではないのだから、どこかの公共図書館か英米文学部のある大学へ寄贈できそうだ。
いや、コピーさえとれば幾つもの機関へだって贈れるが、はたして備えたがるところがあるかどうか。
エッセイのネタの泉なのだが。
ミステリーといえば、殺人しかも残虐な殺し方がありあまるほど提示される小説を読みすぎたために、しらずしらずのうちに死に対して不感症気味になっているのかもしれない。

それにしてもミステリー作家はいとも簡単に殺すなあ。
あの人たちの自分の死のイメージはどうなっているんだろう。これからしばらくは殺しのでてこないミステリーを読むようにしてみるか。
年に十篇あるかなしなのだから。

対話してみたい死者は、いまは長谷川平蔵。
そう、『鬼平犯科帳』の主人公の……。
持ちだしの多い火盗改メ役を8年間も勤めて私財を使いつくした平蔵だが、その後任にすわった2人の幕臣――。
一は、平蔵がまだ病臥中なのにさっさと火盗改メ役をついだ森山源五郎孝盛。
短歌詠み仲間の老中・松平定信へ平蔵のことを讒言していた仁で、「ほかの者の足を引っぱらないと出世できない」とうそぶいた。
歴代の火盗改メが業務を記録文書として残していないのは怠慢とも広言。

一は、定信の縁者で火盗改メの同役時代に平蔵とことごとにそりのあわなかった松平左金吾定寅。
火盗改メとして顕著な実績をあげていた先手弓組2番手・長谷川組の後任組頭となったが、同組の長い豊富な経験を活用しようとはせず、火盗改メの任につかせることはなかった。
彼の着任のねらいは、平蔵色の払拭だったようだ。

この後任人事に対する平蔵の、慷慨の弁を聞きいてみたい。あ、そうか、「死ですべてはおしまい」と諦観しているくせに、他人を枠外におくのは公平とはいえないか。
ではこっちが生きているうちに、森山源五郎と松平左金吾の死にざまを調べてやろう。
文献もさらに買いこまないといけないな。む?

  (1930年鳥取県生まれ。多摩美術大学講師(=当時)、エッセイ
  スト。『「鬼平犯科帳』に恋して候』『ミステリー風味ロンドン案内』
  など)


参照】2006年5月5日~[松平左金吾定寅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) 
2006年6月8日~[森山源五郎孝盛] (1) (2)

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2008.07.29

明和4年(1767)の銕三郎(13) 

芦ノ湯村の入り口からは、走らんばかりの急ぎ足になった。
しかし、仙次(せんじ 22歳)のほうが、箱根の雲助として鍛えているだけに、さすがに、速かった。

「忌中」の張り紙がでている〔めうがや〕の戸口に飛びこみ、、次右衛門夫妻に弔意をのべている男の頭ごしに、どなった。
長谷川さまがお着きです」

その声に驚いた弔問客への断りもそこそこに、次右衛門(50歳代)は、ころがるように戸口へ走る。
姿をあらわした銕三郎(てつさぶろう 22歳)をかかえんばかりにして、
「遅うございました。長谷川さま。哀れでございました」
ささやくような小声が、たちまち涙声に変じた。
抑えていたものが、銕三郎の顔を見て、一挙に堰がきれたのだ。

聞きつけて、黒っぽい着物姿の藤六(とうろく 49歳)と女房で女中頭・都茂(とも 47歳)もとびだしてきた。
藤六は、都茂にすすぎの水をいいつけるとともに、次右衛門の躰をささえながら、やはり耳元で、
「若。よう来てくださいました。若が一昨日、お発(た)ちになることは、お殿さまから、3日前に速飛脚(はやびきゃく)便でいただいておりました。お嬢さまも、お待ちになっておりましたが---」
それきり、言葉をのんでしまった。
来たことが、なにか不都合なのかも知れないと察して、銕三郎も小声で、
藤六。報らせてくれたこと、礼をいうぞ。あと、仙次どのの世話を頼む」

次右衛門夫妻に阿記の部屋へ導かれた。
午後には出棺ということで、阿記は棺桶の中に、両膝を前で折って、納まっていた。
蓋があけられ、目をとじ、合掌した手に数珠をかけた、死出の白装束の阿記と対面した。

昨夜、夢で会った阿記よりさらに細っていたが、死化粧の顔は、芦ノ湯小町の面影をのこしている。
その頬をそっとなぜ、
阿記。許せ。しかし、昨夜、話しあえてよかったな」

次右衛門の女房・お(みつ 48歳)のほうが、落ち着いていて、
「昨夜とは、どういうことでございますか?」
「小田原の宿で、夢で会ったのです。そのとき、ずいぶんとはげまし、力づけてやったのですが---」
まさか、同衾したと、言うわけにはいかなかった。

「いえ。お殿さまからのお報らせで、若さまがおいでくださると教えてましたら、お会いするまで、逝くわけにはいかない---と気張っておりましたが、かえって安心したのか、その翌朝、急にいけなくなりまして---」
死因は、風をこじらせ、肺の臓にわるい虫が入り、高熱がつづいて、衰弱したのだという。

「若さまに、福をいただいたことを、くれぐれもお礼を申しておいてくれ---と、うわごとみたいにつぶやきまして---」

蓋に釘が打たれるまえに、銕三郎は、4袋のお守を阿記の懐に入れてやった。夢で触れた乳房のように、小さく固まっているのが悲しみを大きくし、おもわず、涙をこぼれた。

父が渡してくれてた舞い金に、道場の高杉銀平(ぎんぺい)師のそれと、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ)がとどけてよこした包みを表書きが「お見舞い」となっているのもかまわず、仏前においた。

都茂が、ちょっとと誘い、
「若さま。おつらいとはおもいますが、葬列にはお加わりにならないでくださいませ。於嘉根ちゃんの父親は、謎のままにしておいたほうがよろしいように、うちのとも話しあったのです。お嬢さまが、悲しみをこらえて、長谷川さまに報らせないでとおっしゃったのも、於嘉根ちゃんの将来をおもんぱかったからと、わたしたち夫婦は、推察いたしました」
「わかった。仰せにしたがおう。で、於嘉根は?」
「ご主人が、お会わせしないほうがよかろうと、畑宿(はたしゅく)の茗荷屋さんにお預けになりました」
「うーむ」

銕三郎は、出棺まで、4年前に宿泊し、阿記と最初の交わりをした離れで、刻(とき)をつぶすことになった。
仙次が帰るというので、もう一度、きつく問いつめたことを謝った。
仙次も、隠していたことを詫び、権七(ごんしち)親方によろしく伝えてほしい、と言って頭をさげた。

ひとりになると、阿記がもういなくなったことが、しみじみと胸にこたえてきた。
湯屋で、ぽちゃぼちゃと音をたたてて湯桶へ注いでいる温泉湯にも、阿記が裸で入ってきたときのことが、まるで昨日のことのようにおもいだされた。
食事は都茂が運んできた。
そして、跡継ぎの次太郎(じたろう 28歳)夫婦が、まもなく、あいさつにくることを伝えた。

次太郎は、阿記に似た面高(おもだか)の美顔だった。
修行に行っていた湯本の旅宿から実家へもどり、嫁・お(つゆ 20歳)を迎え、実務を引きつぐ準備をしているとのことであった。
の腹は、いまにもはじけそうなほど、ふくらんでいた。
阿記が、江戸で暮らしたいといえば、仕送りはきちんとしてやるつもりでおりました。なぜ、そうしないのか、手前どもには、納得できませんでした」
阿記どのは、於嘉根さんを、ご自身が育った山の空気のなかで育てたかったのではないのでしょうか」
「それだけではないとおもいますが---」
「と申されると---?」
「いや。本人が口にしたことがないので、兄として、申し上げることもないと存じます」
次太郎は口をとざしたが、銕三郎は、自分が非難されているとおもった。
幕臣の体面などにこだわらないで、側室とすればよかったのに、と言いたいのであろう。
しかし、それでは、阿記の純情と誇りを傷つけることになる。

次太郎夫妻が去り、都茂が茶菓を運んできた。
都茂さんは、葬列には加わらないのですか?」
「お嬢さんが土に埋められるところなど、見たくもありません」

「それより、次太郎さんを、どう、思います?」
「どう、って---?」
「口先上手ばかり、覚えてきてしまって---」
都茂どの。やがて主人になるお方ですよ」
「あの人が次右衛門を名継したら、わたしたちはお勤め先を変えるつもりです」
「なんてことを---」
次太郎夫婦に子ができることは、(阿記の悩みの一つであったのかもしれない。もっと察してやるべきだった)

しきたりにしたがって、白装束姿の村の者たちが棺桶をかつぎ、つづいて遺族と親類、その前後を白と赤の紙をひらひらと貼った細棹をもった子どもたちが、村はずれの丘の上の墓地まで葬列をつくって行くのを、銕三郎は、かくれて手をあわせ、見送った。

(今日のうちにも、箱根町の宿へ移ろう)

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2008.07.28

明和4年(1767)の銕三郎(12) 

明け方にかけて、さすがに、うとうとっときたらしい。

「お客さま。洋次(ようじ)とおっしゃる方がお見えでございますよ」
女中の声に起こされた。
「うむ。いま、何刻(なんどき)かな?」
「七ッ半(午前5時)でございます」
「いかん。寝過ごした」

門口には、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ)のところの、洋次(20歳)が、きのう同様、汗をふきながら待っていた。
平塚から小田原は4里(16km)---よほど、急いで歩いたにちがいない。

「今朝も、早発(だ)ちしたのでしょう。ご苦労さまです。して、何か?」
「親分から、これをお渡しするようにと、ことづかりました」

奉書に包んだ表には、[お見舞い]とだけ書かれていた。

こころづけを渡して洋次を帰してから、中を改めると、3両(いまなら50万円近い)---大金である。
これだけの金をはずんだわけを、推量してみた。

婚家先から実家へ逃げ帰った阿記(あき 21歳=当時)を、前夫・平塚の呉服店〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 25歳=当時)とともに、おどしたことの詫び料にしては、4年も遅れている。

参照】〔馬入〕の勘兵衛阿記をおどしにきた件は、2008年1月16日[与詩(よし)を迎えに] (27)

病気見舞いなら、直接、阿記の実家・芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕へとどければいい。
すると、阿記の病気見舞いにことよせた、銕三郎へのこころづけともとれる。
(こうしなければならないような、事件を起こしたのかな。それなら、昨日会ったときに、なにか言うはずだが---)

問屋場へ行くと、箱根道の荷物運び雲助・仙次(せんじ 22歳)が、
長谷川さま。お久しぶりです。〔風速(かざはや)〕の親方がたいそうお世話になっているそうで、ありがとうございます」
仙次どの。また、お目にかかれて、喜んでおります。いろいろ教えられているのは、拙のほうです」
「早速ですが、出かけますか?」
「よろしく、お願いします」
そう、応じて、荷をわたしたが、こころなしか、仙次に、目を会わさないようにしている感じに見えて仕方がない。
仙次という、さっぱりした気性の若者に、奥歯にものがはさまったような仕草は似合わない)

ちゅうすけ注】ここで、しなくてもいい説明をくわえると、雲助という呼称は、箱根道の荷運び人足にかぎって使う用語である。したがって、悪意のある呼称ではなく、逆に尊称の意味がこめられている。だから、旅人は「雲助どの」とか「雲助どん」とも呼んだと文献にある。

_360_2
懐中道中図 湯本←小田原)

で、山道に入ってから声をかけてみた。
仙次どの。〔めうがや〕の阿記どのの容態を、耳にしておられませぬか?」
「いえ。一向に---」
この答え方も、尋常ではない。
しかも、それきり、黙ってしまった。

(昨夜から今朝がたへかけてみた夢では、阿記は、おれを待ってくれたが---)

湯本を過ぎたあたりで、言ってみた。
仙次どの。最近、〔めうがや〕への湯治客の荷を運びましたか?」
「いえ。とんと---」
(ますます、あやしい)

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(江戸時代の旅人用の懐中道中図 箱根関所←湯本)

「途中、〔めうがや〕のご本家の、畑宿(はたしゅく)の畑右衛門どののところへ寄って、ごあいさつをしてゆきたいのですが---」
「さいでやすか」
(とりつく島がない---とは、まさに、このことだ)

参照】箱根山道の畑宿・茗荷屋畑右衛門は、2008年1月28日[与詩(よし)を迎えに] (35)

不安が高まってきて、おさえきれなくなり、ついに銕三郎は、立ち止まって訊いた。
仙次どのは、拙に秘め事をお持ちのように思えてなりませぬ。どうか、隠さずに教えてください」
「秘め事など、ありゃあしません」
「いいえ。そうではありますまい。ぜひ、お明かしください」
長谷川さま。それほど、あっしのことが信じられねえんなら、今日の仕事から下ろさせてくだせえ」
と、荷を銕三郎に渡そうとした。

「いや。拙が悪うござった。荷を自分で運ぶのは苦でもないが、友を失うのは、なによりつらい」
銕三郎がさげた頭をじっとみていた仙次が、意を決したように、
長谷川さま。頭を、おあげくだせえ。あっしが悪うごぜえやした。でも、これを長谷川さまにお告げするのは、あっしの役目ではねえと固くきめておりやしたもんで---。許しておくんなせえ」
「で、拙に告げることとは---?」
「じつは---」
「じつは---? まさか---」
「はい、そのまさかでごぜえやす」
阿記が---」
「一昨日、お亡くなりになっちめえました」
「あっ」

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参照】銕三郎と阿記との出会い 2007年12月29日[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29)  (30) (31) (32) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40)  


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2008.07.27

明和4年(1767)の銕三郎(11) 

銕三郎(てつさぶろう)の思惑(おもわく)では、箱根道4里(16km)、箱根関所の手前の村・畑宿から芦ノ湯村までほぼ1里(4km弱)---昼前には湯治宿「めうがや」で臥せっている阿紀(あき 25歳)を見舞える算段であった。

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空想は、一気に、阿紀の病床へ飛んでいる。

阿紀は、嫁入り前---芦ノ湯小町ととわれていたむすめ時代に居室にしていた1階の裏庭に面した左側の部屋に寝ていた。
小さな違い棚には、人形やら扇がかざられ、部屋の主がむすめであることを主張している。

ふしぎに、子・於嘉根(かね 3歳)の存在をおもわせるものはなかった。 (左:栄泉『吾妻錦文庫』 芦ノ湯小町のころの阿記のイメージ)

銕三郎は、母親・お(みつ 48歳)に案内されて入っていく。
初夏だというのに、裏庭側の障子がしめられており、部屋には薬湯のにおいがこもっている。

母親は、気をきかせたのか、茶菓でも運ぶつもりなのか、すぐに出ていった。

「やあ。きたよ」
枕もとに座った。

薄い布団の下から、細くなった腕をだして、銕三郎の手をさがした。
両手で受けとめる。

「病気になってしまって、ごめんなさい」
「すぐ、よくなるよ」
「そうだと、嬉しいんですけど---」
無理につくった笑顔が痛々しい。

銕三郎は、ふところから、お守を4つ出し、1つずつ、阿記の手に載せてやりながら、説明した。

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(左から熊野本宮、新宮、亀戸天神、川崎大師)

「これは父上から---というよりも、母上からだな。熊野三山のうちの本宮と新宮の2社のだ。長谷川家のずっとむかしの先祖が、熊野神社を一族の本拠地の駿州・小川(こがわ)湊に勧請したという史実をたどって、父上がまだ家督しない前に、熊野へ参詣したときのものでね」

参照】[井戸掘り人のレポート]「藤枝宿の探索]中林正隆
2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎] (7)

「そんな家宝のようなお守りを---」
「母上が、阿記が全快したら、2人でお返しに行けばいいって---」
「2人じゃなく、於嘉根も連れた、3人旅ですね」

「これは、いまの屋敷から近い亀戸天神のだけど、手習いを見てやっている、おまさって子が、兄さんの恋人なら、わたしには姉さんだからって、授かってきてくれた」
おまさちゃん、おいくつですか?」
「11歳」
与詩(よし)ちゃんの、一つ上のお姉ちゃんですね、於嘉根のお姉ちゃんでもあり---」
「その与詩だけど、もうおしめはいらないから於嘉根ちゃんにっていったんで、荷物になるって断ったら、こんなものをつくって於嘉根にと---」
赤と紺の端布(はぎれ)を縫ったお手玉を渡すと、支えきれなかったのか、ぽとりと落し、ついでに涙も流した。

お手玉を試す力も失せているのが、銕三郎にもわかった。
於嘉根は、いつ、お手玉ができるようになるんでしょう? 早く、それであそべるようになってほしい---」
「子どもの成長は早いから---もう、すぐだよ。そのためにも、本復してやらないとね」
「はい」

「こちらは、川崎の厄除(やくよけ)身代(みがわ)りのお守。ここへの途中、ちょっと回り道して、祈祷もしてもらってきた。厄をすべて弘法大師が身代りに引き受けてくださるんだ。母上は、こちらの宗旨を気になさっていたが---」
「うちは浄土真宗ですが、かまいません。さまの身代りとして肌身につけて養生します」

於嘉根も、お父(とう)さまから手習いが習えるといいのですが---」
ぼつんと言ったきり言葉をとぎらせ、目を閉じている阿記の顔には、生気がなかった。
小鼻の肉もおちて、障子ごしに入ってきている向こう側の光が透けてみえるほどだ。

母親が茶と茶うけを運んできた。
「母(かあ)さん。2人きりにして。だれも入れないで---」

母親が出ていくと、
さま。お嫌でなかったら、しばらく、いっしょに寝てくださいませんか。お召しものをおとりになって---」

銕三郎が横に添い寝した。
上をむいたままである。
阿記の躰は熱っぽかった。

阿記の指が、銕三郎のものにさわった。
やさしく、つまんでいる。
別の手の指が、銕三郎の指を自分のに導いた。
薬指の腹をあてて、じっとうごかさないように---。
芝生が掌(たなごころ)をここちよくふれるために、
つい、指がうごく。

4年前、鴫立沢(しぎたつさわ)の宿で、交わした会話をおもいだした。

与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ( 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」

参照】2008年1月30日[与詩(よしを迎えに] (36)

(いまは、見て、芝生の艶をたしかめたい)

「4年ぶりね」
「そうだね」
「お変わりなく?」
「忘れた日はなかった」
「ほかのおんなの人の中に入っても?」
「入ってないもの」
(おが、ちらっと、浮かんで消えたが、これだけはほんとうのことを言うわけには、いかない)

参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

「信じましょう。いまは、こうして、わたしの手の中なんだから」

阿記は、どうして再婚しなかったのかな?」
「意地の悪い問いかけ---だって、どの男の人も、さまより以下にしかおもえなくなったんですもの。そうしてしまったのは、あなたよ」
「ごめん」
「あやまることはありませんけど」
とつぜん、阿記が、和歌を口すさんだ。

 さくらさへ ちりぬる後(のち)の春深み しげき青葉の梅の木のさと 

梅を、於嘉根を産むにかけていることは、わかった。
返えし歌がすぐに出ない、自分がくやしかった。

鴫立沢(しぎたつさわ)でも、すらすらと、
 心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
と詠んだ。

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

江戸へ戻ってから、

 さくら山 花咲き匂ふかいありて 旅行く人も立ちとまるなり

これを返して、喜ばすべきだったと、後知恵がくやしかった。

右手を阿記の乳房に置くと、ふくらみがきえかかっていた。
はっとして、阿記の顔を覗き見たときに、正気づいた。
うつらうつらしながら、夢をみていたのだった。
 
しかし、どうして於嘉根が出てこなかったのだろう。
会ったことがないために、イメージを結ばないのか。
父親としての覚悟がまだ薄いのか。

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2008.07.26

明和4年(1767)の銕三郎(10) 

「お客さま。お迎えがまいっております」

朝食を摂っている銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)に、旅籠〔小尾(おび)屋〕の女中が告げた。
朝六ッ半(午前7時)である。
やはり、昨日は無理がすぎたか、目覚めが、すこしおくれた。

「お迎え? 拙にか?」
こころあたりがない。
「江戸の長谷川さまでございましょう?」
「そうだが?」
「平塚の〔榎(えのき)屋〕さんから---とおっしゃっています」
馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)のところからだ。
勘兵衛は、妾に料亭〔榎屋〕をやらしている。

昨日の夕方、今朝の四ッ(午前10時)ごろ、馬入の渡しにかかると早飛脚(はやびきゃく)便を出しておいたのだが---。

門口へ出てみると、たくましい躰つきの20歳前後に見える若者だった。
洋次と申しやす。〔馬入〕の親分のところの若いもんでやす。お迎けえにあがりやした」
「お迎えって---洋次どのとやらは、夜っぴいておいでなさったのですか?」
馬入川西側から藤沢までは3里(12km)ちょっと。
「いえ。飛脚便が昨夜の五ッ(午後8時)に届きやして、親分が、おめえの足なら今朝七ッ(4時)に馬入を發(た)てば間にあうだろうって。これでも、身内衆のなかでは、一番の足速で---」
「それにしても、七ッに、よくまあ、渡し舟がありましたね」
「親分のお顔は、ひろうござんから---」
「それは、ご面倒をおかけした。では、食事を終えますから、お茶でもあがさってお待ちください」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)の手配の結果である。

洋次どのは、〔馬入〕の勘兵衛どののお身内衆になって、何年になりますか?」
歩きながら、銕三郎が訊いた。
荷物はすべて、洋次が担いている。
軽いからいいと断っても、担ぐと言って、きかなかった。
銕三郎は手ぶらである。
「3年めえ、17のときに、入れていただきやした」
「親ごどののお仕事は?」
「北馬入の水呑み百姓でやす」
保々(ほぼ)どのの知行地のほうですか。それとも、代官所の?」
保々さまをご存じで?」
「4年前におなくなりになられた左門貞為(さだため)さまは存じておりますが、お世継ぎの貞丈(さだたけ)どのには20歳におなりだが、拙同様、まだ、ご出仕はないので---」
ほんとうは、面識はないのだが、かつて長谷川家の下僕をしていて、いまは芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕の女中頭・都茂(とも 47歳)と夫婦になっている藤六(とうろく 49歳)から仕入れた知識である。

参照】200年1月19日[与詩(よし)を迎えに] (29)

「へえ。お役人さまというのは、そんな細かいことまで覚えるんですかい? いったい、公方さまのお役人さまはどれほどおられますんで?」
「初目見(おめみえ)といって、将軍家に拝謁できるのが、ざっと5000家。そのうち、役をいただいているのが4000人でしょうか。役をいただいているというのは、仕事をあてがわれているという意味ですが---」
「その全部の顔と、家の中のあれこれをおぼえるんでやすかい?」
「そうありたいが、まあ、拙など、いまのところ、半分に通じるのがやっと---」
「半分だって、2000でやしょう? ひえっー」

つまらない話だとおもいながら、阿記(あき 25歳)の病気の加減を案じているより、こういう他愛もない話をしているほうが気がまぎれる。
それと、あとで勘兵衛は、銕三郎が話したことを、洋次から根掘りり葉掘り訊くにちがいない。そのためには、話しをふくらませておけば、保々家のためにもなろうというもの。

「いえ。うちは、保々さまの知行地のほうじゃなく、代官所支配のほうでやすが---」
「それはよかった。天(幕府)領のほうが取り立てがゆるやかですからね」
「それでも、おっ父(とう)の言い分では、代官所の手代なぞへの袖の下がたいへんだと」
洋次どののところのお父ごは、村役人かなにかを?」
「とんでもねえこってす。さっきも申しました、水呑み百姓でやすが、村の寄合からけえると、いつもこぼしておりやして---」

平塚宿の手前(東側)を流れている馬入川は、いまでは相模川呼ばれている。
相模国を代表する川だからである。

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(馬入村と馬入川 青小〇=馬入側←→中島村側の渡舟
鬼平の寛政年間に道中奉行制作の『東海道分間延絵図』
河原巾80間(144m 川巾46間(84m)とある)

渡しは、中島村の舟着きと、対岸の平塚郷馬入村の桟橋のあいだを往復している。
渡し賃は16文。
ただし、武家は払わなくていい。
武士姿の銕三郎につづいて、洋次も、払わないで乗舟した。
舟頭は、なにもいわなかった。
勘兵衛の勢力が、中島側にもおよんでいることがわかった。

〔榎屋〕では、勘兵衛が待っていて、戸口からの洋次の、
「親分ッ」
という声に、いそいそと現われた。

長谷川さま。お久しゅう」
勘兵衛どの。わざわざのお迎えのお手配、痛みいりました」
「なんの、なんの---。さ、お上がりくだせえ」
「いや。ご好意を無にするようですが、先を急いでおりますので---」
「そうでごぜえましょうが、お茶だけでも---」
「では、ほんの暫時」

「お父上がお先手の組頭にご出世だそうで---。おめでとうございます」
「もう、2年になります」
「火盗改メのお役も、まじかでございましょう」
「まだまだでしょう」
「お先手のお頭(かしら)ですと、先(せん)に火盗改メをなさっていやした、本多采女紀品 のりただ 53歳 2000石)さまと、ご同役ということに---」
本多さまのことを、よく覚えておられましたね」
「代官所出先の手代・鮫島(さめじま)さんに、本多さまや長谷川さまのお名をだすと、恐縮しますのでね。はっ、ははは」

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
2008年2月20日~[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄] (1) (2) (3) (4)
2008年2月9日~[本多采女紀品(Kのりただ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

「ところで、〔馬入〕の親分どの。芦ノ湯の阿記どのの病状について、なにか、お聞きおよびではありませぬか」
勘兵衛は、一瞬、視線を宙にそらしてから、真顔になり、
「いいえ。一向に---」
銕三郎は、瞬時に悟った。
「先を急ぎます。失礼します。洋次どのは、いい若者ですね」

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(江戸時代・旅人携行の『東海道道しるべ』小田原←町や村)

その夜、銕三郎は、小田原の旅籠〔小清水屋〕で、まんじりともせず、夜中でも、箱根道を登りたいほどであった。


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2008.07.25

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(9) 

銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、六郷(ろくごう)の渡しへついたのは、五ッ(午前8時)をまわっていた。
南本所を発(た)ってから、ほとんど速足(はやあし)の歩きづめである。
今夜の宿を、江戸・日本橋から12里12丁(約50km)、藤沢宿を予定していたための急ぎ足であった。

その藤沢宿は、いまの時期は、参勤交代の下り・上りが多いから、暮れないうちについて、泊まれる旅籠をさがさなければならない。
そうおもいながら、渡し舟が岸を離れるのを、じりじりしながら待っていた。

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六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師]:ちゅうすけ)

その姿がよほどに目立ったのか、45,6歳に見える小柄で温和そうな男が、、
「お若いお武家さま。いま、向こう岸の舟着きで客をおろしている渡舟が、新しい客を乗せて岸を離れないことには、この舟は出ません。お急ぎのご様子ですが---」
「見苦しいところがお目にとまったようで、相すみませぬ」
すなおに頭をさげると、
「手前のほうこそ、余計な口出しをして、お許しを---」

小柄な中年男は、供の若者になにかいいつけた。
供は、げじげじ眉で、もみあげからあごにかけて剃りあとも青あおと濃い若い男で、荷の中から煙草をとりだし、
「お頭から、一服差し上げろとのことです」
差しだした手首も、毛むくじゃらけ。
指の表側にまで長い毛が生えているところをみると、体毛はおしてしるべしだ。

「ご親切、痛み入りますが、不調法で---」
「ほう。いまどきのお若い方にしては珍しい」
お頭と呼ばれた40男が、さも、感心したふうに首をふる。
「柳営は禁煙ゆえ、煙草ぐせのある者は、出仕したときに苦しむと申して、父が許してくれません」
「ご直参の武家方でございましたか。これは、とんだご無礼を---」
「なに、失礼は拙のほうで---」
(供も連れない一人旅の武士、何とおもわれたことか)

舟が岸を離れた。
長助どん。わしも、舟中では煙草はひかえておこう」
「へい」
長助(23歳=当時)と呼ばれた毛むくじゃらは、煙草をしまった。

長助にお頭とうやまわれている40男が、銕三郎をさとすでもなく、ひとりごとのように言った。

「しかし、煙草というのは便利なものですな。いままで存じあげてもいなかった、お逢いしたばかりのお武家さまへ、煙草をおすすめしただけで、こうして話の糸口がほぐれます。あなたさまが煙管におつめになるのは、1文するかしないかの寸量です」
「なるほど。拙のように、不調法な者でも、それなりに会話の糸口にはなりますね」
「泰平の世が100年より、もっとつづきましたから、人びとには、こうして、遠出や旅をたのしむ機会(とき)がふえました。見知らぬご仁とのおつきあいもふえるというものです。その中には、おのれの生き方を変えてしまうような妙案が、ふくまれていることもありましょう」

参照】煙管について---2008年1月29日[ちゅうすけのひとり言] (2)

銕三郎には、この男のものの見方が、天啓の一つとなった。
長谷川家はそうではないが、なるほど、男はもとより、むすめも母親の多くが煙草をたしなむ世の中になっている。それだけ、気をかるくする煙草の効用がみとめられているのだ。
おのれは吸わなくても、煙草を携えて、一服すすめ、つきあいの糸口とするのも悪くない)

ちゅうすけ注】このときの〔蓑火みのひ)〕の喜之助の言葉がよほど銕三郎の記憶にこびりついたのであろう、史書によると、長谷川平蔵=鬼平が江戸の町民から絶大な支持をうけたのは、町の番所が捉えた犯人は、番所にとどめては町会のものいりになるから、時刻かまわず、火盗改メの屋敷へ連行してくるようにと触れた。
実際に連行していくと、当直の同心が、「遠路、ご苦労であった」と、蕎麦の出前をとり、煙草盆をすすめたという。
2007年9月2日[よしの冊子(ぞうし)](隠密はびこる)の最後尾。

対岸の久根崎(現・川崎市川崎区旭町)の舟着きで、会釈をして別かれた2人づれの、品のいい小柄なほうが信州・上田生まれの大盗・〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)、供の若者は美濃国方県郡(かたがたこおり)の尻毛(しっけ 現・岐阜市尻毛)生まれで、のちに独立をゆるされて〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)と名乗った男とは、銕三郎は知るよしもなかった。

参照】〔蓑火(みのひ)〕の喜之助
〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門

もちろん、〔蓑火〕も〔尻毛〕も、若い武家が、20年後に、火盗改メのお頭となって自分たちに深くかかわった長谷川平蔵宣以(のぶため)とは想像もしなかった。

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(青〇=左:久根崎舟着き 右:六郷舟着き 赤〇=大師河原道印石
道中奉行製作 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

舟着きをあがると、すぐ左手へ入る細い道のとっかかりに、親指をつき立てたような大きな自然石に、
〔大師河原道印石(だいしがわら みちしるし いし〕)
と刻んだ柱石が立っている(上の絵図の赤〇)。
厄除(やくよけ)大師堂への参道道である。

銕三郎は、田圃(たんぼ)の中をくねくねとのびているその道へ入った。
前も後ろも参詣人だが、腰痛・膝の関節痛の治癒を願うのであろうか、杖にすがって歩いている男女が目だった。
阿記(あき 25歳)の病名を、藤六(とうろく 49歳)は書いてよこさなかったが、どこを病んでいるのだろう)

参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (6)

祈祷のときに尋ねられたら困るな---とおもいつつ、1里(4km)ほど行くと、こんもりとした木立の中に、平間寺(へいげんじ)の屋根が見えてきた。
同寺が別当をしているのが大師堂である。

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(赤○=右:大師河原道印石 左:厄除大師堂への山門
道中奉行作成 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

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大師河原 大師堂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】縁起は、2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎 (7)

境内は、ひろびろとしている。
五ッ半(午前9時)前だというのに、参詣人が引きもきらない。 
納所(なっしょ)で、「病気平癒」祈願の護摩(ごま)紙に阿記の名を書き、祈願料をそえて差し出すと、受付の役僧は、形だけの合掌をし、その紙をさっさと三宝に載せた。
三宝にはすでに、数多くの名前札が積まれていた。

_150ちょっとがっかりしながら本堂に詣で、身代(みがわり)お守を一つ求め、携えてきたお守袋へいっしょに入れたが、なぜだか、拍子抜けした気分だった。
(それにしても、真言の宗徒でもない衆が、遠路、これほどに集まるのだから、この世は厄のタネにはこと欠かないということか。浜の真砂と盗人、厄災は尽きまじ---弘めの効用---紋次の仕事だ)

参照】2008年4月26日~[耳より紋次] (1) (2)

物売りの店の者に、往路を引きかえすのではなく、東海道の上り道へ出られる道筋を訊いて、1里の寄り道を取り戻そうとした。

神奈川宿(かながわしゅく)で早めの茶飯をとると、さすがに疲れをおぼえた。

陽がのびている季節でよかった。

長い道場坂(遊行寺坂ともいう)を下るとき、一遍上人の遊行寺へ阿記と詣でたことをおもいだした。
(あのとき、阿記はなにを祈願したのであろう)

参照】2008年2月1日[与詩(よし)を迎えに] (38)
この坂は、巻5[おしゃべり源八]p137  新装版p143ほか。巻15[雲流剣]p188 新装版p194 などに登場。

諏訪明神の前で、右に折れ、遊行寺の黒い山門の前を左にとると境川に架かる遊行寺橋。
これをわたると藤沢宿である。

_360_2
(遊行寺=赤○ 青小〇=諏訪明神 境川をわたると藤沢宿
左緑〇=本陣・蒔田源左衛門 右同=脇本陣・長尾屋長右衛門
橙〇=問屋場)

4年前に阿記たちと待ち合わせに使った本陣・蒔田(まいた)源左衛門方には、三河国吉田藩・松平(大河内家)伊豆守信復(のぶなお 49歳 7万石)の国帰りの一行が陣取っていた。
脇本陣の〔長尾屋〕も満杯だった。

蒔田の番頭の口ききで、〔小尾(おび)屋〕利右衛門方がとれた。
晩飯の前に問屋場へ行き、平塚・馬入(ばにゅう)の料理屋〔榎(えのき)屋〕気付で、〔馬入〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)あてに、馬入川の渡しにつくのは四ッ(午前10時)前だろうと、速便(はやびん)を托した。
宛名を見て、問屋場の書役(しょやく)が目を丸くしたから、勘兵衛の威勢は、ますますあがっているようだ。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

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2008.07.24

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(8) 

暁闇(ぎょうあん)の七ッ(午前4時)に、南本所三ッ目通りの屋敷を出た。
母・(たえ 42歳)と養女・与詩(よし 10歳)、女中・有羽(ゆう 32歳)、それに下僕・吾平(ごへえ 47歳)たちに、かぶき門の外まで見送られた。

参照】2008年3月28日~[於嘉根(かね)という女の子] (5)

与詩が小さなものを差し出した。
阿記(あき)姉上に、於嘉根(おかね 3歳)ちゃんにって、差し上げてください」
自分が縫ってつくったお手玉が2つだった。
与詩は、もう、自分で針がもてるようになっている。

阿記どのに、与詩は、もう、おむつは使っていないと、伝えておく」
「兄上の、意地悪」

参照】2008年1月28日~[与詩(よし)を迎えに] (35) (36)

気がついてみると、4人とも、阿記(25歳)を見知っている。
うち、3人は、母親となっていた24歳(=当時)の阿記だ。

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(歌麿『針仕事』 阿記と於嘉根のイメージ)

ひきかえ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)のなかの阿記は、若妻と娘のあいだを行ったりきたりする、芦ノ湯小町を面影とどめた、21歳のおんなのである。
(おもいでのなかのおんなは、どうしてもそうなる。おもいだしたときのお芙沙は、14歳のおれから見た、あの夜の熟しかかった25歳のお芙沙だし、おは18歳のお---いや、おはまだ19歳だから、いま会ってもそれほど変わってはいまいが---)

【参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14) (15)
2008年6月2日~゜お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

短い道中でのあれこれの場面も---21歳のままの阿記だった。
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(歌麿『遊覧』 鎌倉への阿記の道中イメージ)

しかし、昼間の阿記よりも、夜の阿記とのほうをおもいだすことが多い。
そのたびに、股間が熱くなるので困る。
まあ、今日は旅用の野袴だから、そうなっても目立たないが---。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

小名木川の河口に架かる万年橋を南へわたるころには、もう、明るくなってきていた。
早朝の涼しい風は、乾いていて、肌にこころよい。

わたる人影もない永代橋の東詰に、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)が待っていた。
「お気をつけて、行ってなせえまし。平塚の〔馬入(ばにゅう)の勘兵衛(かんべえ 39歳)どんには、荷物持ちの若(わけ)えのを出しとくように、小田原側の宿場問屋場へは、仙次(せんじ 22歳)の奴に、お待ち申しあげろと伝えてありやす」
仙次は、権七が箱根の荷運び雲助をしていたときの子分格の若い男である。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
箱根の荷運び雲助の仙次は、2008年4月1日[初鹿野(はじかの)〕の音松] (2)

仙次どのも、そろそろ、兄貴分らしくなっていることであろう。ああいう仕事をしている人は、いまどきの旗本の若者とちがって、一人前になるのが早いからな)

「なにかと、恐縮」
阿記さまの具合がてえしたことがねえように、祈っておりやす。こいつぁ、例の足薬でやす。お使いくだせえ」
「かたじけない。この秘薬〔足速(あしはや)〕があるとは、こころ強い」

参照】足の凝りほぐしに効く妙薬〔足速(あしはや)〕は、2008年1月4日[与詩(よし)を迎えに] (15)

3年前まで棲んでいた鉄砲洲築地の屋敷へ通じる、稲荷橋をわたるころには、東の空に陽がのぼりはじめていた。
大川に、金色の帯が走る。
橋は、京橋川のほうにに架かっている。
右へ、陽を背に、京橋川ぞいに東海道へ。

品川から1里(4km)の大森は六ッ半(午前七時)すぎ。
名物の麦わら細工屋がならんでいる。

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(大森の麦藁細工の店 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

いのししが目にとまった。

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(麦藁細工の亥、虎、熊)

(そういえば、阿記は、寛保3年(1746)生まれの亥(い)だったなあ。今年も2まわりめの亥年(いどし)だ。縁起ものだから、荷になるけど、一つ、買って行ってやるかな)
「干支(えと)を覚えていてくださいましたのね。うれしい」
そう言って喜ぶ、阿記の顔がうかぶ。

値段をきくと、5匁銀1枚だという。
5匁銀は、幕府が去年から鋳造をはじめ、12枚で1両と定めた。
銭(ぜに)は、いま相場がさがり、1両5000文前後だから、5匁銀1枚は420文ちょっと。

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(明和5匁銀)

いのししを手にとってはあったところへ戻し、また手にしている銕三郎に、店の亭主は、
「かさはありますが、軽いので、さして荷にはなりません。なんでしたら、お帰りのときまでお預かりしておきますが---」
「帰りでは、用がたりないのでな」

420文はちょっとした旅籠1泊2食・酒つきの値段である。
(これから先、どういうことが起きるかしれない。4年前の旅では、先々に父上が金を預けておいてくださったが、こんどは、わけがちがう。無駄づかいはひかえよう)

銕三郎がさらに思案していると、
「お武家さまですから、特別に1割お引きして、370文では?」
「いや---」
「350文がぎりぎりでございます」
「うむ。損をさせても悪いから、またのことにする」

銕三郎は、いささかこころ残りだったが、おもいきって、店をあとにした。

参照】文庫巻7[泥鰌の和助始末]で、〔泥鰌(どじょう)〕の和助(わすけ)が市ヶ谷田町の〔不破(ふわ)〕の惣七(そうしち)を松岡(まつおか)先生のお引きあわせといって訪ねたときに、身分証明の代わりに示したのが、大森村の名産・麦わら細工の鳩。p162 新装版p170
巻11[穴]で、〔平野屋〕の主人で元・〔帯川(おびかわ)〕の源助が、隣家〔壷屋〕の金蔵へ、かじりかけの甘藷(さつまいも)とともに置いてくる麦わらのねずみ3匹も大森村の細工もの。p122 新装版p128

(そういえば、阿記には、亥年らしく、おもい立ったら、つきすすむことしか考えないところがあったなあ。夜の床でも---。寅(とら)の拙は、阿記の狂おしいほどの熱情に、つい、あわせて、情けをそそぎこんだものだ。だからこそ、よいおもいでになっている)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記の事後のイメージ)

(それにしても、なにかというと、睦みあっているときの場面が、まず、うかぶのは、若さのせいかな。それとも、おからこっち、遠ざかってるからかな。われながら---)
「情けない。だらしない」
おもわず口にでてしまい、行きかった中年男の旅人が、不審顔で銕三郎を見て行った。

照れて、おもわず見上げた空に、鳶がゆうゆうと大きな輪を描いていた。
初夏も終わろうとしている。


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2008.07.23

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(7) 

「母上。東海道を上る途中、河崎大師(かわさきだいし)村の厄除(やくよけ)大師に祈祷を頼み、霊札でもいただいて行こうかと、思っているのですが---」

厄除大師は、『東海道名所図会(ずえ)』にこう、記されている。

大師河原平間寺 武州橘樹郡(たちばなこほり)川崎郷大師河原村にあり。真言宗新義。別当を金剛山金成(こんじょう)院といふ。
本尊弘法大師像。長(みのたけ)五寸(約15cm)。(略)
当寺の尊像は厄除大師といふ。寺説に云(いわ)く。

現代文に書き直してみる。

その昔---大治(だいじ)年中(1126~1130)、この浦に平間氏(ひらまうじ)という漁夫がいた。尾張国(名古屋あたり)から下ってきて、この浦で漁をなりわいとしていたものの、正直者のつねで、きわめて貧しかった。それでも仏を篤く信仰していたところ、42歳の厄年のある夜、夢に高僧が現われて告げた。
「わたしは、むかし、唐の国で自分の像を彫って、日本の有縁の地へ流れつけと海へ投げた。長年、海底に沈んでいたが、さいわいにも、この浦へ流れついた。おまえが網で曳(ひ)いて安置すれば、厄難を除滅し、長く富貴になるであろう。像がある場所は、毎夜、光明で知らせるから、そこへ網を投げよ」
高僧が告げて消えると、漁師は夢からさめた。
翌夜、光明を目じるしにして網を投じると、貝などが付着した大師の尊像がかかった。伝え聞いた衆が、厄を除いていただこうと、これを拝みに集まるようになった。
そこで、漁師はお堂を建て、平間寺と号し、村の名はだれいうともなく、大師河原となった。

母・(たえ 42歳)は、
銕三郎(てつさぶろう)。妙案とおもいます。だが、阿記(あき 25歳)さまの家が真言宗とはかぎりませぬ。もちろん、弘法大師さまが、功徳を、信徒とそうでない者とを区別なさるとはおもいませぬ。とはいえ、信仰のことゆえ、阿記さまがどうお受け取りになるかは、別です。ちょっとお待ち---」
自分の部屋から、2個のお守(まもり)をもってき、銕三郎(22歳 のちの小説の鬼平)の手に載せた。

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(左;熊野坐大宮 右;熊野速玉大宮)

一つは、熊野本宮大社---熊野坐(くまのにます)神社(現・和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡新宮町1100)。
もう一つは、新宮---熊野権現速玉(はやたま)大社(現・同県新宮市新宮1番地)。

「殿さまがお若くて、あちこちを旅してご見聞を深めていらっしゃったころに詣でて、お受けになってきたお守です。長谷川のご先祖に、駿州・小川(こがわ)から熊野へ逃れて、のちに熊野権現を勧請なさったお方がいらっしゃったそうですね。そのご縁で、熊野三山のうち、この本宮と新宮にお詣でになったと聞きました。神社なら、宗派ということもなく、また、長谷川家が勧請し、守護神ともいえる神さまとお知りになれば、阿記さまもお喜びになるのでは?」
「ありがたく、お預かりいたします。拙も、小川へ参ったとき、熊野神社に詣でました。阿記も、長谷川家から認められたと、喜びましょう」

司馬遼太郎さん『箱根の坂』の主人公・伊勢新九郎こと北条早雲(そううん)が庇護した今川家竜王丸(のちの氏親(うじちか))に、竜王丸・早雲派を援護した小川の実力者・豊栄(ほうえい 死後・法永)長者が描かれていることは、すでに紹介している。

参照】2006年5月23日[長谷川正以の養父]
2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)

静岡のSBS学園パルシェで、ともに学んでいる中林さんが『林臾院五百年史』や『今川記』などでお調べになったところによると、天文5年(1536)---いわゆる「天文の乱」に、今川義元(よしもと)が氏親の次男・恵探(けいたん)を破って家督を継ぐが、そのとき、長谷川の本拠だった小川の城も焼かれ、城主・長谷川元長(もとなが)は大和へ逃避、のち、戻って義元へ仕えた。そのときに、熊野三山を小川郷へ勧請。それが現存する焼津市小川地区の熊野神社の縁起であると。

お守は、もう一つ、増えた。
明朝出立という夕刻、〔盗人酒屋〕のむすめ・おまさ長谷川家を訪れた。
_100「とっつぁんから聞きました。(てつ)兄さん、箱根の元恋人のお見舞いにいらっしゃるんだそうですね。(てつ)兄さんの恋人なら、まさの姉さんです。早い回復を、亀戸(かめいど)天神さんにお祈りして、お守をいただいてきました。お守なら、荷物にもならないでしょ。姉さんにあげてください」

(亀戸天神は、学問と手習いの神様だがなあ)
銕三郎は、そうは思ったが、おまさにそんな区別がつくはずはない。
神仏に祈れば、平癒すると信じているのである。
鼻の奥がじんと熱くなったが、さりげなく、
「ありがとう。阿記どのに、妹分・おまさどののことをきちんと話しておきます」

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2008.07.22

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(6) 

「父上。お願いがございます」
夕食の前に、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)が、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手組頭)へ頭をさげ、封書を差しだした。

「きょう、届きましてございます」
差出人を見た宣雄が、
「ほう。あの藤六(とうろく)からではないか」
「はい」
「大事なく、勤めているか?」
「それが---」

藤六は、4年前、45歳になるまで、長谷川家の下僕をしていた。
銕三郎が駿府へ、朝倉家からの養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えに行くときに、供をした。
そのときに知り合った箱根・芦ノ湯村旅籠〔めうがや〕の女中頭・都茂(とも 43歳=当時)と意気と躰があい、暇をとって夫婦になった。

【参照】2008年1月16日~[与詩(よし)を迎えに](27) (29) (32) (33) (34)
2008年3月28日[於嘉根という名の女の子] (5)

〔めうがや〕で下働きをしているその藤六が、速飛脚(はやびきゃく)便をよこしたのである。

文面は、阿記(あき 25歳)お嬢さまの躰の具合がよろしくない。お嬢さまは、あちこちに気をつかってか、知らせないでと都茂にはおっしゃっているが、銕三郎若さまに来ていただきたいのがご本心のようにおもわれるので、なんとか都合をつけて、お越しねがいたいというのが、手前ども夫婦のお願いで---一日でも早いほうがよろしいかと---。

宣雄は、手紙を内妻・(たえ 42歳)へわたし、読み終えるのを待って、
「どうしたものかの?」
「申しあげるまでもございませぬ。さっそくに発(た)たせましょう」
「そうじゃな」

銕三郎。支度のできしだい、旅発つように---」
「承知いたしました。母上、かたじけのうございます」
銕三郎。言っておくが、お前も知ってのとおり、先手の組頭に任じられてより、1500石にふさわしい供ぞろえを求られておる。しかし、おいそれと家従をふやすわけにはまいらぬ。したがって、このたびの旅には、供をつけてやるわけにはまいらぬ。なにごとも、そち一人でまかなういように---」
「心得ました。父上、3日のうちに発たせていただきます。とりあえず、このこと、速便で藤六へ報せます」

しばらく稽古を休まねばならなくなったことを師に告げると、わけを聞きとった高杉銀平(ぎんぺい 60歳すぎ)が、
「些少だが、於嘉根(かね 3歳)とやらという長谷川の和子への土産のたしに---」
紙につつんでわたしてくれた。

師の前を下がると、さっそくに岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)が道場の外へ連れ出し、
「おふさどのの婚礼の日取りがきまった。5日後だ」
「なにをとぼけたことを言っておる。左馬さん、おどのをどう気なのだ?」

半月前、左馬は、隣屋敷の田坂直右衛門(70余歳)の孫むすめ・おふさ(19歳)が、本町の呉服商〔近江屋〕へ嫁に行くといって泥酔し、寡婦のおの家へ泊まったのである。
その夜のことは、おんなには縁の薄かった左馬にとっては、極楽で刻(とき)をすごしたほどの愉悦であったらしい。

参照】2008年7月19日[明和4年(1767)の銕三郎] (3)

そのことを、ぬけぬけと銕三郎に報告したものである。

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(国芳『葉奈伊嘉多』 あの夜の左馬とお紺のイメージ)

「そのようなことは、たとえ親友へも、話さないのが、相手に対するおもいやりというものだ」
「しかしな、銕っつぁん。あれが、女躰というものなんだな。精妙で、柔軟で、いたるところが淫らで、満ちて、底なしに欲しがって---」
「もう、よせ」
「いや、話したい---」
「勝手にしろ」

「そのあとも、会ったり、寝たりしているのか?」
「うん。毎晩でも抱きたい」
「ばか」

「おさんを、どうするのかってことだが、おさんは、いまのままでいいって言っているぞ」
「だから、左馬はお人よしっていわれるんだよ。あの人には、後ろに怖い男がついているのがわからないのか?」
「だれだ?」
「1年で、おどのを床(とこ)上手に仕込んだ男だよ」
「うん?」
「もう、会うな。火傷(やけど)する前に手を引け」
「だれが、床上手に?」
「亡くなったご亭主は、甘いものと酒気が躰中にまわっており、夜は役に立たなくなっていたって言ったろう」
「あっ」

「極楽へ、そうそう、たやすく行けたら、坊主どもがみんな職を失ってしまうわ」
「うーん」

旅支度に、ただでさえいそがしいのに、むりやり暇をつくり、〔盗人酒屋〕の忠助(40代)を呼び出し、事情をつつみかくさずに打ち明け、策を頼んだ。
しばらく考えていた忠助は、
「ようも、打ち明けてくださった。なんとか、手を打ちますから、安心して、箱根へいらっしゃってください」

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2008.07.21

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(5) 

下城してきた平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手組頭)が、銕三郎(てつさぶろう 22歳)を呼んだ。
中根伝左衛門(でんざえもん)どのの見舞いに行ってもらいたい」

中根伝左衛門正雅(まさちか 79歳 300俵)は、この正月に、老を告げて書物奉行筆頭を辞した。
昨秋以来、登城も休みがちだったらしい。
何しろ、老齢である。

「それほど、お悪いのでございますか?」
「そのようにも、耳にしておる。わかっておるであろうが、その前に、芝・新銭座の井上立泉(りゅうせん)どのに、補精の薬を調合していただいてお持ちするように」

中根伝左衛門には、宣雄はもとより、銕三郎もいたく世話になっている。
世話もそうだが、早世した嫡男が銕之助といい、銕三郎とおなじ「」の字だったこともあり、祖父ほども齢がはなれていたが、親しくしてもらった。

中根家は、もともと、大番の役番筋であった。
ということは、番衆は、駿府と大坂城の守衛の任につくこともある。
婿養子にむかえたニ代目の当主・金五郎重房(しげふさ)が大坂に勤務中、28歳の若さで卒した。

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(3代の当主とも養子。3代目・正庸に妻の離婚記録なし)

急遽、天野家の次男・大助(11歳)が養子となり、遺跡を継いだ。
大助がすなわち、伝左衛門老である。

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(天野家から養子入りの正雅と嫁入りし離縁された女子)

銕三郎は、老から、若くして寡婦となった養母の孤閨による性的不満からのいじめの体験を聞かされたこともあった。

参照】2007年10月16日[養女のすすめ] (3)

そんなことからもこころが通いあい、長谷川家の祖・紀伊守正長(まさなが)が守将だった田中城の城主の名簿も手配してもらった。

参照】2007年10月12日~[田中城しのぶ草] (21) 

そのときの旅で、銕三郎は、初めて男になった。相手は、後家になったばかりの芙沙(ふさ25歳=当時)であった。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめの)の母・お芙沙(ふさ)]

宣雄の2人目の養女・与詩(よし 6歳=当時)を受けとるために、銕三郎が駿府町奉行の朝倉家へ行くときにも、紅葉山の書物蔵から、朝倉家の家譜の写しを、中根伝左衛門からそっと渡されたこともあった。

【参照】2007年12月25,26日[与詩を迎えに] (5) (6)

この旅で、離縁を決心して芦ノ湯の湯治宿へ帰る途中の阿記(あき 21歳=当時)と知り合い、肌をあわせ、於嘉根(おかね)が生まれた。

(中根老は、甘いおもいでにかかわってこられる。縁むすびの神かも---)

銕三郎は、いい齢になっているくせに、おんなに対して、もうひとつ、だらしがない。いや、隙がありすぎるといおうか。その隙を、おんなは、かんたんに見破っている。

二日おいて、井上立泉医師からの朝鮮人参を台にした高価な薬もとどいたので、銕三郎は、逢坂横町の中根伝左衛門正雅の屋敷を訪ねた。

Photo
(牛込ご門外・逢坂横町の中根邸)

家婢(かひ)は、銕三郎を病室へ導くと、茶もださないで、さっさと消えた。
正雅の小鼻はほとんど落ち、薄い上布団のふくらみも薄い。
その姿は、孤独に死を待っているようで、養子・忠三郎正庸(まさつね 33歳)のことを訊くのもはばかられた。

立泉医師の薬を枕元へ置き、
「なんでしたら、火をお借りして、拙が煎じましようか」
銕之助どの。長生きはするものではありませぬな」
正雅は、あいかわらず、銕三郎を、死んだ嫡男の名で呼んだ。

「あれが、天野から迎えた嫁を離縁しましてな」
ぽつりと言った。
そのことは、5年前の話であった。
それが、昨日起きたことのような口ぶりであった。
「こらしめのために、家督をのばしてやりましたのじゃ」
離縁された前妻は、天野家での孫の次女だった。

後妻は、正雅の看病をきらっているらしい。

銕三郎は、盗賊〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳=当時)の若い妾・お(しず 18歳=当時)とねんごろになり、それがばれて、勇五郎から、
「お武家方のお子が、人のもちものを盗っちゃあいけねえ。人のもちものでも、金ならまただゆるせる。だが、おんなはいけませんよ」
と、たしなめただけで放免してくれた話を、笑いながらした。

伝左衛門は、息もたえだえに、ひぇっ、ひえっと笑い声をたて、
「幕臣だったら、遠島ものですな。金なら切腹」
とつぶやいた。
そして、
「久しぶりに笑わせてもらった。銕之助どの、かたじけのうござった。いまの話、閻魔大王を笑わせてやりましょうわい」
目から一筋、涙がこぼれていた。

参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
2008年6月7日[明和3年(1766)の銕三郎(てつさぶろう) 

ちゅうすけのつぶやき】2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言(16) で触れた、1000名からの部下の渇水死をすくうために二股城を開城したことが、家康の逆鱗にふれ、その申しわけに三方ヶ原の合戦を死に場所えらんだ、中根平左衛門正照(まさてる)は、中根一族の出。
記録のために、『寛政重修諸家譜』から、中根家の由緒書を引いておく。

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2008.07.20

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(4) 

権七どの、ご免」

赤子の泣き声がしている戸口から、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が声をかけた。
深川の正源寺(浄土宗 現・江東区永代1丁目)の南横手、諸(もろ)町のしもた屋である。
去年の秋から、出産にそなえて、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)・お須賀(すが 29歳)夫婦が住まっている。

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(南本所 正源寺 権七・お須賀の住まい 近江屋板)

ちゅうすけ注】 正源寺は、『鬼平犯科帳』巻3[麻布ねずみ坂]p15 新装版p15 巻4[あばたの新助]p173 新装版p187 に登場する。いずれも、寺そのものではなく、その裏手の家が舞台。後者は、同心・佐々木新助(29歳)が、大盗〔網切あみきり)〕の甚五郎の情婦・おさい)の色香にはまる初手の情事の場なので、かなり色っぽい。
ついでに---いや、よそう。小説は小説、史実は史実なんだから。佐々木新助の父親が属していた先手組のことなのだが。

須賀は、去年の10月、女の子を産んだ。
銕三郎は、その赤子の名前を頼まれたが、柄でもないと、いくつかの案を出して、夫妻に選ばせた。
けっきょく、お須賀のふるさと・三島からとった「お(しま)」がえらばれた。
いま、元気のいい泣き声で乳をねだっているのは、そのおである。

「変わりばえのしねえ所帯臭さで、申しわけございやせん」
権七は、口では済まながっているが、初めての父親気分は、まんざらでもなさそうである。

銕三郎は、〔古都舞喜〕楼の女中頭で、いまは本所・東両国尾上町の高級料亭〔中村屋〕で女中頭心得のお(とめ 33歳)から聞いた、おという、いわくのありげな女のことを告げた。
「するってえと、豊島町あたりをさぐってみりゃあ、よろしいんで---」
さすがに権七は察しが速い。

参照】文庫巻5[兇賊]p162 新装版p170で、〔鷺原さぎはら)〕の九平が、〔芋酒(いもざけ)・加賀や〕の店を出しているのが、神田川が大川へそそぎこむ、すこし手前の豊島町である。西両国の喧騒のはずれ。p

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(左=両国橋西詰から、右=和泉橋 赤○=〔芋酒・加賀や〕)

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(上図の豊島町1~3丁目拡大 赤○=〔芋酒・加賀や〕)

「火盗改メからの手当ての出ない話をもちこんで、拙もつらいのだが---なにしろ、大叔父が火盗改メを終えたもので---」
「なにをおっしゃいますか。〔古都舞喜〕楼や〔舟形ふながた)〕の宗平どんとは、くされ縁みてえなもんで---」

須賀が、抱いた赤子に胸元をひらいて乳をふくませながら、お茶をだしてきた。
「なんてえ、格好でえ。はしたもねえ」
「仕方がありませんよ。泣かせとくわけにはいきませんからね」
「どうぞ、おかまいなく。すぐに退散しますから---」
須賀のはちきれそうな乳房に、目のやりばに困った銕三郎は、とつぜん、阿記(あき 26歳)に、
「乳を吸いたい」
と甘えた夜のことをおもいだした。

参照】2008年1月30日[与詩をむかえに] (36)

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

あれは、大磯の旅籠〔鴫立屋(しぎたつや)だった。
銕三郎(18歳=当時)をいざなった阿記(21歳=当時)が銕三郎の手を乳房に導き、
与詩(6歳=当時)さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ(竹 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
「それからね。乳を吸わせてほしいって。母上が産後、すぐにお亡くなりになったのだそうですね」
「拙も吸いたい」
「まあ」

(そういえば、阿記も25歳のおんなざかり、わが子の於嘉根(かね)は、もう、4歳になる。ひと目でも会いたい)

その後、盗賊〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の若い妾・お(18歳=当時)と情をかわしたが、阿記のしっとりとした育ちのよさは、おからは感じられなかった。

【参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

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(栄泉『玉の茎』[水中流泳] 阿記が自分から言ったイメージ)

長谷川さま。おさんへの連絡(つなぎ)は、〔中村屋〕でよろしいんでやすかい?」
「そこでいいでしょう」
銕三郎は、なぜか、お母子の、松坂町の吾平長屋を打ち明けそびれた。
権七とのあいだにつくった、初めての秘めごとでもあった。
もしかしたら、おもいでの阿記が、なにか秘みつをもったほうがいい---とささやいたのかもしれない。

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2008.07.19

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(3) 

っつぁん。おふさどのが嫁入りするぞ」

高杉道場へ現われた銕三郎(てつさぶろう 22歳)に、いきなり、怒鳴るように言ったのは、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)だった。

ふさは、農家を改造した高杉道場の隣の屋敷の主・田坂直右衛門(70余歳)の、たった一人の孫むすめで、この年、19歳になったばかりである。
岸井左馬之助が、ひそかに恋ごころをいだいていた。

これまでも、垣根ごしにおふさの姿をかいま見ては、
お「ふさどのが髪をあらっている」
参照】2008年4月10日[岸井左馬之助とふさ]
だの、
お「ふさどのが、横川べりの木陰で涼んでいる」
参照】2008年5月5日[盗人酒屋〕の忠助] (その7)
などと、いちいち、報告におよんで、うるさかった。

左馬之助は、下総国(しもうさ)印旛郡(いんばこおり)臼井(うすい)で、手広く商売もやっている郷士のせがれで、5年前から単身出府、押上(おしあげ)の春慶寺に寄宿している。

参照春慶寺←クリック

だから、人恋しさも一倍なのであろう。
隣屋敷のおふさを、仮想恋人していた。
もちろん、おふさにしてみれば、左馬之助は、隣の貧乏道場の若者の一人にすぎなかったのだが---。

そのおふさが、嫁(とつ)ぐというので、左馬之助は、蒼白な顔色をしている。まるで、失恋したみたいだ。
「それで、どこへ嫁(とつ)ぐことになったのだ?」
「日本橋・本町の呉服商だ」
「なんという店なんだ?」
「〔近江屋〕なんとか兵衛」

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池波さんがモデルにした〔近江屋〕呉服店 『江戸買物独案内』)

「ま、田坂家としても、金のない剣術遣いより、豪商のほうを選ぶのは、とうぜんだからな」
「他人事みたいに言うな!」
「きょうは、徹底的に呑んで忘れるんだな。そうだ、亀戸のお(こん 28歳)さんが戻ってきたそうだ」
「よし、今夜は、〔盗人酒屋〕だ。っつぁんも、つきあえ」

いったん、三ッ目通り・菊川町の自宅で着替えてから、四ッ目の〔盗人酒屋〕へちょっと遅れてついてみると、左馬之助は、おと〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)を相手に、そうとう、過ごしていた。
大きめの体をおの肩にしなだれかかるようにして、
「やあ、頼もしきわが剣友・っっぁんのご入来だ。遅かったではないか」

おまさ(11歳)が寄ってきて、ささやくように、
(てつ)兄さん。岸井さん、どうなったんですか? ずいぶん前から、あの調子なんです。おふささんという人がどうしたの、こうしたのって、おおばさんも、もてあましているみたい」
「すまん。今夜だけは、見逃してやってほしい。左馬は苦しいんでいるんです」

飯台の左馬の正面に座った銕三郎が、おに、
「お久しぶりです。足利のほうでは、なにごともなく済みましたか?」
には、やつれがすこし顔にういている。もともと細面だったから、よけいに目立つ。
「おいおい、っつあん。おさんは、戻ってきなさったんだ。なにごともあるもんか」
彦十が、左馬之助をなだめにかかった。
「はい。お蔭さまで、とどこおりなく、納骨が済みまして---」
「今夜、みねちゃんは?」

おまさ が指で上を指し、
「食べるものを食べたら、くたびれて、上の部屋で寝んね」

左馬之助は、盃をあけては、じっとなにかを見すえている。
が、
「そろそろ、きりあげましょう」
すすめても、首をふるだけになった。

入江町の鐘が五ッ半(午後9時)を告げた。
看板の時間である。
銕三郎が支えて立たせても、左馬之助はおの肩のほうへ寄りかかってしまう。
弾力のある女の躰の触感とやさしい扱いに飢えてきていたのが、酒の勢いで一気にふきだしたみたいだった。
も察したとみえ、
「春慶寺までは、とても無理です。あたしのところで、酔いをさましていただきましょう」

おまさに、おみねをあずかってくれるように頼んで、左馬之助をかかえるようにして店を出、彦十が提灯でもつれている2人の足元を照らしてやりながら、横十間川に架かる旅所橋へ向かう。

月が細くなっている夜で、音もなく流れている横十間川は、黒い帯のようだ。

橋の手前までつきそった銕三郎彦十は、あとをおにまかせ、2人が清水町の裏長屋の木戸口に消える見送ると、引き返した。

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(〔盗人酒屋〕から下(東)へ行くと旅所橋。わたって左折すると清水町のお紺の長屋)

長谷川さまの旦那。あの2人、大丈夫でやすかねえ」
彦十どのは、何を心配しているのですか?」
「おさんも、後家を立ててはいるものの---」
「大人の男と女のあいだのことは、なるようにしかなりません」
「でも、おさんには、怖い後ろ楯tが---」
「〔法楽寺(ほうらくじ)の直右衛門ですか?」
「ご存じでやしたか?」

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

〔盗人酒屋〕の前でおまさが、看板行灯の灯をおとさないで待っていた。
(大丈夫)
とうなずいて、
「おやすみ」

おまさ が店へ入ったのを見さだめ、
「ご亭主どのの納骨へ、足利あたりへ行って、1年も足止めされたとなると---」
「ちげえねえ」
「それに、おみねちゃんの早寝のくせがついたのも---」

参照】女賊・おみね

「なるほど---あ、ちょいと、だち(とも)が来やしたんで---」
彦十が小名木川の土手で、しだれた小枝をゆらしている柳樹へ話しかけた。
「おい。しばらくだったね。なになに、左馬さんのことは、しんぺえねえ? 足利のほうが飽きてきたったんだろうって? うん、そういうことかもね。だったら、おさんも、まんざらじゃあ、ねえってことなんだ」

参照】〔相模(さがみ)〕の彦十

銕三郎は、彦十のような浅読みではすませなかった。
 〔法楽寺〕ほどの大物が、女の躰に飽きたから、などと理由でおを手放すわけがない。もっと、先を読んでのことに決まっている。左馬がその穴に落っこちたのでなければいいが---)


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2008.07.18

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(2) 

本所・四ッ目、北松代町1丁目にある〔盗人酒屋〕についたのは、七ッ(午後4時)前であった。
(とめ 33歳)・お(きぬ 12歳)母娘に、これほど時間をとられていたとは気づかなかった。
声がこもがちの天童なまりもすっかり消えているおのあく抜けた話しっぷりに、
(女の、ところ慣れはみごとだ)
おもわず聞きほれていたともいえる。

参照】2008年7月17日[明和4年(1767)の銕三郎] (1)

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(北本所 上部(西)に{〔紙屋〕 下部(東)に〔盗人酒場〕)

おまさ(11歳)は、羽目板や飯台を拭いていたが、銕三郎(てつさぶろう 22歳)の姿を認めると、それがくせの、黒くてぱっちりした双眸(りょうめ)を細めて、微笑(ほほえ)む。
そういうところは、とても11歳の女の子には見えない。一人前のむすめだ。

「手習いが上達しているごほうびです」
買ってきた手習い帖をわたすと、ぺろりと赤い舌をだして、
(てつ)お師匠(っしょ)さん。じつは、あまり、すすんでないんです。でも、うれしい。ありがとうございます」

おまさ。店の支度はいいから、お師匠さんに手筋帖を診ていただきな」
板場から手を拭きながら出てきた長躰の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)がうながした。
この男は、〔(たずがね)〕のという「通り名(呼び名とも)」のとおりに、ひょろりと背が高い。
どちらかというと少女らしく小太りのおまさは、亡母似なのであろう。
店は、忠助おまさの父娘(おやこ)だけでやっている。

おまさが、裏2階から、手習い帖をもって降りてきた。
「おとっつぁんたら、将棋じゃあるまいし、手筋帖だなんて。いつまでも、手習い帖って覚えないんだから。いやんなっちゃう」
「父上に対して、そんな口をきいてはなりません」
「ほらみろ。お旗本の長谷川さまのおっしゃることは、いつも、まちがってない」
忠助も、いまでは、銕三郎のことをすっかり信用している。
「ご亭主。それ、皮肉ですか?」

躰を銕三郎にすり寄せていっしょに自分の手習い帖を見ていたおまさが、突然、言った。
兄さん。女の人と会ってきましたね? どちらの方ですか?」
おまさ。先生にむかって、なんてことを---」
「いや、ほんとうですから、いいんです。よく、わかりましたね」

「違う髪あぶらの匂いがしています。よっぽど、くっつきあったのですね」
「そうではありませぬ。その女(ひと)は、仕事がら、匂いの強い髪あぶらをつけているのでしょう」
「仕事がらって---?」
「料亭の女中頭なのです」
兄さんは、昼間っから、料亭なんぞで---」
「そうではありませぬ。紙屋で---」
「髪や?」
「この手習い帖を買った、屋号が〔紙屋〕という、紙屋です」

それから、〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の一件を口にしたとき、〔〕の忠助がまばたきをはげしくしたのに、銕三郎は気がつかなかった。
初鹿野(はじかの)〕の音松や〔舟形(ふながた)〕の宗平の名には聞き覚えがあったのであろう。

「そうそう。お(こん 28歳)おばさんとおみね(7歳)ちゃんが、前のところへ戻ってきました。前の家はふさがっちゃっていて、その隣の家ですけど---」

Photo
(盗人酒場〕とお紺の長屋のある清水町)

「ずいぶん長い納骨でしたね。1年にもなります」
また、忠助がまばたきをした。

たちは、亡夫・万蔵(まんぞう 享年35歳)の納骨に、万蔵の故郷の、足利のはずれの助戸(すけど)へ行ったのであった。

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(足利まわり)

あとになって銕三郎は 、おの出身は下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井)で、亡夫・万蔵とは江戸で結ばれ、助戸へは行ったことがない---と聞いたのをおもいだした。
(ご亭主の実家とはいえ、初めて会う嫁だから、仏になれば、縁が切れるみたいなものなのに、よくも1年間、食わしてやったものだ)
疑問がわいた。

ちゅうすけからのお願い】もし、足利近辺や、栃木の二宮町にお住まいの鬼平ファンの方が訪問してくださっていたら、それぞれのところの風景なり、鬼平のころの人情をコメント欄にお書き込みいただけると、交流がふかまります。

栃木県二宮町
二宮町大字物井には、二宮尊徳資料館があるんですね。池波さんにも初期の短編[尊徳雲がくれ](『谷中・首ふり坂』新潮文庫 1990.2.15)があります。この短編に、物井郷も登場していますが、お紺の故郷を物井に決めたのは、この短編に拠ってではありません。

助戸公民館

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2008.07.17

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう) 

明和4年(1767)の春---。

平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として初出仕した寛延元年(1748)閏10月9日から、とりあえず、20年すすんで、銕三郎(てつさぶろう 22歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)の青年時代。

参照】そのちょっと前の銕三郎の活躍の思い出しは、下記の日記で拾い読みを。
2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 
2008年4月26日~[ 〔耳より〕の紋次]  (1) (2)
2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助]  (1) (2) (3) (4) (6) (7)
2008年5月6日~ [おまさの少女時代] (1) (2) (3)
2008年5月10日~[高杉銀平師]  (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年5月16日~[〔相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3)  (4)
2008年6月1日   [名草(なぐさ)〕の嘉平]
2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
2008年6月7日~ [明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

聖典『鬼平犯科帳』には登場しない、〔五鉄〕の並び---本所・緑町2丁目にある高級料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の女将・お(ふく 38歳=当時)、女中頭・お(とめ 32歳=当時)、通いの座敷女中・お(まつ 年齢未詳)とか、本所・五ッ目の〔盗人酒場〕の常連〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 享年=35歳)の女房・お(こん 27歳)とむすめのおみね(6歳 のちに女賊として聖典に)など、ご記憶の方もあろう。

きょう、ぽっくり顔を見せるのは、おである。あれから1年たっているから、年齢は33歳---女の厄齢(やく)の一つではなかったかな。

本所・出村町の高杉道場からの帰り、久しぶりに〔盗人酒屋〕のむすめ・おまさ(11歳)の手習いのすすみぐあいをみてやるつもりで、銕三郎は、本所・回向院うら、松坂町の〔紙屋〕弥兵衛方へ、手習い帖を求めに立ち寄った。

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(本所西部 上部に〔紙屋〕、下部に高杉道場)

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(〔紙屋〕弥兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)

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ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[流星]で、船頭の友五郎ともごろう)を恐喝するために、かどわかされる〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち)の隠し子・庄太郎(しょうたろう)が手代をしていた本所・松坂町1丁目の紙問屋〔越前屋〕卯兵衛は、『江戸買物独案内』の次ページの2軒の問屋名の合成である。

「おや。お久しぶりでございます」
買い物をしていたあく抜けた年増が、声をかけた。
「おどの--でしたね。お子連れなので、見違えました」
そう受けた銕三郎に、お(とめ 33歳)は、恥じらうような笑顔で、かたわらの女の子(12歳くらい)を前に押し出し、
「わたしのむすめのお(きぬ)と申します。お見知りおきくださいませ」
は、背丈はおまさよりもすこし低めだが、顔立ちはおに似て整っている。
ぺこりと頭を下げると、すぐに母親の後ろへ下がった。
(もう3年もしないで、男の子たちがさわぎだすだろう)
「ほう。こんな大きなむすめごがおありだったのですね」

銕三郎がおに会ったのは、去年の春のおわりごろであった。
彼女が住み込みで女中頭をしていた料亭〔古都舞喜〕楼に賊が押し入った。
賊の中の一人が、淡いさくら色の手ぬぐいで鼻をかんだ。
それを、羽前(うぜん)・天童の近くの成生(なりう)村(現・山形県天童市成生)育ちのおが、紅花染めと見やぶり、賊は〔初鹿野(はじかの)〕の音松と〔舟形(ふながた)〕の宗平一味と知れた。もっとも、逮捕にまではいたらなかったが---。

参照】〔初鹿野(はじかの)〕の音松
〔舟形(ふながた)〕の宗平

銕三郎が買い物をすますのを待っていたように、
「お急ぎでなければ、そこらでお茶でも---」
は、このまま、別れがたい様子だった。
あのときの聞き込みの銕三郎の挙措が、役人らしくなかったのに、好感をいだいたらしい。

「いまは、すぐそこの、〔中村屋〕で女中をしております」
腰をおろすなり、おがきりだした。

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(料亭〔中村屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

「ほう。〔中村屋〕といえば格も高く、拙ごとき、部屋住み身分の者には竜宮城みたいにおもえます」
「ご冗談を---」
「おどのは、〔古都舞喜〕で女中頭をしていたほどの人だから、単なる座敷女中ということもなかろうが---」
「恐れいります。心得をさせていただいております」
「女中頭心得---ですか?」
「身にあまるお扱いをいただきましたのも、口をおききくださいましたさるお方のご威光でございまして---」
(「さるお方---」は、いずれ、〔耳より〕の紋次どのに聞けばしれよう)

「〔古都舞喜〕は、やはり、むつかしくなりましたか?」
「あの、両国米沢町の〔加納屋〕さんのことは---?」
「ちら---と耳にしたような気もするが、武家方の屋敷に住んでいると、町方のことはうとくて---」
(〔加納屋〕善兵衛が、男としてのことがすすまなくなって、手切れしたと〔笹や〕のおさんから聞いたが---)
「わたしは、このおを亀沢町の知り合いに預けて、住み込みで働いておりましたが、〔中村屋〕さんでは、この子もしっかりしてきているのだからと、いっしょの部屋をご用意くださり、母子でお世話になっております」
「それは、重畳。嫁に出すまでは、母子いっしょが、いちばん」

「じつは、お足をおとめしましたのは、ほかでもございません。覚えていらっしゃるでしょうか?」
声をひそめたおは、〔古都舞喜〕楼でただ一人の通い座敷女中だったおの名をだした。
通いだったせいで、賊が押し入ってきた夜には、2度とも居あわさなかったので、火盗改メも聞き込みをしなかった。

「そのおさんですが、2度目の盗難があってから10日もしないで、ふいっと暇をとってしまったのです。
たまたま、人手が足りない日に、おさんが住んでいることになっていた北森下町の裏長屋へ手伝いを頼みに行った若い者(の)が、そういう人はいないといわれて、きつねにつままれたように顔で帰ってきたのでございます」
火盗改メの役人も、あれきり見えなくなったから、そのことの申告もしないですましてきたが、
長谷川さまのお顔を拝見して、ふと、おもしだしまして---」
「いいことを聞かせていただいた」

「ところが、五日ほど前になります。用があって両国橋をわたっておりましたら、西側からこちらへあるいてくるおさんに出会いました。それで、とぼけて、北森下町にいまでも住まっているのかと訊きましたら、豊島町の裏長屋だと---。これで、火盗改メ方への申請は終わったということにお願いできますか?」
「よろしい。ところで、おさん、いまのお住まいを訊いておいてよろしいですか?」
「昼間はこの子と、松坂町2丁目の吾平長屋におります。八ッ半(午後3時)からは〔中村屋〕です」

銕三郎は、お留のこの報らせを、火盗改メのいまのお頭・細井金右衛門正利(まさとし 63歳 廩米150俵)に告げる気はなかった。
(あの仁は、まったくの役人気質だ。お上から金子(きんす)が出ないと、何もしたがらない)
銕三郎は、とっくに見切りをつけていた。

参照】細井金右衛門正利についての銕三郎の認識は、上記したリンクとダブるが、
2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)

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2008.07.16

宣雄・西丸書院番士時代の若年寄(3)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)は、西丸・書院番士を、30歳の初出仕から、宝暦8年(1758)9月15日(41歳)に小十人頭に栄進するまで、足かけ11年勤めた。

その間に、3番組の番頭が2人代わったことは、すでに、2007年5月5日[宣雄、西丸書院番時代の上役]に掲出した。
姓名を再録すると、初出仕時が柴田但馬守康完(やすのり 54歳=寛延元年 5000石)、2番目は仙石丹波守久近(ひさちか 39歳=寛延3年就任時 2000石)、小十人頭へ栄進したときの番頭が岡部伊賀守長晧(ながつぐ 43歳=就任時 3000石)。

与頭(くみかしら 組頭とも)は、最初が松平(久松)新次郎定為(さだため 64歳=寛延元年 1000石)。この人のことは、
2007年5月4日[寛政譜(21)]と、
2007年5月6日[松平新次郎定為]に記している。
つぎの与頭の能勢十次郎頼種(よりたね 52歳=宝暦5年就任時 600石)---といった上役の移動がもっともかかわりの深い身辺変化だったろう。
参照】2007年5月20日[組頭、能勢十次郎頼種]
2008年7月14日[宣雄、西丸書院番士時代の若年寄]

しかし、宣雄が西丸・書院番に出仕して2年目、寛延2年(1749)6月29日の、三浦志摩守義理(よしさと 54歳=辞職時 西尾藩主 2万3000石)の西丸・若年寄の突然の辞職と隠居、翌々年の宝暦元年(1751)に明らかになった辞職・隠居の真相も、宣雄にとっては衝撃だった。

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(西丸・若年寄 三浦志摩守義理の個人譜)

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(西丸・若年寄 三浦義理家の寛政譜)

三浦家は、領地・相模国三浦を姓にしているほど、頼朝(よりとも)以来の名家である。
志摩守義理の父・壱岐守明敬(ともひろ 壬生、延岡、刈谷藩主 2万3000石)は、25歳で晴れの奏者番となったが、拝謁の者の名を口ごもったのをとがめられて、とりあえず若年寄職へ退避、3ヶ月で復帰という珍プレーをやっている。政治力もかなりのもので、転封も3度。

3男の幼名・求馬(のちの義理)は、父の延岡藩主時代に同地で生まれているから、国許側室の子。
刈谷城へ移ったときは、17歳。
正室から生まれた兄・明喬(あきたか 享年=38歳)が、家を継いで2年後に逝ったので、藩主の座が7歳年少の義理(31歳=家督時)にまわってきた。
花の奏者番へは、なんと、46歳の壮年も終盤だった。
西丸・若年寄は47歳の大器晩成型。

そして、すでに記したように寛延2年の辞職と、家督を舎弟・明次(あきつぐ 32歳)へ譲渡となる。

さて、壱岐守改め、主計頭義理が一族の罪に関連した事件は、宝暦元年(1751)10月12日に決着した。
この年をわかりやすくするために書いておくと、宣雄が西丸・書院番に出仕して4年目。
また、6月20日には、大御所・吉宗(よしむね 68歳)が歿している。

主計頭義理の祖父の次弟が、5000石を分与されて分家した。
その三代目・肥後守より(木偏に坒)(つぐ)は、だから、義理の従兄にあたる。
5000石の大身旗本にふさわしく定火消、小姓組の番頭、西丸や本城の御側などを歴任、位も諸大夫の従五位下。
それが植村千吉某の殺害について大目付の推問があったとき、嘘の陳述をしたのは、御側をもつとめる身に似合わないから死罪に相当するが、宥(ゆる)されて本多美濃守忠敞(ただひさ 25歳 古河藩主 5万石)に預けられた。

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(三浦より次・員次の個人譜)

息・織部正員次(かずつぐ)も中奥の小姓として勤めていたのに、同事件で真実を述べなかったとして、遠流のところを宥(ゆる)されて、宗家の主計頭義理に預けられた。

一族の男たちの処分は家譜のとおり。

吉宗が行ったかずかずの改革の一つに、罪を家族や一門におよばせないというのがあるが、この処分でみるかぎり、義理の西尾藩がとりつぶされていないのかそれか。
もっとも、家を継いだ明次は、西尾から美作国勝山へ国替えさせられている。参勤交代でいうと、江戸から104里遠くなった分、物入りになったから、藩や家臣としては痛かったろう。せっかく先々代が延岡から三河へと距離を縮めたのに。

ちゅうすけのつぶやき】植村某の殺害事件の推移はまったく不明。西尾藩か勝山藩の郷土史家の方に教えを請いたい。

この事件のとき、銕三郎(てつさぶろう)は7歳。
宣雄の正妻・波津(小説での名)は2年前にみまかり、屋敷も赤坂から鉄砲洲築地へ移っていた。
宣雄が、銕三郎をさとす。
「公事(くじ 裁判ごと)で、曲りごとを口にしてははならぬ。無言はよし。武士たるものは、信頼を商人以上に尊しとする。信頼は、約束を守ることから発する。もっとも、約束をしないければ、破ることもないがの」

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2008.07.15

宣雄・西丸書院番士時代の若年寄(2)

〔江戸幕府・中興の祖〕と呼ばれる吉宗(よしむね)は30年近くもその座にあって改革を推進し、62歳なったときに将軍職を、世子・家重(いえしげ 35歳)にわたし、最初にしたことは、23年間も老中をつとめた松平(大給)左近将監乗邑(のりむら 60歳 佐倉藩主 6万石)の罷免・隠居命令であった。
延享2年(1745)10月のことである。

近年の専横ぶりが、とがめられたのだということになっているが、同年の加増分の1万石の公収といい、役宅の即日引き払い令といい、田沼意次(おきつぐ)失脚時の没義道に近い扱いの前例ともいえる。

乗邑の実質後任ともいえるのは、翌3年(1746)5月に、西丸・老中から転じた松平(元越智)右近将監武元(たけちか 34歳 館林藩主 3万石)。

松平武元が本城へ転じたことで、西丸・老職を埋めるかたちになったのが、西丸・若年寄から引きあげられた秋元但馬守凉朝(すけとも 31歳 川越藩主 7万石)ある。

そういう人事異動もあり、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳)が西丸の書院番士として出仕したときの若年寄筆頭は、4年前から同職にあった戸田淡路守氏房(うじふさ 45歳 大垣新田(野村)藩主 1万石)であった。

もちろん、初出仕したばかりの宣雄が、じかに若年寄筆頭と言葉をかわすようなことはないであろう。
しかし、人物の風評が戸田氏房の耳に入ることがなかったとはいえまい。
というわけで、実力者・淡路守氏房の個人譜をかかげながら、やり手の譜代大名の典型を見てみたい。

まず、戸田一族だが、三条家の末裔で、三河国戸田に住したので姓とした---と『寛政譜』にあるが、『旧高給領』には、三河では戸田は見当たらない。現在のどこなんだろう?
清康(きよやす)のころから意を松平に通じていたらしいが、今川勢の下にあった。
氏真(うじざね)の代に、家康方の旗色を鮮明にする。
とくに、氏房の祖の元である戸田氏光(うじみつ)は、母が人質としてとらわれている吉田城攻めにも軍忠にはげんだので、家康がわざわざねぎらったと。

一族には、肥前国島原7万7900石を領して長崎の守りを命じられた者もいるし、老中を務めた者もおり、支族は40家近いから、やはり、譜代の中ではかなりの勢力だったといえそうである。

氏房は、美濃国大垣藩主・采女正氏定の5男で、7歳で大垣新田(野村)藩主・淡路守氏成(うじしげ)の養子となった。

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家継への初見は12歳。
養父が歿したので(61歳)、家を継いだのは16歳。
若手譜代大名の出世コースのとば口である奏者番(そうじゃばん)になったのが34歳。

参照氏房より10年送れの延享4年(1747)に奏者番に任じられた美濃国郡上八幡藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 35歳=当時 3万9000石)が、要路へ配慮する資金の捻出に、増税を領民へ課して一揆を誘い、その処理のまずさから所領召し上げのうえ、他家へ預けとなった件は、
2007年8月212日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

戸田氏房は、金森頼錦と異なり、順当に出世の道をあゆんだ---というのも、『個人譜』にもある、享保10年(1725)7月28日(氏房 22歳)の殿中での処置が、幕閣の好感と賛嘆を呼んだのであろう。

享保十年七月二十八日、(本家の長兄の)戸田伊勢守氏長(うじなが 39歳)に代りて水野隼人正忠恒(ただつね)と同じく営に登りて婚姻を謝するのとき、忠恒狂気して毛利主水師就(もろなり 20歳 長府藩主 5万7000石)と刃傷に及ぶ。氏房速かにその刀を奪て狼藉を鎮(しず)む。

宣雄は、3歳だった銕三郎(てつさぶろう)に、教えたであろう。
「武士たるもの、みだりに刀を抜いてはならぬ。まして、殿中では、な。しかして、刀を怖れてはならぬ。むやみに刀をふるう者をたしなめる勇気を置き忘れるなど、あってはならぬ。戸田淡路守さまは、22歳の若さで、沈着になされた」
あたかも、現代の父親が、自社の経営陣の中で尊敬している仁の青年社員だったころの器量を語ってきかせて、男のあるべき姿をわが子にそれとなく教えるのに似ていないだろうか。

ちゅうすけからの問い合わせ】これまで、採り上げた幕臣の一家あるいは一門の『寛政譜』を、一覧性のために、A3に再構成したものを縮小して掲示していました。もちろん、読み取れるはずはなく、また、そうしていただくつもりもなく、ただ、話題の仁が一家・一門の中でどのあたりに位置していたかを感じとってていただくのが狙いでした。

こんど、これまでとおりのA案と、『寛政譜』復元本に近いB案をつくってみました。

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(A案 戸田氏房家の寛政譜)

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(B案 戸田氏房家の寛政譜)

A案のままでいいか、B案を新規に作成すたほうがいいか、コメントしていただけますか?
A案はすでに500家ばかりできていて、当方は苦役なしに活用できます。
 

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2008.07.14

宣雄・西丸書院番士時代の若年寄

書院番は、若年寄の支配下にある。
それは、本城も西丸も同じ組織になっている。

もっとも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳)が書院番士として西丸に出仕した、寛延元年(1748)閏10月9日には、2人の主がいたかも。
世子・家治(いえはる 幼名・竹千代 12歳 大納言)と、引退したとはいえ大御所・吉宗(よしむね 65歳)である(あるいは、竹千代は二の丸にいて、宝暦元年(1751)6月20日の吉宗の歿後、西丸へ移ったかも。このあたり未調査)。

(『徳川実紀』の宝暦元年6月26日の項に、「(将軍・家重は)大納言(竹千代)とともに、西城へならせ給い、(有徳院殿=吉宗の)霊柩を拝させ給ふ---と記している)

で、家治側の勤仕の者たちを束ねている若年寄を見るために、『柳営補任』を開いて、一瞬、ぎょっ---とした。

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(青〇=西丸の若年寄 緑〇本城の若年寄 黄色〇=大御所担当の若年寄)

 板倉伊予守勝清(かつきよ 43歳 安中藩主 3万石)
 戸田淡路守氏房(うじふさ 45歳 大垣新田藩主 1万石)
・堀田加賀守正陳(まさのぶ 40歳 宮川藩主 1万3千石)
・加納遠江守久通(ひさみち 76歳 八田藩主 1万石)
・堀 式部少輔直旧(なおひさ 34歳 椎谷藩主 1万石)
 三浦志摩守義理(よしさと 53歳 西尾藩主 2万3千石 )
 秋元摂津守凉朝(すけとも 32歳 川越藩主 7万石)
   実は前年秋に西丸・老中
 小出信濃守英持(ふさよし 43歳 園部藩主 2万石)
・小堀和泉守政峯(まさみね 59歳 小室藩主 1万余石)
( ・ 大御所・吉宗付 年齢は寛延元年。ただし、堀 式部少輔は享年)

が並んでおり、堀 式部少輔の任免の年月日が、図版でごらんのように、

同日大御番ヨリ、大御所様附
同五辰六月十九日卒

とある。
年の数字の下の十二支にくわしくなくて、つい、数字だけで判断してしまう。
2つの同---も、咄嗟には、どの年号なのかわからない。

堀 式部少輔の前の行---加納遠江守のは、

延享二丑九月朔日御側より、大御所様附
同四卯九月十五年寄候ニ付、付番御免
寛延元辰八月十九日卒

この「延享二丑九月朔日御側より、大御所様附」は、吉宗(62歳)が将軍職を世子・家重(いえしげ 35歳)に譲って、大御所になった月日である。

堀 式部少輔の、同---を、その寛延元年と読んでしまった。
あちこち調べまくって、「延享二丑九月朔日御側より、大御所様附」と読むべきだと気づいた。

調べまくったのは、大御所付とか、西丸の若年寄は、リストに載っていないことが多いから、手間だったのである。

実紀』の延享2年(1745)9月1日の項に、

大御所はただちに西城へ御遜退あり---

とあり、吉宗が紀州から江戸城へ入ったときに采配をふるい、その後も側衆として将軍をささえた生き残りの加納遠江守久通が、大御所付きの若年寄としてしたがったのは当然である。
もう一人の腹心の重臣・有馬兵庫頭氏倫(うじのり)は、吉宗が隠居した延享2年(1745)からいえば10年前、宣雄が書院番士として出仕がきまった寛延元年からみると13年前の享保20年(1735)に歿していた。享年68歳。
参照吉宗の紀州藩の赤坂の中屋敷から江戸城へ登場してそのまま将軍になった経緯は、
2007年8月212日~[徳川将軍政治権力の研究 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) 
(10) (11)
吉宗が西丸へ遜退した延享2年の翌年---つまり延享3年(1746)には、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以=鬼平)が誕生しているから、このあたりの年号は記憶しておいて損(?)はない)

個人的な興味をいうと、隠居所での若年寄に、加納久通が優先して指名されているのと、他の2人---堀 式部少輔直旧と小堀和泉守政峯の選抜理由の推測だが、いまは触れない。
(小堀政峯の任命月日の「同」は、堀 式部少輔直旧が卒した延享5年---この年の7月12日に寛延元年と改元---の6月19日か、小出信濃守英持が発令された7月1日かである。ちなみに、小出英持は、発令日に伊勢守信濃守と改称している。また、英智は『寛政譜』が英持と指示しているのに従った)
ちゅうすけの断り言】『鬼平犯科帳』巻16[白根の万左衛門]で、鬼平が麹町2丁目の2000石の旗本・小出内蔵助と、ここの小出信濃守との関連の推理も、後日。

さらに、寛延元年8月19日の『実紀』の、

大御所方の少老(若年寄)加納遠江守久通卒去す

も、いまは素通りしておく。

さて、全員を『寛政譜』であたり、2日がかりで、西丸の老中が秋元凉朝、若年寄が戸田(右近将監改め)淡路守氏房、三浦義理とわかったときには、くたびれ果てて、しばらく、活字をみるのがいやになっていた。

したがって、3人については、日を改めて紹介する。


 

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2008.07.13

宣雄に片目が入った(7)

2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (2) に、『徳川実紀』の寛延元年(1748)閏10月9日から、

西城書院番に入番二十七人。(日記)

を引き、この26人を暇を、見て、またも『寛政重修諸家譜』を総ざらえする---が、いまは無理だ---と書いた。
手持ちの『寛政譜』は22冊で、総ページは約8,800---先日の総ざらえには、1週間、延べ60時間かかった。
その残影で、いまでも『寛政譜』の細かい活字を30分も見ていると、めまいがしてくる。

30分ですすむのは、約60ページ。
それでも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳=寛延元年)が西丸の書院番士だった11年間の、同僚を見つけるのはおろか、本城もふくめて両番(書院番と小姓組)の番士だった幕臣に一人も出会えないことが多い。

ということから、両番の家がそれほど多くはなさそうだと思えてきた。

両番筋の家はいったい、何家ほどあるのだろう---という疑問がわいた。
書院番組は、本丸が6組、西城に4組で、各組50人ずつ。
小姓組も同じ。
つまり、どちらも500人ずつが勤めているということ。

_130両番筋の家を調べる方策を、思いついた。
手元の『江戸幕府旗本人名事典』(原書房 1989.6.30)全3巻 プラス別巻で、「番役筋」をひろう方法がそれ。

この便利する労作は、石井良助先生監修、小川恭一さん編。
どんな記述内容かは、とりあえず、長谷川平蔵宣義(のぶのり 小説の辰蔵)の項の一部をご覧いただこう。

氏名
禄高
知行地
本国
本姓
番役筋
勤仕時
以下勤仕
昇進
家紋
年令(寛政11年 1799)
役職
嫡子役職

その他
屋敷
譜(寛政譜の巻とページ)

が一覧できる。
氏名の頭についている数字は、通し番号。
第3巻の最終番号は、5186---つまり、5186家収録されているということ。
えっ? 最後の人の姓? 藁科(わらしな)家だけど、[両番]じゃなく、[大番]筋。

_360

ここから、「番役筋 (両番)」を抜粋すればいい。
しかし、第1巻に収録されているあ行・か行だけでも、639ページ、2009家。全体の38.73%。
だったら、とりあえずは、両番の家数をだいたい推定するだけなのだから、第1巻だけやって、61.27%を計算で補うという、ズルをすることにした。

第1巻の結果は---

200石~  7家
300石~144家
400石~ 48家
500石~ 85家
600石~ 35家
700石~ 45家
800石~ 18家
900石~ 13家
1000石~ 66家
1100石~  9家
1200石~ 19家
1300石~  6家
1400石~  5家
1500石~ 42家
2000石~ 48家
計    590家

2009家中の590家を、5186家に拡算すると、お目見以上には、ざっと1500家の有資格家があり、実際に番入りできるのは3分の2家ということらしい。
(数学のできは最低だったけど、この程度の大ざっぱな計算ならでき、実社会ではたいていのことはこれで間に合ってるってことを、平方コンって綽名(あだな)だった中学の数学教師にぶつけたい)

宣雄の、西丸・3番組の書院番士は、そのまた20分の1の50名。
さらに、宣雄といっしょに番入りしたのは、その半分ほどの26人。
要するに、30分の6倍---3時間、『寛政譜』とにらっめっこしていても、この人たちに出くわす確率はきわめて低そう。

魅力のない結果がでそうなリサーチだから、これは、あきらめたほうが賢明みたいだ。
その体力と努力と時間を、ほかのリサーチにまわそう。

あ、そうそう、あやうく、忘れるところだった---書院番士と小姓組番士は、300俵格。
廩米1俵は知行の1石とおなじと幕府側も歴史研究者も見ているって、この前、書きましたよね。
300俵の家数が多いのは、そのせい。
要するに、お目見・直臣なんだから、しっかり励め、っていわれているみたい。

また、3000石以上の家は「寄合(よりあい)」に格付けされる。
2750石なんてのも、2000石以上に一括したから、その家からは、ひょっとしたら、2500石~ ってランクもつくれって文句がでそうだ。まあ、3家ほどしかなかったけど。

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2008.07.12

宣雄に片目が入った(6)

長谷川うじ---』
西丸の大手門を出たところで、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)は、うしろから声をかけられた。
立ち止まってふりかえると、同じ西丸・書院番の先輩、太田庄右衛門資久(すけひさ 37歳 400石)の、色黒の巨躯があった。
「これは、太田さま---」

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(太田庄右衛門資久の個人譜)

庄右衛門資久は、西丸・書院番に9年前から出仕しており、この1年ほど前からは進物番も勤める、番士の中でもえり抜きの逸材である。
進物番は、書院番と小姓組の一つの組から5名ずつ選抜される。
西丸の書院番と小姓組はそれぞれ4組だから、400名中から40名が、容姿、口跡、知能の3点を選抜基準として進物番になる。
西丸の場合、世子へのいろんなところからの献上物を受けつけ、下賜品を渡すのが主たる仕事である。
ちゅうすけ注】鬼平こと平蔵宣以(のぶため)も、書院番時代に進物番にえらばれている。

新入りの宣雄としては、相手は大先輩でもあり、十分な敬意をもって応対しないといけない。

立っていた宣雄をうながして歩はじめた太田資久が、
「いや、ほかでもありません。長谷川うじのご先祖は、三方ヶ原で討死なされたと聞いておりますが---」
「はい。大権現さまの魔下へお加えいただいて丸3年目のことでした」
「いや。お声をかけたのは、わが太田一族にも、三方ヶ原の戦いで戦死したのがおるということでしてな。ところが『四戦紀聞』などの史書で確かめても、名がでこないのですよ。それで、長谷川うじのほうになにか手がかりでもないかとおもいましてな」
ちゅうすけ注】祖・長谷川紀伊守(きのかみ)正長(ながまさ)の討死については、2008年7月4日[ちゅうすけのひとの言](18)
2007年6月1日[田中城の攻防]

「わが家は、分家でございます。そのようなものを持ち合わせておりますかどうかを、本家へ問い合わせてみましょう」
「急ぐことではないので、おついでの折にででも、よしなに---」

かしこまって、堀端を左右にわかれた。
太田庄右衛門資久の屋敷は、駿河台にある。
そのころの長谷川家の屋敷は、まだ、赤坂築地中之町であった。鉄砲洲築地へ越したのは、それから2年後のこと。

3日のあと。

営中で、近寄ってきた太田庄右衛門資久がささやきかけた。
「厠(かわや)へまいられよ」

用をすまして、手を洗いながら、資久が苦笑して、
「とんだ、勘違いをいたしましてな。お許しくだされ」
「なんでございましょう? 三方ヶ原の件は、まだ、本家へ出かけておりませぬが---}
「ご放念くだされ。それがしの勘違いでござった」
「と------」
「大番組の太田彦兵衛正森(ただもり 36歳 410俵1斗4升)どのをご存じかな?」
「お名前だけは---」
「あの先祖に、甚九郎正近という者がおりましてな。21歳で討死しているのですが、昨日、四谷大番町の彦兵衛どのを訪ねた確かめたところ、三方ヶ原の合戦ではなく、長篠の武田勢との戦いでござった。面目次第もござらぬ」
「なにをおっしゃいますか。わが家の息・鬼平のことを書いた池波正太郎さんという後世の大作家も、三方ヶ原の合戦と長篠の戦いをごっちゃになさっておられます」
(長谷川宣雄が、こんなことをいうはずがない。じょうだん、冗談)

こう言いかえたらどうだろう。
「合戦の話っていうのは似たり寄ったりで、英雄が生き残り、人のいいのが討死して、ジ・エンド」

_360_2
(太田甚九郎正近と後継の家督者)

太田資久は、言いわけを、
「それがしは、菅谷(すがのや)家(200俵)からの養子でござってな。太田一門のことには詳しくはござらんのだが、なんとか、話題を---と、あせった結果が、このざまです」
「お気になされることではございません」
「太田彦兵衛どのに聞いたのですが、大権現(家康)さまは、長篠で討死した甚九郎を惜しんで、ただちに、名跡を高木家から選んで継がせ、400石を賜ったようです」
「ありがたいお計らいでございます」

太田庄右衛門資久を引きあいにだしたのは、家康の名門好きということもある---太田家は太田道灌(どうかん)の流れ---が、じつは、菅谷家は、吉宗が江戸城へ入ったあと、二ノ丸へ移ってきた家重(幼名・長福丸 6歳=当時)に付きそって幕臣化した家柄である。

深井雅海さん『江戸城 本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)も指摘しているように、吉宗、家重、家治とつづく紀州勢をみた幕臣の中には、この閥とのつながりを求めた家もあったろう。
古今東西の、通例とみる。

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2008.07.11

ちゅうすけのひとり言(20)

鬼平犯科帳』は、人さまざまで、いろんな読み方をして楽しんでいる。
鬼平ファンと話しあっていて、その人が意外な切り口をしているのに、驚き、教えられることが多い。
それだけ、多彩で、奥深い魅力を秘めている小説といえる。

ぼくは、長谷川平蔵宣以(のぶため)が実在の人であったという点に力点をおいて---というより、平蔵を基点として、そこから徳川幕府の制度や江戸期という時代を透視することに余生の愉しみを見出している。
まあ、それというのも、いくつかの文化センターで[鬼平クラス]を5年も10年もつづけることになったために、レクチャーする材料を探して、結果的にそうなってしまったと、いえないこともない。

大の大人が、鬼平を語るなら、いささかでも史実に即して---と、おもったことも事実である。
もっとも、ぼくは歴史家でも郷土史家でもない。
小説を、できるだけ濃く楽しみたいと願っている一人にすぎない。

さて、2008年7月9日の[宣雄に片目が入った] (5)に、長谷川一門から、服部家(3050余石)へ養子に入った久太郎保貞(やすさだ)・主殿保弘(やすひろ)兄弟を紹介した。
長谷川一族と服部一門とのつながりは、納戸町の長谷川正相(まさすけ 4070余石)の長女が、服部(あたる)保秋(やすあき)に嫁いだものの、次の当主に男子が得られなかったことによる。

徳川家に仕えた服部というと、ぼくたちは、伊賀国阿拝郡(あへこおり)服部郷の出て三河国へ来て、松平(徳川)清康(きよやす)・広忠(ひろただ)・家康(いえやす)に仕えた一族を、連想する。
とくに、家康の下で活躍した服部半三(はんぞう 『寛政譜』は、あるいは半蔵ともと)石見守(いわみのかみ)がよく知られている。

昭和28年(1953)。ぼくは学校をやっと卒業、関西の電機メーカーの宣伝部に勤め、仕事を覚えるために、小説を読むどころではなかった。
山田風太郎さん『甲賀忍法帖』(1958)、司馬遼太郎さん『梟の城』(1959)、池波正太郎さん『夜の戦士』(1963)を読んだのは、なにを隠そう、つい10年ほど前である。

だから、服部半蔵についての知識は、人からあきれられるほど少ない。
寛政譜』で、

父に継いで東照宮につかへたてまつり、三河国西郡宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして伊賀の忍びのものもの六、七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。
【参照】服部半蔵と宇土城
宮城野昌光さん『古城の風景 1』(新潮文庫) p121[上郷城]。

とか、

_120元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の役に供奉し戦功あり。浜松城にをいて御槍一筋を賜ひ、かつ、伊賀の者、百五十人を預けらる。
ちゅうすけ注】この槍は、半蔵が開基した西念寺が秘蔵していると『四谷区史』(1934刊 1985復刻)にある。寺は、麹町から新宿区若葉町2丁目9。

などのくだりに、「へえ」とおもい、

(天正十年 11582)六月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、仰せうけたまわりて郷導したてまつる。

には、「さもありなん」と合点。

息・石見守正就(まさなり)は、なにか不都合があったらしく、その雪辱に大坂夏の陣に討死し、弟・正重(まさしげ)が後継するが、彼も大久保長安(ながやす)がらみの事件で領地を没収され流浪したのち、松平越中守定綱(さだつな)の臣となる。
ようするに、忍者の出世がねたまれたか、嫌われたのであろうか。半蔵の家系で幕臣として残ったのは5家。

服部の家名を示す織物の神を祭祀した呉服明神の神職で、半蔵の呼びかけで、家康の伊賀越えを助けた左兵衛貞信(さだのぶ)の系統の幕臣が5家。

織田信長(のぶなが)に仕えていて、徳川へ来た血筋のが3家。

そして、いよいよ、長谷川家から養子に入って服部一門になるのだが、掲げた家譜の2段目に記されているように、当家も服部郷の出であるが、祖・小平太保次(やすつぐ)は、足利義輝(よしてる)から信長に仕え、桶狭間では先陣となって今川義元の本陣へ討ちこんでいる。

信長の死後、家康の下へつき、合戦のたびに敵地の境を警衛すとあるから、やはり、忍びの配下をしたがえていたのであろう。
3代目の中保俊(やすとし)の時には3050余石の大身になっている。
服部を名のる幕臣ではもっとも大身で、この流れの服部家ほかに3家。

あと、今川方から徳川へ移った系統の服部が2家。

武田方からの服部が1家。

このあたりが池波さんの空想をさそったのであろうか。

綱吉の時に召されたのが1家は別として、こうしてみると、池波さんの忍者ものにもあるとおり、各戦国大名が情報収集や隠密作戦の手足として伊賀衆を雇っていたことがうかがえる。

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その中でも、長谷川久太郎保貞が養子に入った服部は、半蔵家と並んで首領格だったとみえるのが興味深い。

【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
19 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
[18 三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]2008.7.4
17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17

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2008.07.10

ちゅうすけのひとり言(19)

7月6日(日曜日)の午後は、5年ごし続いている、静岡のSBS学苑パルシェの[鬼平講座]の勉強日であった。

_8この日のテキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[あきれた奴]。

主題は、「信頼」。

孔子は『論語』で、最高としてあげている「仁」につぐ徳が、「信」としている。
信用、信頼、信義、信憑(しんぴょう)性---などという熟語が示すとおり、うそをつかない、約束は守る、などの意味をもつ。

[あきれた奴]も、同心・小柳安五郎が〔鹿留(しかどめ)〕の又八という元盗賊を信頼して共犯者を逮捕させるストーリーだが、この篇の感動性が高いのは、3組の「信頼」が組み合わさっているから---と発表した。

いまあげた、
・同心の小柳安五郎と元盗賊の〔鹿留〕の又八の信頼関係。
に加えて、
・長官の長谷川平蔵がかけている小柳安五郎への信頼。
・〔鹿留〕の又八と先輩の〔八町山(はっちょうやま)〕の清五郎との信頼できる間柄。

それはともかく、登場している3人の盗賊の〔呼び名(通り名とも)〕は、すべて山梨県の地名である。
鹿留(しかどめ)〕の又八
 鹿留は、山梨県都留市鹿留から。
雨畑(あまばた)〕の紋三郎
 山梨県南巨摩郡早川町雨畑から。
八町山(はっちょうやま)〕の清五郎
 山梨県南巨摩郡鰍沢町十谷の八町山から
つまり、3人は甲州つながり---。

で、クラスに配布する地図---江戸期にもっとも近い、明治20年(1887)ごろの20万分の1にドットを貼っていて気づいたのは、八町山の近くに秋山があったこと。

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(この20万分の1には、青ドット=源氏山の東隣の八町山の記名がなく、鹿留も雨畑も圏外なので、平凡社版『日本大地図長帳』から広範囲に示す。ただし、後者には秋山の表示がない)

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(平凡社版『日本大地図長帳』 秋山は赤線囲みの甲西町内に編入。
青ドット=左下から雨畑、八町山、鹿留)

そうか、池波さんは、『剣客商売』の主人公・秋山小兵衛の出生地を調べるために、秋山あたりを取材、資料集めをしていて、八町山にも気づいたのか---と、どうでもいいようなことを発見!

剣客商売』の連載は、1973年新年号『小説新潮』から。
[あきれた奴]の掲載号は1972年4月号の『オール讀物』。
つまり、1年も前から『剣客』のノートづくりりをはじめていたんだなと、納得。

池波さんが、小兵の秋山小兵衛をおもいついたのは、もっと前---『寛政重修諸家譜』で、武田方から徳川の家臣となった秋山一門の家譜に、

秋山太郎光朝(みつとも)が後胤。光朝よりはじめて秋山を称す。

とあるのを見て、秋山郷の所在を探し、南巨摩(こま)郡甲西町秋山へたどりついた。
たわごとを一つ加えると、光朝秋山を称する前の姓は、加賀美であったそうな。NHKの加賀美アナが『剣客商売』を朗読しているところを想像して楽しんだりして。

秋山といえば、2008年7月4日[ちゅうすけのひとり言](17)に引用した『夜の戦士 下』p128 に、遠江攻めに参加した武田方の武将として、秋山信友が顔を見せている。

話をもどす。

池波さんは、10年以上もあたためていた『鬼平犯科帳』の構想を、1年か2年で終えるつもりで、ノートもほとんどつけていなかったらしい。
長谷川平蔵 基ノート』と表書きされた大学ノートの、2枚目以後は真っ白---と、ある担当編集者に聞いたことがある。
それに懲りたか、『剣客商売 基ノート』の十分に取材し、小兵衛・おはるの隠宅の間取り図まで描いている。好事家には、まことに都合がいい。

_100その、十分に書き込まれた『剣客商売 基ノート』をふまえて、秋山小兵衛の32歳前後の剣客ぶりの『黒白』(新潮文庫 1987.5.25)が、上掲『剣客商売』の連載開始から8年後、『週刊新潮』に連載された。

その『黒白 上』p163に、

秋山小兵衛は、甲斐(山梨県)・南巨摩郡(みなみこまぐん)・秋山の、郷士の家の三男に生まれた。
家は、長兄が継いでいる。
次兄は若くして病没いた。
小兵衛の祖先は、平氏に仕えた秋山太郎光朝である。

101_100拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.1 絶版)では、この南巨摩郡を中巨摩郡の誤記、とやらずもがなのお節介をやいている。こまった性格だ。

つぶやき】この2,3年、体調不良に悩まされたため、10年つづけた、朝日カルチャーセンターと江東区森下文化センター、5年余やった学習院大学生涯学習センターにもっていた[鬼平クラス]を閉鎖させていただいた。
静岡の静岡新聞と同テレビ局によるSBS学苑の[鬼平クラス]は、長谷川家関連の史料を県立図書館で読ませてもらう便利もあって、つづけている。
体調不良は相変わらずだが、甲斐も池波さんの関心が高かった地区なので、ここから話がきたら、やってもいいかなと思っている。
あ、書きたかったのは、そういう身勝手なことではなく、静岡での[鬼平クラス]でのレクチャーと配布シートの一部を、[ちゅうすけのひとり言]:に、このような形で、毎月発表するのはどうかな---と、アクセスしたくださっている鬼平ファンに問いかけてみたかったのだ。

【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号をクリック)
[18 三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]2008.7.4
17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17

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2008.07.09

宣雄に片目が入った(5)

「叔父上。昨日もご出仕がありませんでしたな」

長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)が、声をひそめて、(叔父上)と呼びかけたのは、同じ西丸・書院番士の河野十郎右衛門通賢(みちかた 39歳 600石)である。
一族の長谷川家から、河野家へ養子に入っている仁であることは、このシリーズの (3) に述べた。

十郎右衛門が勤めをしばしば欠くのは、職務に不満があるからではなく、実家の亡父・久大夫徳栄(たかよし 500石)への、あてつけなのである。

父・徳栄は、享保元年(1716)に、6人の男の子と、女子1人をのこして、68歳で逝った。
そのときの男子6人の、その後の諱(いみな 元服名)のほうと年齢を記してみる。
幼名でなく諱にしたのは、理解の混乱をふせぐためである。
保貞(やすさだ) 26歳
正誠(まさざね) 21歳
正栄(まさよし) 14歳
 通賢(みちかた)  7歳 
正脩(まさむろ)   6歳
保弘(やすひろ)  4歳
( ・ は、正室が生母)

_360
(長谷川徳栄の6男1女 家譜)

つまり、十郎右衛門通賢だけが側腹(わきばら 某女)の子ということになる。
『寛政譜』に某女とあったら、武家の女性ではない---召使いとか、妾とかとかんがえる。
次男・正誠と5男・正脩は、この家の本家である4070余石を継いだ。
長男・保貞は、本家の叔母(徳栄の次妹)が嫁いだ3050余石の大身・服部家(織田系)へ養子にはいり、つづいて6男・保弘を養子にとって家督をゆずっている。

佐々家の女である正室は、5人もの男子を産んだ。
長子と末子の年齢差は、なんと22歳。17歳で長子・保貞を産んだとして、第6子・保弘は39歳---夫・徳栄64歳---お盛んな! とでも言っておく。

通賢が側腹にできたときも、正室は現役だったのだから、悋気もたいへんだったろう。
側腹の子がいるのがあたりまえの幕臣の家とはいえ、兄たちからも、いやなものを見るような目で見られたかもしれない。

600石の河野家に養子に出されたことにも、露骨な差別扱いを感じたろう。

Photo
(河野家 『寛政譜』)

そういえば、こんなことがあった。
牛込加賀屋敷とも呼ばれた納戸町に、3000坪に近い屋敷を構えている大身・長谷川正明(まさあきら)の庭の花見をかねて、一族が集まるのが恒例になっていた。

_360_2
(牛込・納戸町の長谷川久三郎正明邸)

厄介の子・宣雄(当時は平蔵)は5歳だった。
14歳の通賢(当時は久四郎)が、
平蔵。ついてこい」
と、池の飛び石をぴょんぴょんとわたった。
5歳の宣雄には無理だった。
最初の石で池に落ちた。
それを、通賢は、笑いながら見ていて、助けようとはしない。
従兄の権十郎(当時は権太郎 9歳)の叫び声に、正直(まさなお 当時は隼人 14歳)が水に飛び込んで抱きあげてくれた。
この事で、親戚中の女たちが、
(久四郎は、ひねくれている)
烙印を押した。

「わし一人がいなくても、万事、とどおこりあるまい」
「いえ、そうではありませぬ。十郎右衛門どのの渋いお顔が見えないと、組の気分がしまりませぬ」
「そんな---」
「叔父上には、ご自分がいらっしゃらないときの組の気分は、おわかりにならないでしょう」
「理屈はそうだが---」
十郎右衛門という、お名前が、組の一同の気分を引きしめているのですよ」
「わかった。これからは、なるべく、欠勤しないようにする」

(乗せすぎたかな)
ともおもったが、宣雄には、叔父・通賢の滅入っている気持ちが痛いほどわかっていた。
2児とも、幼くて逝かせていたのだ。

この25年間、顔が会うたびに、
平蔵。おぬし、池のことで、わしを許しておらんだろう」
「池のことって---?」
「ごまかすな」
この問答が、これでもう、繰り返されなくなるとおもうと、
(乗せてよかったのだ)
確信できた。
気にしていたのは、十郎右衛門通賢のほうだったのだ。
芯は、こころ弱い人なのだ。
それを隠すために、ふてくされぶった鎧(よろい)を着ている。

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2008.07.08

宣雄に片目が入った(4)

長谷川どのは、家紋にくわしいそうですな」
同役の永井主税直著(なおあき 29歳 500石)に声をかけられたとき、平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)は顔にはださなかったが、緊張した。

西丸・書院番士としての、はじめての宿直の晩である。
もっとも、永井直著は、3年前から番士をしているから、齢は一つ下でも、先任ということになり、新参の宣雄としては、敬意をこめて応対しないといけない。

もちろん、宣雄にしてみれば、味方にしなくても、敵にまわさないこころがまえでいるから、応答には細心の配慮でのぞむ。

「くわしいといえるほどの知識もございませんが、幼いときから、見つけておりまして---」
「そうだそうですな。指南方の能勢どのから聞きましてな」
(もう、内聞に---が洩れている)

参照】2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (2)

_100能勢ご指南番さまにも申しましたことですが、なにしろ、独り勉強なものですから、浅いばかりで---」
「わが家の家紋が一文字に三星(みつぼし)なことは、ご存じでしょう?」
「はい。いまも申しましたとおり、独り学習なものですから、深いいわれは存じませぬが、毛利侯さまのも似ていて、ご由緒のあるご家紋(右:毛利の長門三星)と、ひそかに、うらやましく存じております」

「それ、それ。、毛利侯は西国の雄、わが永井一門は東照宮さまの時代から三河国、なぜに似ているのか、お知りなら、教わりたいもの」

その夜、当直の番士5名が聞き耳をたてていることも、宣雄には、わかっていた。
永井直著とあわせて、6人を敵にまわさないためのいい機会かも---と、宣雄はおもったが、さて、どう応えればそうなるのか、咄嗟(とっさ)にうかばない。

一瞬、(永井どの。ご存じならお教えいただきたく)と言いかけて、言葉を呑んだ。
もし、直著が知らなかったら、恥をかかせ、うらみを買い、敵にまわすことになる。
亡母・牟弥(むね)の声が聞こえてきた。
(之を知るをば知ると為(な)し、知らざるを知らずと為す。これ知れるなり---知っていることを知っているとし、知らぬことを知らぬとする。それが知っているということですよ。)

永井どの。手前は、まったく存じあげないのです。ただ、はるかに幼いころ、母から教えられましたのは、この星は、妙見星(北極星)のように動かぬ星(恒星)と---」
「ほう---」
「いえ。之を知るをば知ると為(し、知らざるを知らずと為す。これ知れるなり---と孔聖も申しておられます。天文方にでも教わる機会があれば、教わってまります」
(腹の奥では、とはいえ、急ぐ案件ではない。あえて、天文方に知己を求めるほどのことでもない。ま、機会に恵まれたらということで---)

宣雄の案件処理の巧みさは、ものごとの優先順位を間違えないことであった。
だから、忙しいという顔をしない。落ち着いていて、たのもしく見える。

さらに宣雄には、永井主税直著のいやがらせに似たことは、これが最初というだけのことで、終わったわけではない、ということも分かっていた。
(宮仕えとは、そういう婉曲ないやがらせに耐え、かつ、すり抜ける術(すべ)を身につけることでもあろう)

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2008.07.07

宣雄に片目が入った(3)

鬼平犯科帳』の大ファンなら、河野姓を目にすると、鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)の長女で、辰蔵(たつぞう)の妹・初子(はつこ 小説の名)が嫁ぎ先、河野吉十郎広通(ひろみち 650石)をおもい浮かべよう。

当然である。
初子は、寛政4年(1792)正月から翌年の夏へかけての事件---文庫巻7[隠居金七百両]にも名前がでる。p42 新装版p44
また、文庫巻10[追跡]でも、辰蔵が、悪友・阿部弥太郎(やたろう)へ、こう言う。

「妹のやつ、すこしは持っているかも知れない。先日、河野(かわの)へ嫁に行った上の妹が来たとき、好きなものでもお買いなさい、とか何とかいっては、下の妹に小遣いをやっていたようだ」

初子の夫・広通は、[追跡]のときは26歳で、初子(18歳=嫁入り時)を妻(めと)って3年目で、遺跡を継いだのは翌年である。
夫より5歳齢下の初子は、よほどにへそくりが巧みであったか、実家の母・久栄(ひさえ 小説の名)からねだったものを裾分けしてやったかであろう。

ちゅうすけのひとり言】ついでだから史実を記しておくと、河野家の屋敷は下谷長者町1丁目だが、文庫巻22[迷路]では、愛宕下にする必要があったのであろう。

さて。

きょうの話題の、河野久四郎通賢(みちかた 39歳 西丸書院番士 500石)は、同じ長谷川家がらみではあるが、河野ちがいである。

_360_2
(河野久四郎通賢の個人譜)

初子が嫁いだ吉十郎広通のほうの河野の祖は、五代将軍の側室・お伝の方瑞春院殿)の家士から始まった。

久四郎通賢河野は、伊予の出で、一遍上人の弟子であったらしい。徳川傘下へは、武田方からである。
だが、久四郎通賢にかぎっていうと、長谷川家からの養子である。

三方ヶ原で討死した祖・紀伊守(きのかみ 37歳=討死時)正長(まさなが)に3人の遺児がいたことは、しばしば、記した。
(ありていにいうと、遺児は4人で、末子は幼児であったので、田中城からは、浜松でなく、駿府の東の瀬名村へ隠されて、中川姓に変えた。田中の「中」と一族の本拠地であった焼津の西・小川湊(こがわみなと)の「川」を合わせたのだと、SBS学園でともに鬼平をまなんでいる、中林さんが調べた。
中林さんは瀬名在住。
中川家はいまも瀬名地区の名家)。

3人の遺児のうち、まず、長男---つまり本家をたてた藤九郎正成(まさなり)が、家康の小姓にとりたてられた。
ついで、3男・久三郎正吉(まつよし)が、11歳のときに秀忠の小姓に召された。よほどの美男子であったのであろう、寵愛をうけて、4000石を越える家禄を賜った。

鬼平側の始祖で次男・伊兵衛宣次(のぶつぐ)の出仕は、正吉から3年遅れた。

前置きが長くなりすぎたが、河野久四郎通賢は、この4000余石のイケメン系正吉から3代くだった五兵衛正明(まさあきら)の次弟・久大夫徳栄(たかよし)が分家してたてた長谷川家(500石)の四男なのである。

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(黄丸=イケメン家系の長谷川正吉の流れの徳衛と通賢)

寛延元年(1748)閏10月9日、初出仕をした平蔵宣雄が、西丸・書院番の3番組・柴田但馬守組に番入りしたことは、すでに記した。

指南役・能勢十次郎頼種(よりたね 46歳)が宣雄にそれとなく注意した。
「組の河野十郎右衛門通賢が、おことの叔父筋にあたることはわかっておる。が、あの仁の申すことは、まともに受け取るでない」
「なにか?」
「要するに、すね者なのだ。向上心というものがまるでない。4000余石の実家から、500石の河野家へ養子に出されたのが不服のようだが、あの程度の才幹で、養子の口があっただけでもありがたいとおもわねばな。ここへ出仕して9年にもなるのに、気くばりがまるでできんでのう」
「申しわけございませぬ」
「おことが謝ることではない」
「はい」
(これから、この叔父貴のことも気にかけねば---)
宣雄は、なぜだか、逆に、面白くなってきた。


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2008.07.06

宣雄に片目が入った(2)

この年---寛延元年(1748)閏10月9日、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)は、26人とともに、西丸・書院番入りを命じられた。
(『徳川実紀』は、このときの27人について、

西城書院番に入番二十七人。(日記)

としか記していない。暇を見つけて、またも『寛政重修諸家譜』を総ざらえするしかないが、いまは無理だ。おいおいやって、成果はここへ追記していくことにする。

4組ある中の、宣雄は3番組で、番頭(ばんかしら)・柴田但馬守康完(やすのり 54歳 5500石)、その補助をする与頭(くみかしら)は松平(久松)新次郎定為(さだため 64歳 1000石)であった。

これで、書院番か小姓組が約束されている両番の家柄の者として、だるまの片目があいたといえる。

両目があくのは、役料のでる役に就いたときである。

初出仕の前日夕刻、木挽町築地に住む、能勢十次郎頼種(よりたね 46歳)の宅に、3番組に番入りした8人が集まった。
指南番・重次郎頼種から、明日の心得を聞くためである。
服装、所持品、弁当、供の者の待機場所などの指示があり、明朝五ッ(午前8時)に、西丸大手門前に集合と命じられて、解散した。

翌日は、各所へあいさつ廻りで一日がおわった。
西丸の幕閣たち---老中、若年寄、大目付、留守居から、各掛りの頭(かしら)へ能勢十次郎が紹介してくれるのだが、あまりの多人数のために、氏名と役職と顔が一致しない。

しかし、宣雄は、実母・牟弥(むね)が図形教育をしてくれていたので、半分近くは記憶できた。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)

この宣雄の記憶力には、みんなが感心するとともに、番頭の柴田但馬守を喜ばせた。
柴田番頭は、そろそろ脳の老化がはじまっているのか、姓名をとっさに想起しにくくなっていたのである。
宣雄を秘書がわりにして、
「あれは?」
と、頼りにするようになった。

幕府の役人の出世の条件一つが、役付きの幕臣の何人の顔と氏名と経歴を記憶しており、すらすらと口にできるかであった。できれば、徳川方に入る前に仕えていたのは、織田か、豊臣か、武田か、今川からかなども---。

それだけに、宣雄の特殊な才能は、記憶力の弱い同輩からうらみを買いそうだと、気づいた。
(味方につけることがかなわないまでも、敵にまわさない配慮をこころがけるべきだ)

「どのようにして覚えるのかな?」
指南役・能勢頼種が訊いたときにも、細心の注意をしながらこたえた。
「手前にも分からないのです。ひとりでに記憶してしまうようなのです。ですから、間違えたときには、なぜ、どこで間違えたかが分からない始末でして---」
「覚えるには、なにか、きっかけがありそうにおもうが---」
「武鑑がその一つかも知れませぬ」
「武鑑? 〔須原屋〕茂兵衛店などが、毎年出している人名録か?」
「はい」

「でも、新しい板ではございませぬ。25年も30年も古い板です」
「そんな古い板を、なぜ?」
「父の兄---伯父・正重(まさしげ)が、ご同朋頭〔どうぼうかしら)の家へ養子に入りました」
「なんという家かな?」
「麻布桜田町の永倉家と申します」
「ああ、いまは出仕しておられぬ---」

「はい。養子に入った伯父が病身で、一昨年---延享3年(1746)に亡じました」
「同朋頭なら、武鑑は必携品だものな」
_100長倉家から、不要になった武鑑を払い下げてもらい、飽かず、眺めて育ちました。たとえば、ご指南役どのの家紋の獅子牡丹は、摂津がご本国---」
「驚いたな。そういうことを、楽しみながら覚えつづけるというのが、なんとも、はや---」
「子どものことゆえ、当初は、なにもわからずに覚えましたが、ものごころがついてからは、かえって、間違えることが多くなったようでございます。欲のせいでしょうか?」

「大人には、雑念というものがあるからな。それはともかく、能勢一門には、ほかに矢筈(やはず)と亀甲の内花菱を使っている家もあるがの」
_100_2「それは、存じませぬでした---」
宣雄は知っていたが、わざと知らないふうを装った。
(これで、敵にまわるはずの一人が消えたかな)
「さらにいうと、能勢には、もう一流---本国が丹波の能勢がいるぞ。家紋は十二目結(めゆい)---」
「不束(ふつつか)を見抜かれました。このこと、どうぞ、ご内聞に---」
じつは、これも、宣雄は知っていた。
が、(ご内聞に---)と頼んでおけば、内聞にならなくなるのは目に見えている。
(宮仕えのむつかしさ、だ)

「与頭(くみかしら)の久松どのは?」
_100_3「梅輪内(うめうちわ)とも、梅発(うめばち)ともお呼びになっておられるようですが、独り学習ゆえ、区別がつきませぬ。いつか、与頭さまにお教えいただこうと考えているところでございます
「喜んでご講釈なさるであろうよ。それにしても、偉なるかな、快なるかな」
能勢頼種は、ひとり、ほくそえんでいる。

つぶやき】偶然にひらいた『寛政譜』から、寛延元年閏10月9日に宣雄といっしょに西丸書院番士を拝命した26名のうちの1名が見つかった。

荻原求五郎秀封(まさふ 19歳 700石 武田系

また、1名、発見。

伊東長左衛門祐持(すけもち 28歳 350石 北条系)2008.7.12記。

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2008.07.05

宣雄に片目が入った

「ご内室の加減はいかがかな?」

訊いたのは、老中・本多伯耆守正珍(ただよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)。
ところは、芝新橋・二葉町にある田中藩中屋敷の書院。

訊かれたのは、この4月に遺跡(400石)の継承を許された、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳)。
家督と同時に小普請(こぶしん)入りし、まだ無役である。
隣にいるのは、奥右筆・植村政次郎利安(としやす 28歳 廩米150俵)。
4年前の延享元年(1744)10月に、24歳の若さで表右筆から奥右筆に抜擢され、隠居・家督掛(かかり)をうけもっている。

参照】2008年6月奥祐筆・植村政次郎安利(やすとし)は、2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10)

今日のことは、植村利安から、
「ご宿老・本多侯から、私的なお招きゆえ、辰の口の役宅ではなく、中屋敷のほうへ参られよ---とのご伝言がありました。それがしにも同席せよ、とおっしゃられましたが、目付などに気取られぬように、くれぐれも、こころしてまいられたいとも---」
達筆で書かれて密封された手紙が、2日前に届いた。
無役の宣雄が老中の屋敷へ招かれたことも異例だが、無役の幕臣と同席というのは、政次郎利安のほうが奥祐筆の内規に触れかねない。
求職運動を受けたと小人目付らに邪推されてもしかたがない。
それを、あえて破ったところが本多侯らしい。

本多侯が、わざわざ、宣雄の妻・波津(小説での名)の病状を問うたということは、それなりの身辺調査が目付から御用部屋へあげられているとみてよい。

「お蔭をもちまして、一進一退がつづいております」
長谷川家の六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)がことしの1月にみまかったとき、宣雄は、急遽、寝たきりの波津との婿養子の届けを出し、遺跡相続の許しを、去月、月番老中・本多侯から申しわたされたばかりであった。

上村奥右筆のところの世継ぎの熊五郎(くまごろう)くんは、何歳かな?」
「3歳にあいなりましてございます」
長谷川うじのところは?」
銕三郎(てつさぶろう)と申します。上村どののところと同じ延享3年(1746)の生まれで、3歳に育ちましてございます」
「そろって、よき幕臣に育つよう」
「ありがとうございます」
宣雄上村は、声をそろえて礼を述べた。

長谷川うじは、今川どのの時代に祖先の居城でもあった、わが田中城を訪れたことは?」
「厄介の身分のとき、東海道を上って京都へ遊びに行く途中、藤枝宿から立ち寄らせていただきました」
「どう見たかな?」
「なにをでございましょう?」
「瀬戸川の水利じゃ---」
「大井川ほどに水量があれば、言うことはなかろうかと---」
「やはり、な」
瀬戸川も、けっこう川幅はあるのだが、上手(かみて)の村落が水田用水に引いてしまうので、夏の渇水期ともなると、下手(しもて)の田中藩の水田へは、十分といえるほどには、まわりかねていた。

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(茶色=東海道 橙〇=藤枝宿 赤○=田中城 青小〇=長谷川家の祖の館のある小川(こがわ)湊 水色・上=朝比奈川 中=瀬戸川 明治20年ごろの地図)

上手は、幕府領と掛川藩の領地である。
掛川藩5万石は、2年前の享延3年(1747)に、領主が小笠原内膳長恭(ながゆき 8歳=当時)から太田摂津守資俊(すけとし 28歳=当時)に替わっていた。

35年間も掛川藩を領していた小笠原家が、幼い長恭のときに国替えになった理由は、翌年、巨盗・浜嶋庄兵衛こと日本左衛門の犯行を処置しなかったといわれて、長恭が出仕を21日間とめられたことで、はっきりした。

_360ちゅうすけ注】浜嶋庄兵衛こと日本左衛門は、池波さん『おとこの秘図』(新潮文庫 1983.9.25)に主人公として描かれた徳山(とくのやま)五兵衛秀栄(ひでいえ 58歳=逮捕当時)が火盗改メのときに、京都町奉行所へ自首して逮捕された。
徳山家の屋敷神だった徳之山稲荷は、かつての屋敷跡(現・墨田区1丁目)に鎮座し、日本左衛門ゆかりの石碑もある。

話を本筋へもどす。

宣雄が呼ばれたのは、田中藩の新田開鑿の担当藩士に、宣雄をつなぐためであった。

宣雄は、知行地の一つ---上総国(かずさのくに)武射郡(むしゃこおり)寺崎(現・千葉県山武市寺崎)の220石の地を、300石以上の実収が得られるように暗渠を掘り、水路を導いた実績をもっていた。
しかし、そのことはほとんど話さず、田中藩の担当の侍の苦労話にことよせた手柄話に共感・感嘆することに徹した。
それが、藩士のばかりか、上村安利の好感を呼んだ。

参照】本多伯耆守正珍の個人譜 老中拝命のころ。

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軽い晩餐(ばんさん)を供され、2人は早ばやと辞去したが、往路と同様、帰路も別々だった。
目付への密告をおもんぱかってのことである。

門を出る前に、宣雄が上村利安に訊いた。
本多侯は、お若くお見かけいたしたが、じっさいはお幾つでしょうか」
「ご老職方のお齢は、機密でもないでしょう。本多侯は、酒井雅楽守(うたのかみ 忠恭 たたずみ)侯とおなじく、39歳におなりです」
「そのお若さで、ご老中とは---」
堀田相模守(正亮 まさすけ)侯は、37歳です」
「ほう---」
秋元但馬守(凉朝 すけとも)さまは32歳です」
「驚きました」

長谷川どの。どうぞ、お先へ。それがしは寸刻おいて、門を出ます。くれぐれも、まわりの目にお気をつけください」
「心得ました。では、お先にご無礼、つかまつります」


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2008.07.04

ちゅうすけのひとり言(18)

家康31歳、信玄52歳のときの三方ヶ原(みかたがはら)での対決は、家康の若さを示したともいえないことはない。
寛政重修諸家譜』の諸家の記述を読んでいると、そうした感想にとらわれることが少なくない。

[ひとり言」 (17)で、8000の家康軍が左右に鶴翼(かくよく)の布陣を展開したと書いた。
対して、2万を越す武田方は、魚鱗(ぎょりん)の陣形を組んで、徳川側の中央突破を狙っていた。

池波さん『夜の戦士 下』(角川文庫 1976.5.10)p299 から引用する。

武田軍の陣形は、次のようなものであった。

先鋒部隊  小山田信茂(のぶしげ)
その右翼  山形昌景(まさかげ)
その左翼  馬場信春(のぶはる)

以上が第一部隊で、このうしろに第二線の部隊として内藤昌豊(まさとよ)と武田勝頼(かつより)が控えている。
そしてもその後方に、旗本にかこまれた信玄本陣があり、後尾を穴山部隊がかためていた。
どちらかといえば横にひろがった陣形ではない。そのかわり、信玄本陣までの、ふところが深いのである。

ちゅうすけ注】先頭部隊の構えの左・右は、徳川方から見てのものであることは、言うまでもない。

戦端は、石の投げあいから始まったといわれている。

小半刻(こはんとき 30分)もたたないで、戦陣は大混乱となり、徳川勢は押しに押されていた。

その戦況を、徳川方の武将・夏目次郎左衛門吉信(よしのぶ 55歳)は、留守をまかされた浜松城の櫓(やぐら)の上で観察、
(このままでは、家康公があぶない!)
判断するや、家の子郎党を引き連れて、戦場へ。

夏目吉信の[個人譜]を現代文に置き換えながら、引く。

元亀三年(1572)十二月二十二日。三方ヶ原合戦のとき、吉信は浜松城の留守を守っているように命じられていた。合戦がはじまったので、櫓にのぼり、形勢をうかがっていると、味方は勝ち目がなく、家康が危ないとみて、ただちに馬に乗り、一族を従えて家康の傍らへ駆けつけた。
「殿。数をたのみとしている敵兵は、幾重にもなってつきすすんできております。見方の戦列は乱れに乱れ、軍令もとどいておりませぬ。一刻もはやく浜松城へお退(の)きになって、反撃のときをお待ちなさいますよう」
阿鼻叫喚の中、家康へ言上したが、
「城下に敵が侵入してきているときに、勝負を決めないで退いたなら、敵はますます勢いづき、浜松城へのしかかってこよう。そうなってしまっては、ここで退いたことがなんの意味もなくなってしまおう。
いまは、死を覚悟して敵にあたるよりほかあるまいが。討死しても本望というもの」
馬の鐙(あぶみ)をけって、敵陣へ討ちこもうとする。

吉信は、馬から飛びおりて、家康の馬の轡(くつわ)にとりつき、
「殿。御身をまっとうなさっておられれば、今後も機会はありましょう。お願いですから、ここのところはご帰城くださいまして、勝運がひらくのをお待ちください」
「されど、吉信。ここで退いても、敵兵が追いついてくれば、結果は同じではないか。討死するともいさぎよい名分が残ろうぞ」
「後を追ってくる敵は、私めの一族がここに踏みとどまって、決して追わせるものではございませぬ」
家康の馬の頭を浜松の方へ向け、その尻を刀の峰で思いきりたたいた。
驚いた馬は、浜松めざして疾駆した。

見とどけた吉信は、与力25.,6騎をしたがえ、
「家康、ここにあり!」
と、敵の注意を引きつけながら、敵中へ一団となって切り込み、ついに討たれた。

夏目吉信も、じつは死に場所と死に時を求めていたようである。
というのは、11年前に三河で一向門徒が家康に反逆したとき、門徒側に与(く)みした吉信は、野羽城にこもり、松平主殿助伊忠(これただ)に攻められたが、よく耐えた。
内通者がでて、けっきょく、吉信は捕らえられた。
吉信の人柄を惜しんで、助命を乞う者があり、伊忠が引き取った。
このときの恩に、吉信家康の身代わりとなって報いたと、『寛政譜』の編者は見ている。

もちろん、吉信のこころの奥は、だれにもうかがえない。

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(夏目次郎左衛門吉信の個人譜)

つぶやき】夏目吉信のように、討死の状況がある程度うかがえる記述があるのに、長谷川紀伊守(きのかみ 37歳)正長(まさなが)と弟・藤九郎正久(まさひさ 19歳)の場合は、手がかりさえ記録されていないのは、[先祖書]に書かれていなかったからである(正長の墓は、焼津の信光院にある)。
もちろん、辰蔵(たつぞう 公式には平蔵宣義 のぶのり)だけを責めてはいけない。本家の主膳正鳳(まさたか 太郎兵衛正直の嫡子)にいちばん重い責任がある。
ついでにいうと、紀伊守の3男の末・栄三郎正満(まさみつ)にも、先祖を大切にせよ---といいたいが、彼は、焼津の林叟院の、正長の祖父か曽祖父にあたる法永(ほうえい)長者夫妻の墓石やら位牌を新装している。
この正満の養子になったのが、鬼平---平蔵宣以(のぶため)の次男・正以(まさため)であることは、たびたび述べた。

長谷川家の祖の祖---法永長者(生前は豊栄長者)が、司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫)に登場していることも、何回も指摘してきた。


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2008.07.03

ちゅうすけのひとり言(17)

鬼平犯科帳』のブロガー(ブログ立ち上げ人)として、三方ヶ原の戦死者にこだわっている理由は、大ざっぱにいって、2つある。

まずは、徳川方の新参武将としてこの合戦で戦死した、祖・紀伊守(きのかみ 37歳=討死時)正長(まさなが)の奮戦ぶりがうかがえる史料を求めていること。
討死したのは、緒戦だったのか、混戦時だったのか。弟・藤九郎(19歳 討死)や郎党はその時どこにいたのか。

つぎは、三方ヶ原の戦死者の遺族たちのその後のあつかいに過不足はなかったか。
新参というだけで、正長兄弟の遺族への報いが軽んじられてはいないか。

参照】Wikpedia [三方ヶ原の戦い

元亀3年(1572)12月22日。
2万余の武田方、対する8000の徳川軍は鶴翼(かくよく)の陣形をとったとされている。
鶴が翼をひろげたのに似た、薄く浅い配陣である。

池波さん『夜の戦士 下』(角川文庫 1976.5.10)p288 は、

(武田方の物見)坂部(七十郎)の探り見たところによると徳川軍の陣立は次のようなものであった。

右 翼   酒井忠次
中 央   石川数正
左 翼   本多忠勝・平手汎秀・佐久間信蔵(平手と佐久間
       の部隊は、織田信長からの援軍である)

そして、この左翼の後方に、大将・家康をかこむ旗本と、これに従う部隊がかためているというのである。

ちゅうすけ注】池波さんのこの記述は、徳川軍側からみての右翼・左翼である。
武田方から見ると、左右が逆になる。
池波さんが、浜松側から見た左右を書いているのは、徳川時代に描かれた合戦図のほとんどが、徳川方の目線に従っているからであろう。

最近の研究をまとめた本などは、
右翼   酒井忠次
その左  織田援軍
      小笠原長忠
中央   石川数正
その後方 家康と旗本
その左  本多忠勝
      榊原康政
最左翼  大久保忠世
いずれにしても、薄く浅い布陣であることは変わりない。
  
2年前、今川勢の一員として駿河国田中城を300人余で守っていた長谷川紀伊守が、攻め寄せた武田の大軍に、衆寡敵せずと、城を去って浜松へ走り、徳川家康の傘下に入ったとき、だれを頼ったかも史書は伝えていない。

竹千代時代の家康が駿府に人質になっていた時の従者の顔見知りということで、菅沼定秀(さだひで)、榊原忠政(ただまさ)、野々山元政(もとまさ)らのうちの誰かからの口ききがあったとしても、三方ヶ原のような大戦の場合は、石川数正(かずまさ)か本多忠勝(ただかず)に配されたともおもえる。

ま、その探求は今後の課題として、きょうのひとり言は、[ひとり言] (16)に記した、中根平左衛門正照(まさてる)についてである。
彼は、先記したように、天竜川ぞいの堅城・二股城の守将の一人であった。

寛政譜』はこう書いている。

東照宮につかえたてまつり、松平善兵衛康安、青木又四郎某らとおなじく遠江国二股城を守る。
元亀三年十月、武田勝頼および左馬助信豊、穴山梅雪ら、兵をひきゐてかの城を攻める。
正照よくこれを防ぐといえども、信豊・梅雪が謀によりて城中水つき飢渇におよびしかば、やむことを得ずして城をあけわたし浜松に帰る。

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(二股城址 木立の向こうは絶壁と天竜川)

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(二股城址の丘よりやや下手の天竜川)

(つづき)十二月二十二日、三方ヶ原合戦の時、さきに二股城の守りを失ひしことを恥じ、又四郎某と共にその一族家臣らをひきゐ、敵中にはせ入り奮ひ戦ひて死す。法名了運。

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(中根平左衛門信照の個人譜)

寛政譜』は幕府側が編纂したものだから、二股城を開城し、1300人近い部下の渇水死を救ったこともとりあげていないし、家康が中根正照と青木又四郎をゆるさず、浜松城へ入れなかったことにも筆がおよんでいない。

二股城は、武田勝頼軍の包囲にも屈っせず、2ヶ月も守って、信玄をイライラさせている。
それだけでもほめられるべきだとおもうのだが。
家康は、戦死した平左衛門の家を、再興させていない。

二股の旧町役場庁舎のかたわらには、500年前に篭城軍が天竜川から水を汲みあげていた櫓が復元されていた。

つぶやき】『鬼平犯科帳』文庫巻3[あとがきに代えて]には、

早いもので〔鬼平犯科帳〕も、三冊目に入った。
この機会に、主人公・長谷川平蔵について、いささかのべてみたいとおもう。
長谷川平蔵は、実在の人物である。
平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣(まさのぶ)の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元(よしもと)につかえた。
義元がも、織田信長の奇襲をうけ、桶狭間(おけはざま)に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、
「奮戦して討死す。年三十七」

池波さんは、どこかで、記憶ちがいをしたまま、ずっときている。作者が逝ってしまったいまとなっては、訂正のしようもない。
三方ヶ原を調べるたびに、もっと早く、池波さんに言ってあげるべきだった---とホゾをかむ。

【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
19 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
18 三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]2008.7.4
17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17


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2008.07.02

ちゅうすけのひとり言(16)

池波さんが『オール讀物』に発表した[錯乱]で直木賞を得たのは、昭和35年(1960)、35歳のときであった。
それまで、4回候補にのぼって、「5度目の正直」といわれた。

武田信玄と甲賀忍者・丸子笹之助が主人公の『夜の戦士』の地方紙連載を依頼されたのは、それから2年後である。

小説の舞台である川中島、信濃と遠江の境の青崩(あおくずれ)の峠、天竜川ぎわの要塞・二股城、武田軍と徳川軍の血戦がおこなわれた三方ヶ原(みかたがはら)などの取材は、受賞前の、流行作家になるはるか前に行ったものであろう。

池波さんはあるとき、
「なに。直木賞を受賞したからといって、当時は、すぐには原稿依頼なんかきませんでしたよ。だから、その間は、取材旅行ばかりしてました」
と話してくださったことがある。

その取材旅行が綿密なものであったことは、『鬼平犯科帳』に登場する盗人の〔通り名 (呼び名)ともいう〕に、静岡県の地名をつけられている者が25人もいることからも推察できる。
詳細は、当ブログのトップ・ページ左ウィンドゥのカテゴリーの[静岡県]をクリックしてご確認いただきたいが、2,3の例をあげると、文庫巻3[盗法秘伝]の憎めない老盗〔伊砂いすが)〕の善八は、二股城の北の集落の村名(現・浜松市)だし、巻11[]の京扇の店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛の現役時代の〔馬伏まぶせ)〕は、家康の城があった(現・袋井市浅羽)ところである。

先日来、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)が、従兄・権十郎宣尹(のぷただ 34歳=享年)の死によって遺跡の継承が認許され、寛延元年(1748)4月3日に江戸城・菊の間で申し渡されたときの、仲間16人の氏名を、『寛政重修諸家譜』全22冊8,800ページを総ざらえして、やっと13人発見したことは、すでに記した。

その1週間延べ60時間におよぶリサーチで、いくつかの副産物があったのである。
その一つが、元亀3年(1572)12月22日---。

夜の戦士 下』p277 から引く。

元亀三年、十二月二十二日朝。
ということは現在の新暦でいうと二月四日の朝である。
卯の下刻(午前七時)に、武田の軍団は二股城を発した。(略)

ときに家康は三十一歳であった。(略)

(このまま、信玄を、ぬけぬけと三河へ通しては---)
おれの威信は地におちよう、と家康は感じた。
(よし! たとえ信玄の首はとれずとも、一泡ふかしてやらねば---)(略)

こうして家康は、8000ばかりの軍団で、信玄の2万越える軍団に、三方ヶ原で戦いをいどみ、さんざんな敗北を喫した。

そのときの徳川勢の主だった戦死者のリストを、諸書から拾い、『寛政譜』で確認したものを、2008年6月[ちゅうすけのひとり言] (13)に掲出しておいた。

徳川の軍門へ入って3年目の長谷川平蔵家の祖---紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 37歳)と弟・藤九郎(とうくろう 19歳)が先手となって討ち死にしたのも、この負け戦さでである。

もちろん、池波さんは、そのことは、『夜の戦士』には採用していない。
その執筆中には、『鬼平犯科帳』が始められるなどとは、露、思っていなかったこともあったろう。

もし、『夜の戦士』を読み返してみようとお思いになったら、文庫『---』p255から10ページほどに注意を向けていただきたい。
天竜川ぞいの二股城の落城のくだりである。
川から水を釣りあけていたつるべ綱を、上流からの筏(いかだ)切られために城内の水が絶たれ、10日後に守将・中根平左衛門正照(まさてる)は降伏し、千数百人の将兵を引き連れて浜松へ向かったが、家康はこれを許さず、見付で待機させられた。

中根正照は、三方ヶ原を死に場所に選んだ。
戦死者リストの「な行」のトップに掲げてある。

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リストの2人目・中根喜蔵利重(とししげ)は別家で、二股城の降伏・開城にかかわりはない。

3人目の中根喜四郎利重(とししげ)が、こんどの『寛政譜』の総ざらえで発見した戦死者の一人である。
どの史書にも名が記されていないから、『寛政譜』も、あいまいに、

元亀三年十二月二十七日三方ヶ原の役に討死すという。

編纂のとき、日の間違いも訂正していない。
しかし、近い子孫が530石を賜っているから、まんざら虚報でもなかろう。

発見のもう一人は、渥美善七郎親吉(ちかよし 17歳=戦死時)。
北畠家に属していて美濃国厚見郡(あつみこおり)を領していたための姓という。
伊勢国白子城に住し、没落後、家康に仕えた。
信長が本能寺で自害したとき、家康は危難の伊賀越えをして白子浜へたどりつき、船で三河へ帰った。
渥美家家康に対する功績は、そのときのほうが、三方ヶ原での親吉の戦死よりも、大きかったかも。

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(三方ヶ原の戦いで討死した渥美親吉の個人譜)

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(渥美家の『寛政譜』)

参照】家康の伊賀越えは、2007年6月13日~[本多忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

寛政譜』に記されているこの2人の戦死者が、なぜ、史書に採られなかったか、いや、これまで、ほとんど省みられなかったことも含めて、静岡県の郷土史家の方々と話し合ってみたいものである。

もちろん、当ブログを覗いてくださっている方であれば、もっと喜ばしい。

【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
18 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
[3http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/02/post_bc6e.html 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17


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2008.07.01

平蔵宣雄の後ろ楯(16)

深川八幡宮の境内の料亭〔二軒茶屋・伊勢屋〕での、若者たちによる〔初卯(はつう)の集(つど)い〕は、暮れなずむ六ッ半(午後7時)に退(ひ)けた。

料亭が、虎の門方面、神田川方面へと、2艘の屋根舟を蓬莱橋の舟着きに用意してくれていた。

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(深川八幡宮舟着き 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

虎の門行きには、
長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石 赤坂築地)
石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石 麻布笄町)
名取半右衛門信富(のぶとみ 23歳 800石相当 赤坂今井谷)
板花安次郎昌親(まさちか 20歳 100俵 西久保城山)
の5人と、名取信富の小者が乗った。

神田川・市ヶ谷ご門方面へ行く舟には、
倉林五郎助房利(ふさとし 28歳 160石 小石川ご門)
波多野伊織義方(よしかた 27歳 200石 裏大番町) 
米津昌九郎永胤(ながたね) 27歳 100俵 駿河台袋町)
田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵 本銀町)
それに、番町の親類に宿泊している、
本多作四郎玄刻(はるとき) 21歳 200石)
が便乗した。

湯島天神石坂下通りへ帰る松平(松井)舎人康兼(やすかね 18歳 2000石)には、馬を牽いた馬丁が待っていた。

宣雄たちの舟は、横川から大川へ出、佃嶋の西へむかう。
煙管に火つけた石河勝昌が、宣雄に訊いた。
「宴席からずっと拝見しておりましたが、長谷川どのはお酒もさほどに召されないし、煙草もおやりになりませんでしたが?」
「家にずっと病人がおり、とくに煙草の煙がいけないと医者が申すものですから、不調法のままきてしまいました」
「これまで、一服もおやりにならなかったのですか?」
「家には、煙草というものがあったためしがございません」
「出仕して、なにが困るといって、柳営では煙草が吸えないのが一番つらいといわれております。おやりにならないに、こしたことはございませぬ」

「さよう、さよう」
名取信富も煙草入れから煙管を抜いた。
「そういえば、ご老中のお歴々はおたしなみにはならないそうですな」
「お上がお召しにならないからと聞いております」
板花昌親が煙に咳こみながら言った。
「これは、失礼つかまつった」
石河名取が、そそくさと煙管をしまう。

長谷川どのは、新田開墾におくわしいと聞いております。家も近くのことゆえ、いちど、お教えいただきたいと考えておれります」
名取信富が話題を変えた。
「どちらにおさずかりでございますか?」
「常陸国茨城郡(いばらぎこおり)宮田村とか、美濃国安八郡(あんはちこおり)北方村(現・大垣市北方町)とか---」

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(霞ヶ浦北岸へ注ぐ園部川東岸の宮田村 明治20年の地図)

「茨城の宮田は存じませんが、美濃の北方村は、中山道を上りましたみぎりに通りましたので、土地勘があるかと---」

Photo_3
(焦げ茶=中山道、水色=揖斐川、青〇=北方村 明治21年の地図)

知行地が小さかったり、蔵前米取りだったりで、石河勝昌と板花昌親は、まったく興味を示さなかった。
それを察した宣雄は、
「小普請のあいだは、時間はたっぷりとございますので、いつにてもどうぞ」
話題を打ち切った。

ちょうど運よく、虎のご門の舟着きにつき、陸(おか)にあがり、あいさつを交わして、それぞれの方角へ、宵の中を散っていった。

つぶやき】引用した2枚の地図は、参謀本部陸地測量部がいずれも明治20年(1880)ごろに制作し、江戸後期にもつとも近く、かつ、正確なもの。
茨城郡宮田村については、たぶん、ここか---という程度で自信がない。
美濃国安八郡の北方村は、あるいは、もっと北東の大きい集落の北方かもしれない。

それぞれの地元の教育委員会や鬼平ファンの方のご教示いただけると重畳。


 

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