明和4年(1767)の銕三郎(14)
「母上は、於嘉根(おかね 3歳)が可哀そうとお思いにならないのですか?」
箱根・芦ノ湯村から帰った銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、母・妙(たえ 42歳)に迫った。
於嘉根の母親・阿記(あき 享年25歳)がみまかった。
於嘉根の父親は、銕三郎である。
4年前に、縁切りの東慶寺へ入る決心をして婚家を出た阿記と、偶然に知り合い、そういうことになった。
【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (27) (28) (29) (31) (36) (37) (38) (39) (40) (41)
「それは、阿記どのがお亡くなりなったのですから、可哀そうは、可哀そうです」
「そのようなことを、言っているのではありませぬ」
「それでは訊きますが、かわいそうな場面にでも立ちあったのですか?」
「じかに、立ちあってはおりませぬ。しかし、於嘉根には伯父にあたる、阿記の兄・次太郎(じたろう 28歳)が、まもなく家業を継ぎます。その次太郎の嫁・お露(つゆ 20歳)どのは、臨月近いのです。その子が産まれますと、於嘉根の立場はぐんと弱くなりましょう」
「去年、わたくしが於嘉根さんを、わたくしの子としてお上にとどけ、長谷川のむすめとして育ててもいいと申しあげたとき、阿記どのはお断りになったのですよ」
【参照】2008年3月19日~[お嘉根という女の子] (1) (2) (3) (4)
2008年4月11日~[妙の見た阿記] (1) (2) (3) (4) (5)
「阿記が生きていればともかく、あのときといまでは、事情がちがいます」
「銕三郎の心配を、今宵、殿に申しあげてみます。それでよろしいですね?」
「はい」
銕三郎は、湯治宿〔めうがや〕の女中頭を長年勤めてきた都茂(とも 47歳)が、次太郎の次右衛門襲名とともに、〔めうがや〕を辞めてほかへ移るつもりだと言ったこと、次太郎の采配と推察したのだが、阿記の葬儀のあいだ、於嘉根を本家・茗荷屋畑右衛門(はたえもん 60歳がらみ)へあずけて、銕三郎のことを無視したことから、彼の悪意を察したのである。
夕食のときには、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)は、何も言わなかった。
膳が下げられると、茶をすすりながら、
「銕三郎。於嘉根のことだがな、去年までなら、齢を偽ることもできた。しかし、3歳にもなっていては、ごまかしようがない」
武家でないところからの養女は認められないから、そのあたりを偽装したとして、発覚すると、まず、役は召しあげられ、よくて謹慎、悪くすると、閉門・小普請入りになる。
庶民の手本であるべき武士(官僚)は、偽りごとを言ったりしてはならない、という法度の根本なのである。
とくに宣雄の場合は、両番(小姓組と書院番士)の家柄ではあっても、先代までは役料のつく地位にはのぼっていないだけに、その出世ぶりは嫉妬され、役を待っている幕臣たちが鵜の目鷹の目で落ち度がさがしている。
「わが家が置かれている実情は、そういうことだから、武家への養女はあきらめよ」
「ということは、町方へ、ということでございましょうか?」
「奥の考えでは、実家の妹に子ができないのがいる---そこの養女になら、話のもっていきようがありそうだとのことだ」
宣雄の内妻、銕三郎にとっては産みの母---妙の実家は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の庄屋・戸村五左衛門方である。
「寺崎村でございますか?」
「それも、先方の意向をたしかめた上でのことになる」
「〔めうがや〕が、素直に、於嘉根を渡してくれましょうか?」
「そちは、どう、おもう?」
「いまのご当主の次右衛門どのはともかく、阿記の兄・次太郎がどういう難題をもちだしますことやら---」
「そのことなら、術(て)はないこともない」
「------」
「田沼さまのお力にすがる」
「田沼さま?」
「芦ノ湯村は、小田原藩のご領内だ」
「あ。田沼(主殿頭意次 おきつぐ 48歳 側用人 相良藩主)さまのご用人・三浦さまから、大久保(小田原藩主)さまのご用人へ---」
「湯治宿〔めうがや〕の本家は、畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門と申さなんだか?」
「さようでございます」
「上のほうの地位を得ている者ほど、その地位を失うことを恐れるがために、権威に弱いものじゃ。言葉が悪かった---なじみたがる、とでも、言いなおしておこう」
【参照】2008年1月26日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (6)
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